廊下の曲がり角の向こう。珍しい光景を見かけて、思わず左近は足を止めた。
左近に書類を持ってくるよう命じた無二の主と、敵対関係にあるとまでは言わないが決して仲が良いとは言えない奥州の王が、何やら話し合っている。話し合うというよりは、背中しか見えないが、三成が政宗を詰問しているようだ。
今は人がいないとは言え、人が普通に通行する廊下。実際、左近も通りかかるところを、足を止めて隠れているのだ。こんなところでこのような光景を見られでもしたら、三成が伊達を脅しているか、伊達が何か企んでいるか、どちらかに取られかねない。
見かけたのが自分で良かったと思いながらも、出て行きかねて、左近はしばらく様子を見ることにした。
最初の一瞬、三成が政宗に手をあげたのかと左近は思った。
しかしどうやら、政宗が後ろに隠していたものを三成が取り上げただけのようだ。左近が安堵する間も置かず、驚きと絶望に政宗が大きく目を見開いた。
そのとき、ふと左近の脳裏に過ぎったのは、政宗が惚れ薬を買い求めたという噂だった。元々、政宗が兼続の配下である風来坊に惚れているというのは有名な話で、どれだけ好条件を提示しても振り向かない慶次に痺れを切らして、というのが今回の噂の発端だった。
まさかあれは本当の話で、あれが噂の?
政宗の先ほどまでの態度もある。あるいは、もしかしたら毒物かもしれない。どちらにせよ死活問題だ。
左近がぎょっとして駆け出そうとする前に、三成がそれを飲み干した。
そして、次の瞬間――
『政宗、』
突然三成に抱きしめられて、政宗は目を見開いた。からんと響き渡った音は、三成が放り出した茶碗だろう。中には、阿国から高額で買い取った惚れ薬が入っていたはずだった。
呆然とする政宗の頬に片手を添えて、三成が聞いたこともないような優しい声で囁いた。
思いの外、唇が近い。
『愛している。』
「っーーーーーーーー!」
今朝も声にならない叫び声と共に、政宗はばっと飛び起きた。目覚めは良くない。最悪だ。心労できりきりと痛む胃を押さえながら、政宗は額の脂汗を拭った。
三成が惚れ薬を飲んでから、一ヶ月がすぎた。自業自得であるとはいえ、政宗の受難が始まってから一ヶ月がすぎた。
あれから毎日、三成は政宗に出会うたびに愛していると言い続けている。
無論、政宗は当然のように、三成を避け始めた。人前で臆面もなく熱っぽく愛を囁く男を忌避しない理由がない。
しかし、こちらが避けたからといって向こうが避ける謂れはない。
「随分遅いお目覚めだな。」
「!なっ、み、三成っ!何故貴様がここにおおぅ?!」
諦めながらも振り向いて、政宗は惨事に絶句した。
「片倉が喜んで入れてくれたぞ。」
三成、だろうか。おそらく三成だ。少なくとも、声は三成だ。
色からして、ねねから譲り受けたのだろうか。艶やかな秀吉好みの、金糸で大柄の牡丹が縫い取られた橙の着物だ。認めたくはないが、顔に化粧も施されている。
女装だ。
あの、自分に負けず劣らず矜持が高く、高慢ともいえる三成が、女装…?
