忠義心で死んでしまったり、性欲に身体が忠実だったり、無闇に恰好つけてみたり。
世の中の男というものはあまねく愚かで、その中でもいっとう、「服部半蔵」という男のことを救いようのない愚か者だとくのいちは思っている。
「ひと」であることすら放棄した忍は、もはや「ひと」ではない。ただの「道具」だ。それはくのいちだとて同じことだが、くのいちと半蔵という男の違いは、それを楽しんでいるか否かである。勿論、くのいちは楽しんでいる。たまに面倒臭いな、と思うこともないではないが、基本的に楽しくなさそうならば死んでもやらない。
だから、くのいちは、忍だからという言い訳ひとつで全て投げ出して捧げてしまう半蔵のことを、哀れみながら愚かだと思う。主に決断を全て任せるのは、責任を負うのが怖いからだ。意思がないわけがない。何故なら、「ひと」だから。それでも主に全てを捧げると言い切る様は、「忍」として格好良くもあり、同じ「ひと」としては無様である。それでも、半蔵にはその不器用で無様な生き方しかできない。何故なら、「忍」だからだ。だから、くのいちは、半蔵のことを哀れみながら愚かだと思う。
くのいちもかつて一度だけ、「忍」らしく、心底嫌だったが、幸村の命で不本意なことをやったことがある。大坂での単騎突入を止めなかったことだ。それが幸村の無二の願いだとわかっていたから、くのいちには止められなかった。そして、止めたところで幸村の命は長くないとわかっていたので、くのいちには尚更止めようがなかった。結果、幸村は天上の花火のように燃え上がった後呆気なく散った。その直前に暇を出されたくのいちは、それを大阪城の天主からじっと見つめていた。幸村の死後は、半蔵という男だったらどうしたのだろう、と泣き暮れながら思ったりもした。
くのいちは死んだ後もそれを悔いていて、気付けば遠呂智の作り上げた世界で目覚めたときもそれが念頭にあったので、それ以降はやりたくないことはやっていない。遠呂智軍の味方もしなかったし、強者におもねるのは嫌なので弱者を助けた。
その過程で半蔵に再会し、気がつけば、一緒にいるわけだ。
半蔵という男は先にも挙げたが、「ひと」であることを止めた「道具」なので、人格があって良いはずがないのだが、それが半蔵という男の性か「ひと」の皮肉か、依然として人格はあるままだ。そのくせ、半蔵は己のことを家康の「道具」で「犬」だと信じているので、くのいちは半蔵という男を愚か者の極みだと思う次第である。人は純粋たる棋士にはなることなどできないが、同時に、ただの駒でもありえない。それを半蔵はわかっていない。くのいちは「道具」だが、自分が所詮は「ひと」を捨てきれないことも重々承知で、ゆえに、やりたくないことはやらない。忍にだって人格はある。それは拭いようのない事実で、つまるところ、忍は「考える道具」だ。
選り好みが激しすぎるなど何のかんのと文句は言われるが、結局、そちらの方が幸村としても使い勝手が良いようで、くのいちはその状態を維持し続けている。やりたいことは、やる。やりたくないことは、やらない。
だから、くのいちが幸村ではなく半蔵という男の傍にいるのは、何も呉と蜀の間で連携がとりやすいだろうとか、仇敵家康の腹のうちを探ってやろうなどという馬鹿らしい考えがあってのことではない。それをわからないのも、半蔵という男が愚かな証拠だとくのいちは思う。勿論、くのいちは思うだけで、言いはしないのだ。愚かな半蔵はくのいちに二心があると決め付けて、信じはしないだろう。くのいちだとてそれくらいのことはわかるのである。
嗚呼、悲しい哉。あれこれ半蔵の悪口を挙げ連ねてきたが、くのいちも所詮は愚かな女の一人なので、どれだけ努力をしようとも半蔵のことを嫌いになれないのだ。とはいえ、くのいちも敵方の忍として生きていたときはそれなりに嫌いになろうと苦心してもいたのだが、今は敵も味方も遠呂智次第で、そんな努力を放棄してしまった。ただ、愚かな男で救いようがないなあ半蔵の旦那はあ、などと思いながら、想い人のことをぼんやり眺めるのだ。
選り好みの激しいと言われるあたしが傍にいるのに、どうしてそれが、自分で選んでの結果だってわかんないのよう、なんて恨みの込められた恋するもの特有の熱っぽい目付きは隠しようもないので、くのいちは隠していない。周囲からは、奇特だなあなんて噂されていることもくのいちは承知の上だ。だって仕方ないだろう、こんな愚かな男だけど恋しちゃったのだから。
忍のくせに恋するなんて、自分は愚かだ。毎回毎回、一日に百辺くらいくのいちは思う。それは、半蔵を見ていた回数でもある。それを自覚するたびに、改めて、くのいちは自己嫌悪に陥る。でも仕方ないのだ、恋しちゃったのだから。
そう云々唸っていると、愚かな半蔵はいたいけな年頃の娘の心中を露知らず、「ひと」であることを止めた「道具」であるくせに、珍しくも僅かに顔をしかめて、くのいちの視線に何らかの企みを見出そうと考えあぐねるのだ。時折、「…うっとうしい。」などと小言を呟いたりする様は明らかに「ひと」で、「道具」ではないのだが、そのことにはいまだくのいちしか気付いていない。何故なら、半蔵はくのいちの前でしかそういう面を見せないのであり、よって、半蔵の主の家康などは絶対にこの有様を見かけないからだ。
そう期待されると、くのいちとしても何かせずにはいられなくなってしまい、結局、半蔵に抱きついて邪険にされたりするのである。そのたびに、くのいちは、相手が嫌がることをわざわざするなんて、と自分のことを愚かな女だと決め付けたりするのだ。同時に、年頃なんだから良いじゃん、とも言い訳したりする。だって実際、年頃の恋する娘なのだから、愚かでも仕方ないのだ。忍なんて二の次だ。もう一度死んだのだから、好き勝手やって良いではないか。主の幸村も、こちらでは好き勝手やっているのだし、それならくのいちもただ倣うまでだ。
ぎゅっとするたびに振り払われて、くのいちは半蔵に「半蔵の旦那のば〜か。」とあかんべえをすると逃げ出す。だって仕方ないのだ、くのいちは恋する乙女なのだから、想い人に邪険にされたら承知の上でも少しは傷付く。矜持とか乙女の恋心とか、そういったものが傷付けられて、たまに本気で半蔵を蹴りつけてすたこらさっさと逃げ出す程度には、くのいちだとて本気なのだ。
しかしどうやらその状況も変りそうだぞ、なんてことを、くのいちは半蔵に胸を押し付けながら思っている。何故なら、半蔵に嫌そうに振り払われない。飽きられたのか、諦められたのか、ほだされたのか。理由はわからないが、半蔵はくのいちを受け入れつつある。まだ、顔はしかめられたままだが、対応の変化は好ましいものだ。半蔵はどう思っているかはともかく、少なくとも、くのいちにとっては、好ましい。
だからくのいちは、愚かな女が愚かな男を射止める未来を夢見て、今日も半蔵に抱きつくことにする。少しくらい、もしかしたら、気持ちが通じたんじゃないかなあ、なんてうぬぼれたりしながら。
初掲載 2008年1月30日
関連 : 『火の棘(真伊)』