たまにあたしは、半蔵の旦那があたしの立場だったらどうしたんだろう、なんてことを思う。
あたしと遊んでくれていた半蔵の旦那は結構前に亡くなっていて、一方、やっぱり遊んでくれた稲ちんなどは嫁いで忙しなくなってしまった。稲ちんの考えることは猪突猛進というか、わかりきってるので改めて考えるまでもないけれど、半蔵の旦那はそういうこともない。だから、あたしは、半蔵の旦那があたしの立場だったらどうしたんだろう、なんてことを常々思う。それは窮地に陥ったときが大半で、しかも、あたしみたいに明け透けな思考じゃあ二進も三進もいかないときだ。
あの捻くれものの旦那だったらどうしたんだろうなあ。
勿論、そんなことを言ったら半蔵の旦那に睨まれること請け合いなので、あたしは言わない。というか、半蔵の旦那は既にいなかったので、あたしが三途の川を渡るまでは言いたくったって言えないと思った。当然の認識だ。だからあたしは一人、心の内でそっと半蔵の旦那に呟いてみる。
あのね、半蔵の旦那。幸村様が死んじゃった。でもね。幸村様の忍であるあたしは、真田が滅んだ今も、ただ一人生き残っているんだよ。一緒に死んであげようと思ったのに、暇を出されちゃって。主と命運を共にするのが忍なのに、忍だから武士の意地に付き合わなくて良いって…あたし、間抜けすぎ。
そうして、幸村様には解雇されちゃったけど、やっぱり幸村様の後を追いかけた方が良いのかなあ、なんて空に入道雲が浮く時期になるたびあたしは思う。幸村様には解雇されちゃったけど、やっぱり幸村様の単騎突入を止めた方が良かったのかなあ、なんて道端に紫陽花がぽつぽつ咲く頃になるたびあたしは思う。
幸村様が死んでから、五度目の夏が過ぎようとしていた。あたしはひたすら感傷的だった。
そんなときに、まさか、あたしは自分が死ぬなんて思っていなかったし、というか死んだのかすらも良くわからないし、ともあれ、幸村様や半蔵の旦那に再会するなんて思わなかった。
ここは三途の向こうなのかと思いもしたけど、話によると、遠呂智が作り上げた世界らしい。正直、意味がわからない。幸村様に暇を出された瞬間以上に、意味がわからない。一体、何がどうなってるのさ。誰か教えてよ。
今、あたしの目の前には周泰という人が立っている。孫権の護衛だ。蜀との間に会談が行なわれるというので、幸村様もいることだしちょろっと様子でも見てくるかなあと気楽なつもりで参加したあたしは、護衛なんて役回りにされて暇で暇で仕方ないのだけど、周泰っていう人はそんなこともないみたいで、よく出来た石像みたいに、ただひたすら寡黙に立っている。
その地味で控えめで何より無口で、でも信頼できる様子は、半蔵の旦那に良く似通っている。まるで、阿吽像みたい。
稲ちんは周泰という人を見かけるたびに、まるで馬鹿の一つ覚えみたいに、
「ねえねえ。あの人、くのいちの好みなんじゃないの?だって半蔵殿とか…そうでしょ?」
なんて言いながらあたしを突く。それに、いかにも意外だわという表情丸出しの尚香が、
「え?くのいちの趣味って、そうなの?意外ね。」
なんて言う。そのたびにあたしは、内心、えーあの武士道貫き通しますうみたいな塊と主のためには卑怯も辞さない旦那のどっこが似てるのさあ、となんて思っていた。
でもこうしてみると、忍であるあたしより周囲の方が観察力に優れていることがわかる。周泰と半蔵の旦那は良く似ている。それは認めよう。でも、だからって、同じじゃない。
あたしにとって、半蔵の旦那は阿吽像の吽形だ。終わりの人。阿吽は、口を開いて最初に発音する「阿」と口を閉じて最後に発音する「吽」を世界の始まりと終わりに置き換えたものだ。生前、そうお館様が幸村様に講釈を垂れていた気がする。うろ覚えだから不確かだけど、あたしにとってはつまり、半蔵の旦那は最後の人だ。最後に辿り付いた、悟りみたいな人。馬鹿で、不器用で、どうしようもないけど、あたしはそんな半蔵の旦那だから「忍」として尊敬して、「人」として馬鹿にして、「女」として好きでいる。
あたしにとって周泰という人はそんなこともない。別に、どうだって良い人だ。他の誰かにとっては「阿」だったり「吽」だったりするかもしれないけど、「あたしの真理」にはまだまだ遠い。「あたしの心理」は今のところ半蔵の旦那で、世界そのものが幸村様だ。「阿」はさしずめ、稲ちんってところかなあ。
そういうわけだから、稲ちんにどれだけいじられようとも、呉贔屓の尚香にどれだけ勧められようとも、あたしは周泰には心惹かれない。そこをわかってくれないかなあ、なんて、二人には思う。夫持ちのくせして、二人とも妙に鈍感なのだ。女心に疎すぎる。もしかしたら、初めての夫が成功だったから、そういう乙女心の機微を知らないだけなのかもしれない。まあ、二人にしてみれば、あたしにだけは言われたくないってところか。
そんな幸村様も半蔵の旦那も、おまけにお館様なんかもいるような恵まれた状況にあたしはいるので、一度くらい、半蔵の旦那だったらどうしてみたのか訊いてみたい。あたしの脳内の仮想旦那じゃなくて、実際にここに今いる旦那に向かって、もしもあのとき大坂で、半蔵の旦那があたしの立場だったらどうする、って尋ねてみたい。
半蔵の旦那は既にいなかったから、大坂と言われてもぴんと来ないだろう。現場でしか味わえない絶望感や悲壮感、武士の一分なんてものがある。だから諸々の想像が含まれて、実際の大坂とは違う代物が半蔵の旦那の頭には描かれるはずだ。
それでも、あたしは訊いてみたい。半蔵の旦那があたしの立場だったらどうする?自分の死が追加されるだけだってわかってても、止められないってわかってても、敵総大将の命を狙う?自分の、主の命を守る「忍」としての意地より、主の願いを叶える「忍」としての仕事を優先させる?主が死んだら後を追う?それとも、主より先に死ぬことを選ぶ?
その答えがあたしの望むものじゃなくても良い。だって、人は人の痛みを分かち合えない。分かち合えたと思っても、その人基準で認識してるから、相手の人が実際どう感じているのかその人にはわからない。あたしはそのことを重々承知だ。でもあたしは、半蔵の旦那の言葉が聴きたい。それだけで、今も悩み続けているあたしは、きっと救われると思うのだ。
それで、あわよくばあたしは、「忍」であることしか知らない可哀相な半蔵の旦那の「阿」になりたいなあ、なんて思うのだ。大海を知った蛙は、あたしのことを怨むかもしれないけど、外にはこんなに広い世界があったんだよって教えてあげたい。
馬鹿で、不器用で、どうしようもない人。
あたしの吽形であるあなたの隣に立ちたいと言ったら、あなたはあたしを、笑いますか?
初掲載 2008年1月31日
関連 : 『火の棘(真伊)』