1:平清盛 (古志城の戦い)
2:卑弥呼と妲妃 (五丈原の戦い)
3:遠呂智と妲妃 (五丈原の戦い)
4:妲妃と伊達政宗 (五丈原の戦い)
5:司馬イ (五丈原の戦い)
魔王復活の儀で未だ空気を揺らし翳ろう祭壇に、清盛は腕を伸ばそうとした。祭壇に主の名残を求めたのかもしれない。あるいは、自身の生まれた場所に対する郷愁かもしれない。そしてふと、清盛は己を見下ろし、くつくつ笑った。腕は断ち切られ、血の轍を引きながら床へ落ちている。あるはずもない腕を伸ばすなど、到底叶うはずもなかった。
最早痛みも熱も感じない。端から、痛みなど清盛にはなかった。遠呂智は清盛を生成するとき、彼をその様に仕立て上げたのだ。だから、腕がなくとも気付かない。尤も、死に瀕した今となっては、腕の一本や二本なくなったところで、大差があるとも思えなかった。
血の滴る傷口を見やり、清盛は己の最期を思い返した。確か、あのときも腕を斬り落とされたのだ。獲物を握る方は手首ごと落とされ、無様に空を飛んでいった。あのときの無念、怒り、驚嘆を今も清盛は覚えている。あまりの痛みに脳は焼け付き、爛れ落ちるかと思うほどだった。心底死を恐怖したのは、後にも先にもあのときだけだが、その恐怖は依然として清盛の中で燻っていた。それは、無力な人間に対する憤怒と同義でもあった。
そう、人間はあまりに無力だ。清盛は左手で祭壇を撫ぜた。青黒い血がべたりと掌の形を成した。清盛はその血を茫洋と眺めた。
人間はあまりに無力だ。だからこそ、必死に生きる。永遠に等しい生を享受する仙人や魔族とは全てが違う。圧縮された時間は光り輝き、今となっては眩しい限りだ。遠呂智はその生に焦がれ、焼き尽くされることを望んでいる。主が求めるものは終わり、それのみだ。それでもなお清盛に復活を託したのは、強者との決着をつけたいからだろう。清盛は魔族としての短い己の生の中で、その結論を導き出していた。それは乾き切った解答だったが、清盛に離反を、あるいは主の復活を躊躇わせるような思いを起こさせることはなかった。清盛は真実、魔王遠呂智に心酔していた。
人間を侮った前回と違い、主はきっと力の限りを尽くして戦うだろう。その光景を見ることの叶わない現実に嘆きつつ、清盛は重い瞼を閉ざした。境遇や思想は異なるといえど、決意を同じくする者がいる。妲妃、政宗、彼等が主の最期を見届ける。自らが見れなくとも、それで十分ではないか。それに出迎える者がいなければ、あの主のことだ。機嫌を損ねてしまうかもしれない。
「地獄で、お待ちしておりますぞ…。」
自分はこの場所で主に生み出され、そして、主の元へ還る。己の全てが主に尽くすためだけにあった。その事実に、清盛は歓喜の中で死を受け入れた。
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卑弥呼は何が起こったのかわからなかった。衝撃は一瞬にして痛みに成り代わり、強烈で鮮明なそれに卑弥呼は思わず手を当てた。痛い。ぬるりとした布の感触も数秒のことで、すぐさま手は血液でしとどに濡れた。
卑弥呼が妲妃に攻撃されたのだとようやく思い至ったのは、妲妃の哀れむような顔を見た後だった。
「妲己ちゃん…うちのこと嫌いになったん?…なんで…?いやや…うち…好きやったのに…。」
失血で足元が覚束ず、卑弥呼はふらつき尻餅をついた。血はどんどん溢れ、流れ出していく。どうしたら良いのだろう、と卑弥呼は混乱する中で思った。妲妃ちゃんに裏切られた。大好きな大好きな妲妃ちゃんに裏切られた。そのことで頭の中がいっぱいで真っ白で、それ以外、卑弥呼は何も考えられなかった。痛い。酷い。妲妃ちゃん、どうして?
