孫市が政宗と赤壁で対峙したのはいわば必然であり、けれど避けようと思えば避けることのできる必然でもあった。孫市は政宗が遠呂智軍でも高い地位を占めている事実をすでに知っていた。当然、政宗がこの終局を決定するであろう戦いに参加するであろう予測もできていた。それでもなお、孫市がこの戦に蜀からの援軍として参加しようとしたのは、ひとえに、政宗を救い出したかったからに他ならなかった。
政宗は与えることのできる人間だった。愛や未来や希望といったものを与えることのできる人間であったが、その一方で、政宗は受け取ることのできない人間でもあった。孫市の稚拙な考察によれば、それは、政宗が幼少時実母に疎まれ育った過去に起因するものであったが、実際のところ、政宗が何を思っていたのか孫市は知らない。噂に伝え聞いたとおり、また、同じく遠呂智に与していた慶次に聞いたとおり、政宗は本当に遠呂智に心酔していたのかもしれなかった。
空は赤く染まっていた。東から回った火計部隊は獅子奮迅の働きを見せた伊達軍によって阻止されていたが、徳川の策を察した陸遜が助けに放った西の部隊が火計を成功させたようだった。
「政宗、どこだ。政宗!」
伊達軍の追撃をかわした孫市は、ただ一人、政宗を目指して必死に走っていた。炎が回り始めている。早くしなければならないという焦りが、孫市をよりいっそう急がせた。要領の良すぎる火計というものは、救いたい人間が敵軍にいる場合には、邪魔物以外の何ものでもない。強い潮風を糧に、船の表面を舐めるようにして広がっていく火に舌打ちをして、孫市は走り続けた。
「政宗っ!」
火の粉の舞い散る中見つけた政宗は、茫然自失の体で立っていた。隻眼に激しく動揺と絶望を浮かべ、孫市が駆け寄る様にすら気付かない有様だった。
「おい、政宗。お前、魔王なんかの味方して何してんだよ!」
孫市はたしなめるような叱るような口調で、政宗の肩を強く掴んで己の方へ振り向かせた。傍目には分からなかったが、触れた政宗の身体は震えていた。後で知ったことだが、それは遠呂智が討たれて間もないときのことであったらしいから、政宗はその情報を受け取ったばかりであったのかもしれない。瞳はわずかに濡れていた。
さすがの孫市も政宗の異常な様子に気付き、眉根をひそめた。
「…お前。どしたんだ?なあ、大丈夫か?」
孫市が揺さぶりながら問いかけると、政宗は正気に戻ったように目を見開き、ついですぐさま孫市の手を振り払った。孫市が再び掴みとめる暇もなかった。政宗は脱兎の勢いで走り出していた。その先は、轟々と音を立て火が燃え盛っていた。
「政宗…っ!」
一瞬政宗が振り返り何か告げようとしたようだったが、政宗が何を言おうとしたのか定かではない。火のついた柱が音を立て崩れ落ち、政宗の姿を覆い隠してしまった。
それが、孫市が政宗を見た最後であった。
『夢みたいなことばかり言うガキだな。だが、』
「政宗はお前さんと会いたがってたよ。」
戦後、燃え盛る遠呂智軍の船から引き上げた孫市を出迎えた慶次の台詞は沈鬱さを孕んでいた。遠呂智を救えなかったという憤懣やるかたない思いから、あるいは裏切ったという失望からかもしれない。その慶次の言葉に孫市はゆるく視線を向けたが、唇を強く噛み締め再び足元へと落としてしまった。虚無感と悔しさだけが、胸中を占めていた。
政宗が恐れていたことを、孫市は知っていた。あの頃とは違う。今は秀吉が生存しているのだ。政宗がそのことを気にしていないはずがなかった。
『お前の欲した世界をくれてやる!』
政宗の天下はならなかった。後に待っていた徳川の世は、確かに誰もが笑って暮らせる世ではあったが、秀吉の天下でも政宗の天下でもなかった。
孫市は無言で俯いたまま慶次の隣を通り過ぎた。
政宗は孫市に悔恨の念を抱いていたのだろうか。その必要はなかったのに。孫市は伝えられなかった言葉を飲み込んだ。今更のことではあったが、本当に、言っておけば良かったと強く思った。
(お前が隣にいてくれれば、俺は楽しめた。楽しかった。…俺が望むのはそれだけで。他には何もいらなかったんだぜ、…政宗。)
政宗は遠呂智と共に消えてしまった。束の間空を真昼のように照らし、孫市の心をも照らしたその死は、その後に続く闇の暗さを強調しただけであった。
『もう一度に夢を生きてみようかね。』
(政宗、)
もうどうにもならない現実に、孫市は、ただ一人静かに鼻を啜った。
初掲載 2007年5月6日