幸せになります。


 「そんなことは仰らないでください、趙雲殿。」
 いつのことだろう。私は手を伸ばせば届く距離にある彼の存外長い睫毛を眺めながら思った。伏せられた瞼は苦々しげで、見ているだけで私の胸は締め付けられた。私は泣かないように唇を噛まねばならなかった。
 「貴方が望むなら、」
 懇願する私の声は僅かに震えていた。私はそんな己を冷ややかな目で見つめ、それから、ぼんやりと他所事を考えていた。そうでもしなければ、泣きそうだった。
 いつのことだろう。私が、趙雲「叔父」のことを趙雲「殿」と呼ぶようになったのは。


 昔、彼は私の一番年若い叔父だった。彼は私の叔父だったが、年の近い父代わりでもあり、年の離れた兄代わりであり、武芸や策における私の師匠でもあった。
 その頃には既に母も亡くなり、父は悲嘆のあまり酒が過ぎるようになっていた。当時、家における父は呑んだくれの役立たずだった。一人きりの娘である私を意味もなく甘やかつかと思えば、どう育てれば良いのかわからずに怯え、腫れ物でも触るように接する父のことが私は内心嫌いだった。
 だから、私は暴力こそ振るわないもののいつでも酒臭い父親に愛想をつかして、どこまでも彼に首っ丈だった。戦場での父の偉大さを知らなかったのだから仕方がない。
 そうするうちに私は年頃の娘になり、彼を叔父とはどうしても見ることのできない己を自覚することになった。
 子龍。
 口内で呟いた彼の名は甘さに満ちていた。一度だけで良い。一度だけ良いから、そう呼んでみたい。それから私はすぐさま間違いに気付いた。一度で満足できるはずがない。だって私は、こんなに彼のことが好きなのだ。世界中の誰より、彼を愛している自信があった。恋しくてたまらなかった。
 だから、私はやってしまった。私は卑怯で臆病だった。


 木の幹で寝ている彼に気がついたのは、予定より三日早く来訪した関平ではなく、たまたま出先で関平を拾って一緒に帰城の途にあった私の方だった。ふいに面を林の方に向け、会話を途絶えさせてしまった私に、関平は不思議がって視線の先を見た。そして、得心がいったらしく、「ああ。」と頷いた。
 さやさやと風が強めに吹いて、色付いた木の葉を宙へ舞い散らせていた。私は、このままでは彼が風邪を引くと思った。
 「先に行っていて、関平。趙雲殿を起こしたら、後から追うわ。」
 「だったら、某も。」
 「私はここに住んでいるけど、貴方は違うでしょ。こんなことで時間を使わないで良いわ。他の方たちとの再会を楽しみなさい。それに貴方は馬だし…大丈夫。すぐに私たちも行くから。」
 関平はまだ躊躇っている様子だったが、「すぐに」という私の言葉が決心させたようだった。折りしもそのとき、前方に黄忠の姿が見えた。伝令の報告を受けて、迎えに来たのかもしれない。
 「それじゃ、待っている。すまない、星彩。」
 関平はそう告げると馬に乗り、黄忠の方へ向かった。私はそれを見届けてから、彼の元へ歩き出した。
 彼は苦しそうに寝ていた。そして、彼らしくもなく眉間には皺が寄っていた。一体どんな悪夢に苛まれているのだろう。私は憐憫と不安でもって、彼を優しく揺り起こそうとした。
 そのときだ。彼の唇からあの名が漏れたのは。それは私の夫君となる者の母の名だった。同時にそれは、彼が命を賭して守った子の母の名でもある。恋する女特有の勘で、私は瞬時に真実を悟った。彼は、彼女のことが好きだったのだ。
 一体どうしてその行為に出たのか、私にもわからない。冷静沈着と称されることの多い私が、まさか、弾みで軽率な行動に出たなどと、一体どこの誰が信じよう。でも、実際のところはそうだった。
 私は前屈みになり、彼に口付けた。触れただけの唇はかさついていて冷たかった。夢に見た情熱的な接吻でもなく、優しさに溢れた愛の囁きもなく、ただ皮膚の冷たさだけが現実だった。
 「趙雲殿、起きてください。こんな場所で寝ると風邪を引きます。」
 言いながら、私は内心どぎまぎしていた。彼は名将だ。いくら幼少期から知る私の気配に慣れ親しんでいるとはいえ、流石に、触れられれば目が覚めるだろう。起きないはずがない。だが、万が一、億に一、もしかしたら望みはあるかもしれない。本当に彼は寝ていたのかもしれない。
 彼は私の仕出かした愚行に、気がついたのか気がついていないのか。
 私は彼に気付いて欲しいと思った。こんなに思い焦がれる私の胸の内に答えて、抱き締めて欲しい。でも、彼は私の未来の夫君に忠実で、私には未来の夫君がいるのだ。私は彼に気付いて欲しくないとも思った。知らないままでいてくれたら、どんなに都合が良いか。
 それでも、私は、それは都合が良いだけで私が楽になれる道ではないとも知っていた。知っていたから、彼に事実を確かめなかった。それに、十中八九、彼は気がついたに違いないのだ。
 それから数ヶ月経って、彼が馬超の妹君と縁談したと知った。
 そして、私の嫁ぐ日も来た。