卑弥呼の悲しみに歪んだ顔を見て、妲妃が緩く頭を振った。
「そうじゃない、そうじゃないのよ。卑弥呼。ごめんなさい。」
そんなの、信じられへん。だってうち、刺されてんねんで。悔しさや失血に震える唇で、卑弥呼はそう返そうとした。だが、滑らかな頬を流れ落ちた涙に、卑弥呼は言うのを止めることにした。理由があってのことなら良い。泣いてくれるなら良い。政宗は甘いと卑弥呼を叱るだろうが、それでも、良い。卑弥呼は妲妃のことが大好きなのだ。泣いてくれるならば、信じることが出来る。どうして、傷付く人を前にして信じる道を放り出せるだろう。
うちだけは信じてあげな。妲妃ちゃんは、好きでやってるんちゃう。卑弥呼はぽろりと涙を溢した。妲妃の苦しみを分かり合えなかった、自分の弱さが悔しかった。
「妲己ちゃん…助けてあげられんで…ごめんな…。」
伸ばした卑弥呼の手には血がついていた。妲妃の綺麗な手を汚してしまう。そう思い引っ込めようとした卑弥呼の手を、妲妃は強く握り締めた。指先は真っ赤な血で染め上げられ、卑弥呼は勿体ないと思った。白魚のような手は優しさに満ちて、卑弥呼は妲妃の手が一等好きだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、卑弥呼。本当に、ごめんなさい。」
ええねん。妲妃ちゃんのためなら、別にええねん。せやから、泣かんといて。妲妃ちゃん、大好きや。
政宗に連絡を取ろう。卑弥呼は遠退く意識で思った。政宗なら、妲妃の哀しみを癒してくれるかもしれない。それが無理でも分かち合ってくれる。言えば機嫌を損ねてしまうだろうが、妲妃と政宗は根底が似ていると卑弥呼は思った。遠呂智が大好きで、遠呂智が全てで、優しくて、少し哀しい。
二人が全てをかけて信じる遠呂智を、卑弥呼は正直なところあまり知らない。ただ、卑弥呼は妲妃のためなら何でもしたかった。
ただ、それだけが、本心だった。
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「よかった、ここで勝てたら寂しすぎる。」
妖力で浮かぶ武具は遠呂智に当たらず、ただ無様に空を横切った。その現実に、妲妃は花のような笑みをこぼして、左手を廻旋させ武具を呼び戻した。別に、遠呂智に当たっても構わなかった。だが、ここで当たっては寂しすぎた。
殺すのは寂しい。正直、嫌だ。出来うることならば、遠呂智と共に何処までも行きたい。
しかし、ここで殺せねば、きっと妲妃はこの先後悔するだろう。遠呂智が再び封じられることだけは、何としてでも、例え殺めてでも防ぎたかった。
再度武具を構える妲妃に、遠呂智は呆れたように嘆息した。もしかしたら、本当は妲妃如き、遠呂智はどうでも良かったのかもしれない。だが、それが裏切られたことに対する落胆ならば、と思えば、妲妃の心は慰められた。
殺気がびりびりと空気を揺らし、あまりのすさまじさに足が竦んだ。
「ふふっ、遠呂智様ったら容赦ない。遠呂智様…これだから離れられない。」
妲妃は笑って、遠呂智に飛び掛った。例え己が命を落としても、それでも、遠呂智を殺めたかった。
妲妃の予想に反し、妲妃はそれほど怪我を負わなかった。遠呂智も満足そうにその死を迎えた。否、それが満足のいくものであれば、と妲妃が願っただけかもしれない。
「妲己…その衝動…見誤った…。」
遠呂智の断末魔を妲妃は茫然自失の呈で聞き届け、それから自嘲の笑みをこぼした。
そう、我らが魔王は、それが誰であれ、死をもたらす者を望んでいた。それは、妲妃は気づいていなかったが、敵ではなく自軍の者でも良かったのだ。死が、仮初でなく、永久の死でさえあれば。再び闇に閉じ込められることもなく、長い退屈を感じることもなければ。
魔王はそれらを厭うた。だから、妲妃たちとの戯れよりも、それらを避ける道を選んだ。それゆえの、この、最期の台詞。私も知っていて、この道を選んだんじゃない。遠呂智様を殺害し、彼を復活させる卑弥呼も抹殺した。全て彼のためだった。
いいえ、それは本当かしら?
