眼下には一対の足が投げ出されている。
半蔵の旦那らしくもない。あたしはわざとがさがさ梢を揺らし所在を知らせると、旦那の前に降り立った。その拍子にはらりと葉が落ちて、木にもたれる旦那の頬に落ちた。旦那は払い除ける様子もない。元より、払い除ける動作をするだけの気力が湧かないのだろう。旦那は血塗れで、手が動くのかどうかすら怪しいものだった。
あたしは今、主の前から姿を消し、死期に姿を消す猫のように、死を臨む忍を前にしている。
目の当たりにした現実に、遅まきながら眩暈がした。
あたしが大野を無視して、秀頼に無理矢理出陣を乞うたお陰で、大坂での戦は勝利に終わった。
結果だけ見れば、あたしのしたことは正解だった。あの頑固なおじさんが堰き止めて殿様を引っ張り出せなかったら、西軍は負けていただろう。
秀頼が出陣して、ようやく、勝利の兆しが垣間見えた当初、幸村様は頬についた血を土埃のついた手で拭い、あたしのしたことをとても褒めてくれた。自分の労力が認められるということは嬉しい。あたしは猫のように目を細めて喜んだ。だけど、そこからがいけなかった。重い腰を上げようとしない秀頼を脅しつけて、大阪城から叩き出すようにして出陣させたことが幸村様にばれたのだ。
やたら身分というものを気にかける幸村様に、あたしは馬鹿な人、と内心思う。そんなだから、好きなことを打ち明けられないまま敵同士になってしまうのだ。
仏頂面であたしは跳んだ。背から幸村様の叱責が追いかけてきていたけれど、そんなものは関係ない。あたしはただ、半蔵の旦那はどうするのか、それだけが気掛かりだった。
豊臣としても暗殺には非常に気をつけているから、流石の旦那の出番もないだろう。秀頼が殺されたときは、そのときだ。いっそ幸村様が殿様になっちゃえば良い、なんてあたしは勝手なことを思った。あたしに軍事は良くわからないけど、秀頼が死んだところで形勢はもう逆転できない、そんな気がする。西軍有利だ。
じゃあ、半蔵の旦那はどうするのだろう。
三方ヶ原じゃないんだから、家康にしても逃げたところで、かつての石田三成のように捕まえられて処刑されるだろう。だったら、武士の一分とやらで自決を選びそうな気がする。幸村様みたいに最期まで戦うような気概があるとも思えないし、とあたしは家康の終わりをそう決め付けた。
通常、忍が追い腹を斬ることはない。その腹いせで秀頼にくないを突きつけて塞翁が馬になったとはいえ、あたしのように、戦中に暇を出されることもない。家が滅びた後の忍は野党となるか、他家に移るかのどちらかが通例だ。
しかし、通例といっても、そんな「当然」を半蔵の旦那が選ぶわけもない。
ひとまずは、家康の自害が無事に済むよう、旦那は必死に守り通すのだろう。死ぬ人が無事に死ねるよう守るなんておかしな話だけど、その程度の矛盾など武士の世界にはありふれている。でも、それから先は?
その場で死ぬなんてことは、家康を神にも等しく奉る旦那には出来ないだろう。身分や格、そんなものが違うと幸村様のように言い訳して、きっと何処かへ立ち去るはずだ。
そこが旦那の死地なのか否か、あたしにはわからなかったけれど、とりあえず人気のないところを探した。旦那なら忍らしく、ひっそりと陰で死にそうな気がした。闇に生きる者は表に出ない、とか何とか言うのが半蔵の旦那の口癖だったからだ。
戦場のすぐ傍にある神社の裏手には、木が鬱蒼と生い茂っていた。
もうすぐ夏になる。梅雨を前にした木々は夏の生気に満ち溢れ、その片側で死が氾濫する修羅場が催されているのかと思うと、ちょっと薄ら寒い気がした。
初めは何も見つからなかった。でも遠ざかるに従い、水気を含んだ土が出てきた。時折忘れたようにぽつぽつ続き、陽光に照らされてらてらと油分が光るそれは、まず間違いなく血の跡だった。
あたしは旦那でもこんなうっかりするのだとわかって、ちょっとおかしくなった。表に出ない、痕跡は残さない、失策はしない、主に生殺与奪は預ける。てっきりあたしは旦那のことだから、心頭滅却さえすれば火だって涼しい理論で、最期まで陰から出てこない忍の立場を貫き通すのだと思っていた。
そうして見つけた旦那は、動かなかった。顔色は悪く青と土気色の中間くらいで、それが強烈な陽光のせいでなおいっそう黒っぽい木の影で暗くなり、死人にしか見えなかった。あたしが茶化すように話しかけても、旦那は動こうとはしなかった。
いつものようにあたしのことを意識的に無視しているのかもしれない。あたしは数回、重ねて呼んだ。それでも、旦那は動く素振りがなかった。ただ、さやさやと緑色をした風が吹いた。