 初め、何を言われたのかわからなかった。それから自覚が押し寄せてきて、私は目の前が真っ暗になった。
 『私のことは忘れて、幸せにおなり。星彩。』
 忘れて。忘れて?
 趙雲殿のことを、私が、忘れる?
 忘れられるはずがない。私には貴方しかいないのだ。どうすれば忘れることができるだろうかと私が悩まなかったとでもいうのか。私は散々悩んだ。散々苦しんだ。それでも、貴方を忘れられなかった。
 あのとき彼は気付いたのか、気付いていなかったのか。元々、気付かなかった可能性の方は途方もなく低かったわけだけれども、彼が馬雲緑殿と縁組したことで更に低くなった。彼は目覚めていた。気がついていた。だから、愛した人の遺児のために、邪魔物の自分は片付いてしまった。
 優しい人だ。決心させた原因はともかくとして、その婚姻は幸せなものになるだろう。何度も空想を巡らせた私が言うのだ。彼の妻はきっと幸せになる。
 でも、私は?幸せにはなれる。幸せにだってなれる。彼がそれを望むなら、幸せにだってなってみせる。
 でも。
 「そんなことは仰らないでください、趙雲殿。」
 いつのことだろう。私は手を伸ばせば届く距離にある彼の存外長い睫毛を眺めながら思った。伏せられた瞼は苦々しげで、見ているだけで私の胸は締め付けられた。私は泣かないように唇を噛まねばならなかった。
 「貴方が望むなら、」
 懇願する私の声は僅かに震えていた。私はそんな己を冷ややかな目で見つめ、それから、ぼんやりと他所事を考えていた。そうでもしなければ、泣きそうだった。
 いつのことだろう。私が、趙雲「叔父」のことを趙雲「殿」と呼ぶようになったのは。八歳?十歳?もう随分昔のことだ。私はその頃から彼が好きだった。私は泣きたいという欲求に痛む咽喉を無視して、無理矢理声を絞り出した。
 「貴方が望むなら、劉禅様にも嫁ぎます。幸せにだってなります。命だって捨てられます。でも、忘れろなんて言わないで下さい。それだけは、決して、叶えられません。叶えたくもありません。」
 睨み付けた私を彼はどう捕らえたのだろう。気丈な女?生意気な小娘?私はただ泣くのを堪えただけだ。そうでもしなければ、顔を覆って泣き出してしまいそうだった。
 「趙雲、叔父。貴方は残酷な人だわ。」
 そう呟いた私に彼はいつも通り笑った。その眉尻がいつもよりも困ったように下がっているのを、生憎私は見逃してしまった。そのときには既に、私は踵を返して歩き出していた。自分の婚約者の待つ城の中へ。











初掲載 2008年8月3日