妲妃は震える指先を隠すよう拳を握り締めた。私が、そんな遠呂智様の姿が見たくなかっただけ。ううん、それも違うわ。私は、戯れに、遠呂智様を倒せるかどうか試してみたかっただけよ。勝手な理由で愉しみたかったの。そう、それだけ…それだけだわ。だから、私は遠呂智様に勝てて満足しているはず。あれだけの心躍る恐怖と戦闘。十分愉しんだもの…。
思い出しなさい!妲妃は己を叱咤して、笑い出した。自嘲することなんてない、胸を張って誇りなさい!私は知っているはずよ!そう、私は、妲妃!衝動のままに生きる女、それこそが私!
笑みは頬で強張りぎこちなく歪んだが、妲妃は気がつかなかった振りをして、声を立てて笑った。私は魔王を倒したのよ!遠呂智様を!偉業を成したのよ!妲妃は甘美なはずの勝利に酔いしれ、引き攣れを起こすほど楽しげに笑おうとした。
しかしそれは、空虚に響いた。妲妃は、己が微塵も楽しそうに笑えていない事実に頭を殴られた思いで、地べたに座り込んだ。虚ろな視線を向ければ、横たわった遠呂智の髪が乱れ、額にかかっている様が見えた。妲妃はそれをいまだ震え続ける指先で撫でつけ、肩を落とした。
妲妃が仙人たちの増長を防げていれば、このような結末はなかった。きちんと目を配れていれば、こんなことはなかった。遠呂智と、卑弥呼と、政宗で、いつまでも笑って暮らしていれた。嘆いても嘆ききれない現実に、妲妃は遠呂智の手を取り、己の頬に当てた。その手の甲の冷たさに、妲妃の中で愛しさと絶望が渦巻き、荒れ狂った。
ああ、どうしてかしら。こんなの…、こんなのって…。
「あなたの側を…離れたのが失敗…。」
楽しかった日々の出来事が、走馬灯のように脳裏を過ぎった。妲妃の眦を涙が伝い落ち、遠呂智の手の甲に当たって濡らした。
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「政宗さん、私を倒してどうするつもり?」
妲妃の発言に、政宗は眦を上げて銃を突きつけた。妲妃の足元に横たわる遠呂智の姿は、政宗の中の絶望と憤怒を煽った。卑弥呼の言ったことは本当だったのだ。誰が裏切ろうと、清盛と妲妃、それに卑弥呼だけは、遠呂智を裏切るまいと信じていたのに。嫌っていても憎んでいても、腹の内では同志だと思えていたのに。
勝手に抱いた理想を撥ね退けられたこともあり、政宗は妲妃に対する憎悪で目の前が赤く染まっていた。
「それは後から考える…貴様の処刑が先決じゃ!」
「後から…、ねえ。ふふ、そう。後があるのね、あはは、政宗さんには。私にはないけど?だって、死んじゃうんでしょ?」
「煩い!謀反を起こしたものの末路は決まっておる!」
その言葉の何が可笑しいのか、妲妃は箍が外れたように仰け反って笑い始めた。
「謀反!」
つんざくような笑い声は、何処か、悲鳴や泣き声に似ていた。
「あはは、あは、あはははははは!謀反、なんて笑わせるわ!私は遠呂智様が望むとおり、衝動のままに踊っただけ!それを知らない貴方でもないでしょ、政宗さん!」
「っ、煩い…っ!」
そうとも、本当は知っていた。だが、知らない振りをしていたからといって、何が悪い。遠呂智は死を欲していた。しかし、それは彼に夢を抱く政宗には叶えられなかった。だから、現実に蓋をして、心の闇の奥深く仕舞い込んだ。封じ込めたのだ。
政宗は、初めて遠呂智が死んだときを覚えている。訃報を耳にしたのは、戦中だった。隣には司馬イの姿があった。そのとき胸を過ぎった諸々の感情を、政宗は決して忘れないだろう。それは酷く政宗を狼狽させた。遠呂智の訃報に対してではない。友の訃報に際し抱いた感情にこそ、政宗は強かに狼狽したのだ。
政宗はひとまず退却すると、動揺の走る軍を立て直し、彼の代わりに天下を目指した。その傍らには常に司馬イの姿があった。司馬イが気づいていたのか、定かではない。だが、ともあれ彼は、長坂まで政宗に付き従っていた。遠呂智の天下、その旗印の下では政宗の盟友だった。
だからこそ、政宗は決して悟られてはならなかった。誰にも言えるはずがない。政宗は、遠呂智の死に、安堵したのだ。何故なら、少なくともその初めての喪失は、政宗に現実を直視させることはなかった。遠呂智が死を欲していた事実を思い知る必要はなかった。
