Samsaracakra


 「あなたの望みは何です?政宗殿。」


 扇をそよとはためかせ投げかけられたその言葉に、政宗は諸葛亮を振り仰いだ。己で問うておきながら、つまらぬ素振りで諸葛亮は遠くを眺めている。いつも通りの飄々としたどこまでも涼やかな横顔に、政宗は強い苛立ちを感じて眉間に深く皺を寄せた。
 この男はいつもそうだった。旧友相手に水も洩らさぬような陣を布いたかと思いきや、僅かな隙間を作っておいて、策が打破されることすらも見透かしている。何を企んでいるのかと妲妃が問えば、先を読んでいるなどと嘯く。
 その先が遠呂智の天下ではないことなど周囲は重々承知であるのに、それでも諸葛亮の策を乞うのだ。あの妲妃だって、そうである。政宗はそれが気に喰わない。
 「決まっておろう。わしの望むるは、永劫不滅の遠呂智の天下じゃ。」
 そよと再び、諸葛亮が扇を動かした。続いて訪れた長い沈黙に諸葛亮に答える気がないのだと知り、政宗は馬に跨った。向かうは、蜀軍の待つ街亭だ。見送りの軍師を一瞥してから、政宗は手綱を強く引いた。




 未だあちこちで戦火が燻り、空へ煙を立ち上らせている。
 政宗は荒い息を吐きながら、震える指で兜を外した。極度の疲労に最早立っていることさえ困難だ。政宗は一人集団を抜け出し、石畳に腰を下ろした。劉備を救出したかった訳ではない。趙雲や幸村や孫市とは違う。政宗の望みはそこになかった。
 『あなたの望みは何です?政宗殿。』
 結局、諸葛亮は何もかもを見抜いていた。
 苦味に強く唇を噛むと、何かが政宗の頬を掠めた。驚いて空を見上げれば、夕焼けに染まった雲一つない晴れ間からぱらぱらと雨が降り始めている。
 ふっと政宗は、かつての世界で聞いた話を思い出した。話してくれたのは、師が寺に招いた大陸の僧だった。
 東方の海には蓬莱と呼ばれる仙境がある。そこでは動物も草木も人さながらに言葉を操り、全てを享受して満ちたりた生を歩むのだという。老いも死も病もなく、あるのはただ幸福だけ。大陸人は、そこには全てがあるのだと言った。
 または彼は、天竺と呼ばれる地の話もした。
 天竺で信仰されている仏教の元となった宗教では、原初のものとして生じ一切を創造した存在は、梵天と呼ぶのだという。梵天は他神に梵と太陽の原理を教え、世界の維持を彼に任せた。彼は世界が湿婆によって壊され梵天に新しく創造されるまで、維持を続けていくのだという。
 また天竺の原人讃歌においては、創造は原人によってなされた。眼より太陽、気息より風が生じたといわれ、人が死すれば眼は太陽へ、気息は風へ帰っていく。
 小十郎が問いを発したのはそのときだった。そも、太陽とは何なのか。太陽について説明がされていない。
 大陸人はこう説明した。善行が蓄積され、死後天界に還る素地を造る場所。梵を知ったものだけが至れる、輪廻を逃れ不退転位を貫く場所。
 大陸人は政宗に問うた。
 「因たる梵とは何ぞや。そも何処より生じ、我らは何によりて生存するや。また何処に依止するや。何ものに支配せられて我らは苦楽の裡に状態に赴くや。梵を知る者よ。」
 あれは梵天と呼ばれていた隻眼の童子に対する冗句なのだろう。それは天竺に伝わる優婆尼沙土の一節だったと、後になって政宗は知った。
 「一度生れ、また生れず、誰か再び生れしむ。梵は識なり、歓喜なり。施す人の喜悦なり。ことわり知れる寂黙の、人の赴く果てにこそ。」
 煙となりて上りし霊体は、雨となりて地上に還らん。すなわちこれ輪廻なり。
 「業の繋縛を脱せぬかぎり、生々流転を免れぬ。」
 大陸人はそう言って、政宗の右目跡へ視線を向けた。彼はそこに一体何を見出したのだろう。当時の政宗にはわからなかったが、全てを見透かされているようで何か空恐ろしい思いがした。
 『あなたの望みは何です?政宗殿。』
 本当はわかっていたのだ。全てがいずれは壊れる世界で永劫不滅がありえないことも、遠呂智が死を欲していることも、天下が望めそうにないことも、政宗は全てわかっていた。諸葛亮は童のように全てを欲しがる政宗の夢の矛盾をあまねく見抜いていた。
 神は天に在し、世界はすべて狂っている。神たる遠呂智が生きていくにはあまりにも、世界は脆く、つまらない。統治する価値すら見出せない、醜くも美しい、人の世界だ。政宗が蓬莱だと信じた場所も、神を満たすことはなかった。
 ならばせめて、政宗は、己の手で世界を終わらせたかった。それが唯一つの望みだった。
 雨に張り付く前髪を分け、政宗は天を仰ぎ見た。段々強くなっていく雨に遠呂智はいない。太陽へと逝ってしまった。その傍らに己の右目がある様を浮かべ、政宗は一人ひそりと笑い、零れた涙を知らぬ振りをした。


 新しく創造された世界――少なくともこの場所に、神はいない。











初掲載 2007年11月16日