塞翁が馬


 その日。表面上はいつも通りだったが、ねねは機嫌が悪かった。何てことはない。生理だったのだ。ねねは生理になると、怒りっぽくなる性質だった。
 黒不浄と呼ばれた死と対比して、生理が赤不浄と呼ばれ、穢れと認識された時代だ。ねねも今では北政所と呼ばれる立場である。物忌みしても良かったのだが、それはあまりにもあからさまに「現在、生理中です。」と公言しているようでねねは嫌だった。元々足軽の出で、物忌みなどという高貴な身分の方が利用するようなことに疎かったせいもあるし、そんな呑気なことを言う暇がなかったせいもある。生理休暇など取る暇はない。戦は待ってくれないのだ。夫を手助けするために、ねねは生理をおして戦場に立った。というか、生理の苛立ちを合戦にぶつけた感じもあった。
 そういうわけで元々苛々しているところに、夫の浮気が発覚した。現在、秀吉は遠征でねねの傍にはいない。その遠征先にねねの代わりに浮気相手を呼んでいるのかと思えば、なおさら苛立ちは募った。
 しかしそこは忍、しかも自分が腹を痛めたわけではないが子供たちに八つ当たりして良いはずもない。ねねは普段どおりにこにこ笑って、苛立ちを隠した。
 隠して――いた。
 「三成、ガンバってね!」
 「…何を頑張るのか具体的にお願いします。」
 いつもならば、「生きにくい子だね。」とでも苦笑して済ませるのだが、そのときばかりは無理だった。説教で散々三成にじらされた挙句、ともあれ合戦の士気に響くからこれで終わらせようとした際の返事がこれだった。秀吉の遠征についていけなかったことで、せめてこの戦で勝利をせねばと、功を焦っていたのだろう。らしくないことに引き際をわきまえず、三成も多少言葉が過ぎた。
 「…本当に良いんだね?」
 その台詞に、そっぽを向いていた三成がいぶかしんでねねを見た。


 遅かった。


 これが忍の真価とばかりに、やけに具体的に列挙されていった頑張る点は、確かに、三成が常々頑張ろうと内心思っていたことだった。しかし内心思っていただけで、もしかしたら左近に洩らしたかもしれないが、誰かに告げた覚えはなかった。告げられるようなことでもなかった。戦働きや執務に関係なさすぎる、あまりに私的すぎることばかりなのだ。それを何故、ねねが知っているのか。まさか天井裏にでもこっそり忍んで、三成のことを監視していたのか。
 毎日律儀に書いている日記の論評に及ぶにいたり、義弘が呆れて退場した。仲間割れは放っておいて、戦場へ繰り出すのだろう。顔を赤らめたァ千代も慌てて後に続いた。
 「…伊達さんは行かないんですか?」
 「いや、どうせならば最後まで聞いてやろうかと思うてな。」
 腕を組んで聞く態勢が整っている政宗の様子に、左近は三成に同情した。ァ千代が引き下がった辺りから、話は三成が恋人政宗に対して頑張ろうと思っている…というか政宗にしてもらいたい妄想のような願望の話になっていた。ァ千代が呆気にとられ頬を染めてから、逃げ出すほど居た堪れぬ話だ。
 恋人に対する耳を覆いたくなるような自分の願望を、恋人の眼前で、母のような人が口にするのだ。説教というか、もはや拷問であろう。
 「あれほど赤くなったり青くなったり、慌てふためく三成のやつを初めて見たのう。」
 「奇遇ですね。俺もですよ。」
 「流石は、おねね様と言ったところか。」
 感心したようにぽつりと洩らし、政宗は、敵と戦をするまでもなく味方に打ちのめされた三成を見た。
 「…あやつもなあ。」
 「綺麗な顔して、やっぱり男だったってところですかね。それとも、伊達さんは既に存じてましたか?」
 「あそこまであれじゃとは知らんかった。愚かの極みではないか。」
 幸いなことに聞こえていないが、恋人と右腕が部屋の隅でこのような会話をしていると知ったら、三成は更に立ち直れないだろう。
 ねねの前に膝を折り屈した三成を一瞥し、つまらなさそうに政宗が言った。
 「まあ、してやるのも一興かもしれんな。」
 「…あれを、伊達さんが?!さっき、愚かの極みって切って捨ててませんでした?」
 矜持の高い政宗が、と目を丸くする左近の問いかけに、政宗が口端を吊り上げ笑った。
 「であればこそ、伊達男というもんじゃろう。――三成、凹んでいる場合ではない!さっさと戦を終わらせんかっ!」
 地面に手をつく三成へ近寄り蹴りつけのたまい、引き摺るようにして戦場へ出かけていった政宗に、ねねの面影が見えた気がして、左近は思わず失笑した。部下は主に似るということか。仲が宜しくて、結構ではないか。
 だからといって三成の部下の自分までああはなりたくないものだなと、左近は苦笑して出陣した。











初掲載 2007年11月30日