現実を認めがたく唖然とする他ない政宗に、三成が小首を傾げた後、袖を持ち上げて「ああ。」と頷いた。
「これか。政宗がこの前、しっとりした色気のある女が好きだと言っていただろう。いかにも身分が高そうで、派手好みの。だからだ。」
だからだ、と言い切られても、政宗は女が好きだと訴えたわけで、「しっとりした色気」があれば男でも良いとは言っていない。大体、女装を要求してもいない。
それを言っても無駄だと悟り、政宗は寝巻きのまま脱兎のごとく自分の寝所から逃げ出した。
何故こんなことになったのだろうと、混乱する頭で思っていた。
「…逃げたか。未だに脚力は健在だな。」
眉間にしわを寄せて不満そうに舌打ちした三成に、隣室で着付けを手伝い、ついでに様子を見に来たねねは腰に手を当てて溜め息を吐いた。
「三成、いつまでこんなの続けるつもりだい?惚れ薬なんて効いてないくせに、政宗が可哀相でしょ!」
「着物を貸してもらった恩はありますが、ねね様には関係ないでしょう。」
「もう、生きにくい子だね!」
まだ何か言いたそうなねねを無視して、三成は懐から出した扇子を開いた。
叙事詩や物語では頻繁に登場する代物だが、媚薬はあっても惚れ薬はない。そんなことはわかりきった自明のことだが、しかし、人は夢見て求めてしまう。不老不死の薬と同じようなものだ。
しかし三成は政宗を笑えなかった。三成も、それが財や手間隙で手に入るものならば、全てを投げ打ってでも手に入れただろう。
いずれにせよ、そんな秘薬を、岡惚れしやすい出雲の巫女が持っているはずもないのだが。
最初に廊下で、茶碗に入れ替えた薬を思いつめた様子で見つめる政宗を見かけたとき、三成は怒りが湧き起こった。噂の品だと、三成はすぐさま察しがついた。
そんな胡散臭い代物に頼ってしまうほど、政宗は慶次が好きなのか。
俺では、駄目なのか。
散々政宗を嘲笑った後、その流れで奪い取った薬を飲み干すと、面白いくらい政宗の顔から血の気が引いた。
思ったとおり、薬の効果はなかった。あるはずがない。ただの薬草茶だ。まんまと阿国に騙されたなと頭の片隅で思いながら、三成は政宗を抱きしめた。
『政宗、』
唇を近づけ、思いのたけを込めて囁いた。
本心から望むことはすべて、これからは、惚れ薬のせいにしてしまうことにした。
『愛している。』
あのとき触れた唇を思い出し、三成は複雑な思いに駆られた。あれは本来は、慶次に与えられるものなのだ。
そのとき。
「正直に言えば良いじゃないかい。政宗のことが好きなんだって。」
ねねの発言に意識を現実に引き戻されて、三成は僅かに顔をしかめた。
「まだいたんですか。」
「まだ、まだって…随分な言い草だね!怒るよ!…でも、」
丁度その頃。
「殿さん、片倉さん凹んでたぜ。」
小十郎に、代わりにと差し向けられたのだろう。逃げ込んだ部屋へ様子を見に来た孫市に胡乱な目を向けて、政宗は眉間にしわを寄せた。
「うるさい。わしの許可なく三成を城に入れた罰じゃ。三日は会ってやらん。」
「それを罰って言い切る辺り、流石は殿さん自意識過剰。」
「殴り飛ばすぞ?褒めとらんであろう、それ。」
拳を握れば、降参とばかりに両手を挙げて孫市が後退した。政宗はふんと鼻を鳴らした。
「でも、殿さんだって満更じゃないんだろ?三成を振り向かせるために、薬買ったんじゃねえの?」
「…うるさい、黙れ。わしにだとて矜持がある、そんなわけなかろう。」
それは本当だ。
阿国から惚れ薬という触れ込みで、怪しい薬は買い取った。しかしそれは、先のない未来を捨て去るために買ったのだ。
『自分の髪の毛をこれに溶かして想い人に飲ませたら、ころりといきますえ〜。』
報われない気持ちを抱いたまま苦しい想いをし続けるくらいなら、笑われたって良い、政宗は自己愛の方がましだと思ったのだ。
しかし、いざ呑むとなると決心がつかず、室内をぐるぐる歩き回っているうちに外に出ていたようで、三成に呼び止められて初めてその事実に気付いた。
「わしは、心を買いたかったわけではない。」
苦く吐き捨てた政宗の様子に、孫市は内心溜め息を吐いた。
「つーかお前、まじで」
「難儀だねえ。」 「難儀だなあ。」
同じ時刻に、場所は別にして。事情を双方とも知っているねねと孫市は、思わず呆れたようにぼやいた。
初掲載 2007年12月15日