だが、政宗は矜持が高いがゆえに、そんな安堵した己に憤り、再び彼を喪失することを恐れながらも、遠呂智の復活を目論む妲妃らに手を貸すことにした。もう避けることのできない終幕が待ち受けていることを知りながら、知らぬ振りをした。そんな政宗に、かつての盟友慶次は哀れみの眼を向けた。だが、政宗は気づかぬ振りをした。耳を塞いで、目も閉ざして、全部全部、気づかぬ振りをし続けた。知らない、わからない、と言い張り続けた。
そのせいかもしれない。政宗の心の闇を暴き、その蓋を開き現実を晒した女が、己では叶えられない夢を遠呂智に与えた女が、どうしようもなく憎かった。親友の本願を汲み取り、軍を裏切った慶次でもない。主君のために死んだ清盛でもない。政宗は、愛する男を自分だけのものにした妲妃こそが憎くてたまらなかった。そしてそれ以上に、妬ましかった。
反撃らしい反撃もせず、妲妃は政宗の前に屈した。妲妃は口端を吊り上げ、嬉しそうに笑った。まるで、この結末こそを望んでいたとでもいう風な妲妃の態度は、政宗を困惑させた。それでも、胸で燻る負の感情に、政宗は気づかなかった振りをした。それは、政宗が遠呂智の本心に気づいたときと全く同じ対応だったが、政宗はそのことに気づかなかった。
「これくらいで、自惚れないでよね…。」
妲妃は血に濡れた掌を差し出し、政宗の頬に触れた。どうしてか、政宗は振り払う気が起きなかった。べたりと血糊が頬を汚した。
妲妃は満足そうに政宗の頬を撫ぜ、そうして、間もなく息を引き取った。
「私と遠呂智様の…邪魔をしないでよ…。」
妲妃は己こそが勝利したことを確信して、あちらに逝った。遠呂智に折り重なるようにして倒れ伏す妲妃に、政宗は羨望の眼差しを向けてから、唇を噛み締めた。
そう、知りたくなかった。でも知っていた。
だが、己が気づいていることに、本当は、気づいていた。
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それは突然の撤退だった。あまりの素早い動きに、思わず罠かと思われるほどだった。だが、釣り野伏せにしたところで、それはあまりに急行すぎた。軍内には、かの伊達軍が遠呂智に反旗を翻したとの誤報が流れ始め、自然、空気は動揺したものになった。
しかし司馬イは、そのようなはずがあるまい、と一人落ち着き払っていた。あの竜は誰より遠呂智に心酔していた。魔王を解き放った妲妃をもってしても、あるいは魔王に作られた清盛をもってしても、到底叶うことのないほどの信愛だった。盲目なまでに、竜は魔王のことを信じきっていた。
それは、傍から見れば愚かなことだった。独りよがりの、偶像を押し付けているだけとも取れる惨めったらしい行為だった。
遠呂智の望みは、永遠の死。強者に討たれて、この世を去ること。それだけだ。誰にもそれを変えることはできない。
「己の器も計れぬとは、哀れな竜よ。」
つい洩らした呟きに、月英が怪訝そうに司馬イを見つめたが、司馬イは意識してそれを無視した。それが月英ではなく、政宗の動向を気にかける家康、あるいは星彩であったなら、司馬イも何か告げたかもしれない。だが、相手は月英だった。月英が烈しい気性であることを、司馬イは身を持って知っていた。月英は他を切り捨ていくことで、自らを保つ性にある。そのような彼女に告げたところで、理解されるとは思えなかった。
『手に負えぬ…馬鹿め…。せいぜい暴れ、もがくがいい。』
それは、離反する際、政宗に直接告げた台詞だった。司馬イが言うと、政宗は眉間に皺を寄せて、憎憎しげに司馬イを睨んだ。
だが、司馬イは知っていた。その隻眼に諦観の色が浮かんだことも、結局のところ、政宗も遠呂智の願いを知った上でこの戦に加担していることも、政宗自身知らないことすらも。
地に落ちた竜は酷く惨めで、哀しいくらい輝いていた。かつては司馬イ自身、その輝きに惹かれ、仕えていたほどだ。
何故、あの灯を自ら抹消しようとするのか。
「手に負えぬ…馬鹿め…。」
喧騒の中、司馬イは苛立ち紛れに吐き捨てた。
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初掲載 2008年7月頃