Tiana / ジルオールインフィニット


 遠くで空気がざわめいていた。まるで汐の様な音はざあざあと義の耳を撫でた。引いては満ち、満ちては引く音が己の錯覚の産物であることを、その時、義は知る由もなかった。ただ呆然と彼女は、己の小さな手の中から零れ落ちた大切なものを思い、自失していた。
 ばたばたと音が近付いてきた。何かを引き止める様な音と、それを振り払う様な低く怒りに満ちた唸りも。その唸りは何処か、傷付いた獣が差し伸べられた手を恐れて上げるものに似ていた。どれだけ行為が無意味であろうと、哀しい決意で噛み付く獣だ。彼は、己が撃ち殺される運命を知っているのだろうか。その足掻きは無残で見苦しく、ただ、哀れだ。そんな獣に、その声は似ていた。
 それは周囲の必死の制止を振り払い、義の自室の障子を開けた。差し込む光にそれの面は影法師に包まれ見えなかったが、義はそれの顔を見ようとすらせずに、ただ己の掌をじっと見ていた。
 「…、満足ですか。」
 義の様子に、それは呻いた。それは雪に埋もれた刀の様にぞっとするほど冷たさを孕んでいた。
 冷気に白く張り付いた鋼の声に、義は俯いた顔を上向かせた。其処には何時か見た顔が憎悪と悲痛の間に揺れていた。だが、義にはそれが何時見た顔なのか判然としなかった。義は、悲しみに思考を放棄した頭でぼんやりと、このものは一体誰だろうと思った。
 義の茫洋とした物問う視線に気付いたそれは、気がふれた様に笑い声を立てた。何かの強い感情に、それの身体はぶるぶると震えていた。その笑い方に義は些か恐怖を煽られた。こんな風に狂気を露にして哂う存在を、これまで義は見たことがなかった。その存在は、大きな隻眼に、異人の様に赤い髪を持っていた。だから、義はそれを鬼だと思った。それは義のことを罰しに来たのだ。
 恐怖に白く染まった面でまんじりともせずそれの狂乱を見詰め、義は鬼の持つ刀に目を落とした。刀は流された血にしとどに濡れ、その切っ先は無様な位酷くぶれていた。張り替えられたばかりの畳の上に、ばたりばたりと血の雨が降り、飛沫で以ってして円を描いた。
 「わらわを殺しておくれかい。」
 僅かな望みに、思わず、義は手を伸ばした。もう何が原因か忘れてしまった。もう考えることはしたくなかった。ただ、義は全ての終わりのみを欲していた。死は怖くなかった。今はかつて厭うていた死という存在以上に、生存そのものが訳もなく恐ろしくてたまらなかった。昔の義はその訳を深く承知していたが、今の義の頭からはすっかり抜けてしまい、何故生を厭うのかわからなかった。ただ、そのときの義にとって、鬼の持つ血塗られた刀だけが大切なことだった。この気がふれた鬼は、自分の鼓動を止めてくれる。それだけが義にとって現実だった。
 だが、義の綺麗に整えられた爪先が届く前に、ふいと切っ先は逸らされてしまった。
 義と鬼の視線が合わさった。
 その時、義は、鬼の裡の絶望を知った。鬼の絶望は、高く逆巻く浪の上の断崖の絶壁で目隠し鬼をする童子の様だった。己が危地にあることを知らないのか、知っていてそれを楽しんでいるのか、見るものの胸が痛むほど真摯な絶望だった。義は眩暈に襲われ、床に手をついた。闇の深遠を覗きこんだ気がした。
 僅かに鬼の手が、差し伸べようとするかの如く揺れた。そして一瞬、星明り一つない夜空を映した海に白浪が一つ現れて、消えた。しかし、それが何なのか義が捉える前に、浪は闇に姿を消した。
 「満足ですか、母上。」
 己を母と呼ばわった鬼に、義は力なく瞬きをした。その拍子に、長い睫毛が溢れた涙に濡れた。忘れていたことを、忘れたかったことを義は思い出した。深くやり切れない哀しい絶望に、義は面を覆って囁いた。
 「わらわの子は死んだ。死んでしまった。もういない。わらわは亡くしてしまった。」
 夫も、子も、何もかも失った。義の手元には何ひとつない。大切で愛おしいものは全て、手の器から零れて消え去ってしまった。力なく肩を落とし涙する義を、鬼はあの暗い目で眺めていた。その眼に再び浪が翻ったが、泣き続ける義は気付きもしなかった。
 鬼は自身の握る刀を見やり物思う様に少し目を細めると、吐息の様な声で義を詰った。
 「わしをかような化け物にしたのは、母上。貴女じゃ。わしは貴女が生んだ醜い化け物じゃ。」
 それが何を意味したのか、義にはわからなかった。義の心は身体を離れ、死した夫子の元へ旅立っていた。
 「貴女はきっと、満足であろうな。」
 鬼は強く刀を握り締め、そう憤懣やるかたない風に唸った。しかし、義の硝子玉の様に煌くだけの瞳には、失くした者の姿など微塵もなかった。鬼はそれを知り、一縷の望みすら手放してしまった。
 鬼のあどけなさを残す滑らかな頬に一筋の透明な雫が滴った。











初掲載 2008年8月6日