北の統治者であった伊達が、豊臣の治める国に戦で破れたのは半年前のことになる。夏のことだ。
ちょっとした勘違いが大きな災いになっての敗戦は伊達を豊臣に下らせ、属国にさせた。今や伊達当主の政宗は豊臣の総本山である大阪城に住んでおり、国は主に三傑と豊臣から派遣された島左近が運営している。
正直、政宗は現状をあまり快く思っていない。年齢が近いからやりやすかろう、とお方様ねねの善意で寄こされた指南役の直江兼続がうるさいことこの上ないからだ。それが善意であるだけ拒むことも出来ず、かといって共にあるにはあまりに喧しい。これが幸村だったら良かったのにと今は遠征でいない同僚に思いを馳せつつ、政宗は厨房で料理をしていた。良い気晴らしになるのだ。何より、厨房は女の居場所だと言って兼続がやって来ない。思わず鼻歌も漏れるというものだ。
そういうわけで鼻歌交じりに政宗が大根を桂剥きしているときのことだった。何か、入り口の方から強い視線を感じ、政宗はちらりとそちらを見て、すぐに視線を元に戻した。下女だろうか。年の頃九つ十つの童女が覗うようにこちらを見ていた。気にはなるが、政宗の地位は高い。一々使用人を気にしていても仕方あるまいと、政宗は桂剥きを続行した。
流石に鼻歌は控えたまま、四半刻も料理を続けただろうか。さあ、後は煮込むだけだという段階になったところで、ふっと政宗はすぐ傍まで童女が寄って来てこちらを見ているのに気付いた。いつの間にこれだけ近付かれたのだろうと不思議に思う気持ちもあったが、それ以上に、口元に人差し指を当てて物欲しそうに鍋の方を熱心に見詰めている姿が気になった。
童女に気付いていることを気付かれないようにこっそり盗み見た顔は、端整で小奇麗だった。労われている様子から、下女でない気も沸き起こった。下女ではない気がするにはするが、だからといって、武家の子女とも思えない。公家でもないだろう。育ちの良い娘というのは、涎をたらさないものだ。
政宗は内心煩悶しつつ、諦めたように溜め息を吐き後ろをゆっくり振り仰いだ。
「…食べてゆくか?」
「!良いのか?!」
「ああ。」
それだけいかにもお腹が空いてますという目で見詰められては、そう言うより他ないだろう。政宗は思わず苦笑した。
童女は大鍋を丸々空にして、満足そうに立ち去った。それが二日前のことになる。
「座敷童子だな。間違いない。」
真剣な顔でそうのたまった三成の姿に、政宗は思わず眉をひそめた。この男は正気だろうか。側近の左近がいないものだから、ちょっとあれなのではないか。決して好ましい男ではないが思わず憐憫の眼差しを向けると、三成が煩わしそうに眉根を寄せた。
「何だその目は。そういう噂があるのだ。」
「あまりに非現実的すぎるじゃろう。おねね様に言うて、少し休暇でも貰うたらどうじゃ?」
「失礼な男だな、お前も。兼続並みに失礼だぞ。」
「こやつと一緒にするでない!」
話題の兼続を指差し叫ぶ政宗に、そうだと兼続が大声を上げた。
「そうだ三成、それは不義だぞ!私は失礼ではない!」
兼続が失礼でないなら、失礼などという言葉はこの世から消えてしまって支障はない。その一言は軽く聞き流し、三成が政宗に教えた。
「実はここ一年、童女が何処からともなく現れては食べ物をねだるという話があってな…俺はその真偽を検証していたのだ。」
「三成、」
哀れんだ目付きで政宗が言った。
「お主、暇なのか。おねね様に言うて、少し仕事を貰うたらどうじゃ?」
「…失礼な男だな、本当に。」
「いや、暇なのじゃろう?」
「暇ではない。俺はいつでも忙しい!」
