幸福論


 この手は何を掴むのだろう。何か、掴めるのだろうか。孫策は棍を肘に抱え、天に手をかざした。節くれた手は、全てを掴めそうな逞しい手にも見えたが、結局は無力な人の域を出ない手にも見えた。
 「ふん、惑うておるのか。」
 じっと掌を見詰めていると、ふいに背後から声をかけられた。振り返ると、この半年で親交を深めた伊達政宗が馬に跨りそこに居た。
 「政宗か。…どうしたんだ?こんな戦に。」
 孫策の問いには答えず、政宗が愛馬から降りた。答えるまでもない愚問、ということだろうか。孫策は小さく笑った。確かに愚問だ。遠呂智の側近である政宗が、呉に任せた戦に来る理由など、一つしかない。
 「反乱軍ならちゃんと鎮圧したぜ?」
 「そのようだな。」
 ぐるりと周囲を見回し、政宗はふんと鼻を鳴らした。まるで小さな呂布だ、態度がでかい。しかしそこが政宗らしいといえば政宗らしく、また、孫策もそんな政宗の不遜な態度を気に入っていた。
 「今日はどうしたんだ?ほんとに。あの兜だってかぶってねえじゃねえか。」
 孫策からしてみれば、大喬ほどではないものの随分低い位置にある政宗の頭を叩いた。子どもにするような対応に、政宗が振り向き眉をひそめる。
 「兜をかぶる必要を感じなかっただけじゃ。どうせ、わしが来る頃には終っておるであろうと思っておったからな。」
 「俺たちを信じていてくれたってことか。」
 「まだ、な。」
 まだ、という返事を聞かなかったことにして、孫策は政宗の頭を再度叩いた。
 (まだ…か。)
 おそらく、政宗は孫策が迷っていることなど疾うの昔に気づいていたのだろう。あるいは、孫策が自らの迷いを悟る前から。幼さを多分に残した見た目に反して、その実、非常に敏い男である。孫策はそんな政宗に、どこかあの左近という男と同じ臭いを感じた。
 しばらく思索に耽りながら政宗の頭を撫で続けていると、流石に我慢が尽きたのか、手を振り払われた。真っ直ぐ前を見詰める隻眼に迷いは見受けられない。
 「政宗は迷ったりしねえのか?」
 「ふん。そんなこと、疾うに卒業したわ。馬鹿め。」
 まさか問うた孫策が政宗の頭につむじが二つあることを発見しているなど露知らず、政宗が続けた。
 「猪突猛進が売りの貴様が惑うてどうする。…まあ、今のうちに悩めば良いわ。迷えるときなど、すぐに過ぎ去ってしまうのだからな。」
 「…なあ、政宗はなんで遠呂智についてるんだ?強いからか?」
 だが、強いからと言って乱世が治まるはずもない。遠呂智ならば乱世も鎮めるという政宗の言葉は、所詮は幻想だ。いや、孫策が、幻想であれば良いと思っているのかもしれない。武によって支配された天下は、絆によって繋がれた孫呉の望む天下とは正反対のものである。
 尋ねる孫策からは、下方にある俯きがちの政宗の顔は窺えない。またあの真っ直ぐな迷いのない瞳にかち合うのだろうか。内心、政宗が面をあげてくれることを望み、また同時に恐れる孫策に、政宗は背を向け告げた。
 「わしは異国が好きでな。何も狭い日本で朽ちることもあるまい、と思うておる。ゆえに、行けることになった未来に備え、様々な異国の文献を読んでおるのじゃ。その中に、いかにも本を読まなさそうなお主は知らんじゃろうが、遠い遠い海の向こうのありすとてれすという男の本があった。」
 「あ?何がだ?」
 突然の話題の展開についていけず驚く孫策を制し、政宗が続ける。
 「その男が言うことにはな、一番良い善とは幸せであることなのじゃ。良く生き良く行動することはすなわち、幸せなことである。そして、皆幸せな状態こそが、一番宜しい。」
 「まあ、そりゃあな。みんな幸せだったら文句ねえぜ。」
 「じゃが、幸せの形はそれぞれ違う。遠呂智、わし、お主。それぞれ皆違う幸せを夢見ている。皆が全員幸せになれる未来が、本当にあるであろうか?」
 感情を押し殺した声でようようと語る政宗の背は、何故だかわからないが、孫策の目にはやけに小さく映った。きっと政宗は迷いを進んで捨てたわけではないのだ。捨てざるを得なかった。そんな考えが、孫策の頭を過ぎる。
 「戦がなくなるわけなかろう。幸せを求める限り戦う運命ならば、…永遠に、戦はなくなるまい。仮に誰かが戦いを制したところで、そやつは人間である限り死ぬ。跡目争い、抑える者が居なくなったことによる紛争。時代は幾度も、そうして戦を繰り返してきた。」
 政宗の言葉に僅かながら孫策の顔が強張った。
 何故孫呉を建国する必要があったのか、そもそもなぜ世は乱れたのか。政宗の言葉に、孫策は黄巾の乱に出陣した際のことを思い出した。あの戦を皮切りに内乱は増加し、漢王室は没落し、大陸は乱世に飲み込まれていった。幾千もの民の血が流れた。
 皆が己の幸福を求めた結果が、あの戦乱だった。
 そして今尚、孫策たちは自らの幸福を求め、遠呂智軍と革命軍に分かれ争っている。
 「実にくだらんではないか。」
 政宗は孫策を振り仰ぎ、そう吐き捨てた。
 「…だから、遠呂智に与するのか。」
 「遠呂智は死なぬからな。あやつは、殺しても死にそうにない。此度乱世を鎮めれば、その後馬鹿げたことで戦が起こされることもあるまい。」
 ちらりと政宗の隻眼に野心と義務感が過ぎった。その瞳に孫策は、政宗が遠呂智を陰で御し、良き治世を行わせるつもりであることを悟った。遠呂智が戦渦を好む気質であることも、それでは民が付いてこないことも承知の上で、政宗は遠呂智に付き従っているのである。
 何故、政宗がそのような考えに至ったのか。おそらく孫策が知らされることはないだろう。だが何となく、政宗が迷いを捨てざるを得なかった理由はここにある気がした。
 政宗ははっとしたように先ほどの恐ろしいまでの静謐さを無理矢理拭い去ると、いつも通りの不敵な笑みを浮かべた。
 「まあ、お主は好きな道を行くが良い。突き進んでこそのお主であろう。さっさと迷いを捨てんか。」
 「…そうだな。」
 (よく生き、よく行動する…か。)
 信念を捨て、現状を嘆いてまで、遠呂智に与する必要はない。政宗の言葉でわかった。孫策は決して戦がしたいわけではない。政宗が遠呂智に与する理由も、民を思えばこそのものだとよくわかる。それでも、己の信ずる道を捨てることはできないと、政宗の言葉で孫策は悟ってしまった。
 「ああ、そうだな。」
 (よく生き、よく行動する。)
 ふんと満足そうに鼻を鳴らした政宗に、孫策は手を伸ばしその柔らかい髪を掻いた。











初掲載 2007年4月12日