もしかして、もう、死んでいるのだろうか。それをまず確かめないことには。脈を謀ろうか、瞳孔を診ようか。死んでいないなら禍根は断っておかないと大変だ。
そんなことがつらつらと他人事のように脳裏を横切り、そのまま何処かへと去っていった。頭が空っぽになったみたいにまるで動こうとしない。それをどうしたのだろう、といぶかしむことすら出来ずに、あたしは呆然と立ち尽くしていた。
半蔵の旦那が死ぬなんて、ありえないと思っていた。
あたしの主の幸村様は武士だ。武士はみんな馬鹿みたいに見っともない誇りを歌舞って、見栄だけ張って生きている。だから、死ぬかもしれない。でも、旦那は違う。確かに、忍だって死ぬことはある。主のため、任務のため、影武者として、作戦のため、理由なんてどうでも良い。ことある毎に、しょっちゅう死んでばかりいる。だから忍の筆頭である旦那が死ぬはずがないはずもないのだけれど、巧く説明できないが、あたしは死ぬはずがないと思っていた。
旦那がいない世界なんて、信じられなかった。そもそも考えてみたことすらなかった。半蔵の旦那はいつもそこにいて、頻繁に話しかけるあたしをとても迷惑がっていて、忍とはどうあるべきか珍しく多弁になって説教したりして、そういうことが当たり前で、当然で、だから死ぬはずがないのだ。
真っ白な頭のまま、あたしは旦那の顔を見つめた。旦那は一向に身じろぎ一つしないで、苦しそうに瞼を瞑り続けている。
あたしは良く不思議に思う。
勿論、あたしは忍だ。泣き真似くらい当然出来て、涙は出すも引っ込めるも、自由自在だ。
けれど、忍のあたしには泣く人間の気持ちはわからない。忍は感情を凍らせて生きるもの。あたしが忍を生業にするのには、感情がごっそり抜け落ちていることが挙げられる。気紛れや不服など感情のようなものを見せることもあるけれど、大半はそう振舞うのがあたし「くのいち」の役割だと知っているだけで、感情を根拠に振舞うわけではない。
人々は良く泣いた。出産のとき、稲ちんは、子が無事生まれて嬉しいと涙し、幸村様でさえ、亡きお館様や石田三成が死んだ際には、涙をこぼしてそれを悲しがった。
あたしにはそれが理解できなかった。泣け、と言われれば泣くことはできる。でも、何故、人々は泣くのだ。
訝るあたしに、幸村様は、感情が高ぶったとき人は自然に泣くよう出来ているのだと説明した。喜怒哀楽は突き詰めれば泣くことに行き着くのだそうだ。
あたしには理解できなかった。
初め、それが何であるのかわからなかった。
何処かに中身を置き忘れてきたように頭の中が空洞のまま、あたしはそれに指先で触れた。生温くて濡れる感触に、まだ頭の追いつかないまま指先を見ると、それは水だった。どうやら、あたしは泣いているらしい。
目に塵でも入ったのだろう。あたしはぼんやり結論付けたが、涙は次々溢れ出てきた。あたしは判断に困ってしまった。何だか胸の辺りがつんざく悲鳴を上げて、鋭い痛みを訴えている。あたしは思わず、胸元を掴んだ。そうしないと張り裂けそうで、でも、そうしたところであたしの痛みは緩和しなかった。
これは感情による落涙なのだと、あたしは唐突に理解した。あたしは強く目を瞑って堪えようと試したけれど、感情は止め処なく湧き出る井戸水のようで、仄暗い痛みは隅々まで染み渡り、あたしに納まりきらず溢れた。堪えても自然、涙は流れた。
ふいに、すぐ傍で息が漏れ出た。
錯覚かと思った。あたしは混乱していて何が何だかわからなかった。
それでも目を開けると、ぼんやり滲んで不明瞭な視界で、半蔵の旦那がこちらを見ていた。どうもこうもなく、改めて考えてみるまでもなく、あたしが勝手に早合点していたらしいのだが、これには本気で驚いて声をなくした。
考えを整理してみると、血痕も顔色の悪さも重傷も、元はといえば主喪失の傷心で旦那が柄にもなく自暴自棄になっていたことが理由のようだ。あたしを散々無視し続けたのも、死んだ振りをしたのも、どうもこの辺に理由があるらしい。あたしは旦那のことを本気で心配してあげたのに、酷い対応だ。性格が悪すぎる。
しかし、後で悟ったその真相を、頭が真っ白のあたしが気付けるわけもない。
これは夢だろうかとおっかなびっくり触ってみると、呆れた様子で旦那は、煩くておちおち死ぬことすら出来ないと不平を洩らした。それは本当に迷惑そうな声色で、それがあたしに対するいつもの調子だったので、あたしは一気に気が抜けてしまった。
本当に、ただ、安堵した。
だからあたしは、今度こそ声を上げて泣くことにした。煩くて死ねないのなら、それで良い。あたしは半蔵の旦那に死なないで、生きていて欲しいのだ。
それが煩いというのなら、旦那のせいだ。自分を恨め、この馬鹿野郎。
初掲載 2008年2月29日