じゃあ単に奇特なだけかと言いかけた台詞は無理矢理飲み込み、政宗は緩い笑みを浮かべた。やはり左近がいないと、ちょっとあれなのではないか。政宗の笑みに三成がごほんと咳をした。
「ともかく!そういう話があるのだ!それで秀吉様の協力の下色々聞き込み調査をしてみたが、何故かその娘が捕まらない。それで座敷童子に違いない、ということで秀吉様が喜び始めてな。」
「お家繁栄か。確かに、最近の豊臣家の発展振りには目を見張るものがあるからのう。」
「ふっ。伊達も傘下に入れたしな。」
「うるさい!」
そんなやり取りを行なったのが、つい二刻前のことだった。
そして今、政宗は雪の降る庭を臨める縁側で林檎を兎さんに切っている。林檎を持ってきて、まるで切ってくれと言わんばかりに差し出した童女の眼差しに根負けしたのだ。その形が兎さんなのは、単に切るのでは花がないという妙な政宗の矜持だ。
「食べるのが勿体ないのじゃ。」
「そう言って喰わんとどんどん変色していくぞ。早う食べてしまうことじゃな。」
初めて目にするものなのか、掌に林檎を載せて嬉しそうに眺める童女に政宗はちらりと視線を向けて、それから庭へと視線を移した。生まれ故郷の奥羽ほどではないが、それなりに降れば積もるらしく、庭は雪で真っ白だった。
「雪兎は知っておるのか?」
「…雪兎?雪女なら知っておるが、雪女の親戚か?」
「違う。」
きっぱり答え、林檎を剥き終えると同時に包丁を置いた政宗は、草履を引っ掛け庭へと降りた。後ろからとことこと童女が付いて来る。風邪を引かせたら大事じゃなと思い、上掛けを一枚貸してやってから、政宗は足元の雪を掬い上げた。
「こう、丸く握るじゃろう。」
「こうか?」
「まんまるではのうて、こんな風に半丸にするのじゃ。」
手本と雪の形を見せて、政宗は南天の元へ向かった。
「それで、この赤い実が目になるじゃろう。あとは葉を耳のところに付ければ、出来上がりじゃ。」
「!凄い!政宗は物知りなのじゃな!」
歓声を上げる童女が口にした己の名前に、疑問を覚え、政宗は思わず首を傾げた。名前を教えた覚えはない。この童女は本当に、三成が言う通り、物の怪の類なのだろうか。
「…何故わしの名を知っておる?」
非現実的なことは好きではないが、お化けに滅法弱い政宗は恐る恐る尋ねると、童女が不思議そうに睫毛をぱちぱち瞬かせた。
「孫が言うておったのじゃ。政宗じゃろう?違うのか?」
「いや、合うておるが…孫とは雑賀孫市のことか?」
「そうじゃ。」
「…お主の名は?」
大きく頷いた童女に、そのときようやく、政宗は童女の名前を尋ねた。童女は満面の笑みで答えた。
「妾はガラシャ!ガラシャというのじゃ!孫のだちじゃ!」
こうして座敷童子の正体は孫市が連れ込んだ童だとわかったが、秀吉のあまりの浮かれように誰もそれを指摘出来ていない。心友の孫市も、孫市から事情を知らされていたらしい妻のねねでさえも、秀吉に指摘出来ていないのだ。政宗が出来るはずもない。
結局、それがないと思えばない、それがあると思えばあることになるのだろう。世の中なんぞそんなもんじゃと内心呟き、政宗はガラシャと鎌倉制作に乗り出している。ガラシャが座敷童子だと知らない兼続が無駄に凝り始めてしまったが、兼続の助力もあって鎌倉はそのうち完成しそうだ。完成した際には、中で鍋でも囲むのが現在の目標である。煩そうなことこの上ないが、協力してくれたので兼続も仲間に入れてやる予定だ。
「暖かい鍋か!早う食べたいものじゃな!」
ねねお手製の手袋を嵌めたガラシャが鎌倉の外壁を固めながら笑ってそう言い、政宗も思わず笑って応じた。
座敷童子がいるお陰で、大阪城は今日も平和だった。
初掲載 2007年10月26日