最近、秀吉がことのほか気に入っている遊びがある。誰かと、その人物に化けさせたねねを、問われた主がはたして見分けることが出来るのかどうかという遊びだ。たいてい酒の席ということですでに酒も回っている。そこに、突然この問いがなされるのである。その上、変装は見事で違いがない。勝負は五分五分勘である。間違えれば秀吉に笑われるのだが、とはいえ、ねねの見事な化けっぷりに秀吉も当てられた例がない。それをその場で暴露され秀吉も照れ隠しに笑う他ない結末が待っているとはいえ、しかし、それでも興に乗ったものは仕方がない。己の恥よりも面白さを優先し、飽きず、秀吉はその戯れを繰り返した。
それはそんな中の出来事だった。
久しぶりに政宗が京にやって来たと聞き、秀吉は今か今かとその訪問を待ち受けていた。よく京に来たと酒宴に招き、化かしてやろうと思ったのである。脳裏には既に、化かされ苦笑する政宗の姿があった。
ようやくやって来た政宗は秀吉の誘いに頷いた。しかし場所は伊達で用意するという。なんでも、美しい芸者の大勢いる店なのだとか。化かすためには、勿論、ねねが必要である。しかし綺麗な芸者も捨てがたい。しばらく悩んだ末、秀吉は一つの答えを出した。まあ、ねねに怒られんよう気をつけりゃ大丈夫さー。そうして今宵ばかりは伸ばさぬよう鼻の下を注意深く撫でてから、秀吉はどんな綺麗どころがやって来るのか考えた。先の固い誓いも空しく、既に鼻の下は伸びていた。
その夜案内された店は確かに綺麗な娘が多かった。後ろにねねがいることも忘れ、思わず秀吉はにやけた笑みをこぼした。
「やー…、可愛いんさー。」
鼻の下が完全に伸びている。当然、見かねたのはねねだ。頬を引き攣らせ、ねねは笑った。
「…お前さん?何見てるんだい?」
「ねっ、ねね!いっ、いや何も!何も見とらんっ!」
背後から鋭く跳んでくるねねの叱責に、秀吉はようやく妻の存在を思い出した。慌てて弁明する秀吉に、政宗が笑い混じりに一人の娘を紹介してくる。猫、と呼ばれているのだとか。政宗がつけた名だそうで、その名の通り大きなつり上がり気味の瞳に気紛れな雰囲気をまとう娘だった。真ん中分けが主流のこの時代にしては珍しく、前髪を斜めに分けている。愛らしいその姿に、思わず下心もおもむろに譲ってくれはせぬか尋ねてみると、政宗は残念そうに首を振った。
「殿下、大変心苦しいのですが、これをお譲りするわけにはいかんのです。」
ねねの存在をしっかり覚えている政宗とは対称的に、秀吉はすっかり失念している。重ねてねだる秀吉に、困り政宗が眉尻を下げた。勿論、ねねのじっと睨みつけるような視線は意識していた。
「これは殿下相手じゃからこそ、打ち明けるのですが。」
「ふむふむ?」
「こやつは、わしの影武者なのです。ゆえに、お譲りするわけにはいきませぬ。」
娘が影武者なのだという。その理由に、もしや手放したくないがゆえの嘘ではないだろうなと疑念が浮かんだが、考えてみれば、政宗は秀吉の知る限りでは一番の童顔である。まじまじ見れば、目許やちょんとつりあがった鼻筋などが政宗に似ているような気もする。見詰められ照れたのかはにかむ娘に、勿体ないと思いながら致し方ないと頷いた。背後のねねが、存在を主張するように、「お前さん?」と優しい声を出したせいもある。その声は優しいだけに、かえって恐ろしさを募らせた。今夜は城へ帰ったら、迷うことなく修羅場だろう。
もう酔い潰れて今夜は帰りたくないものだと願いつつ、猫の酌で酒を呑み進め、そろそろ酔いも廻ってきた頃。余興だと言って秀吉が遊びを提案しようとした。そのときだ。
「殿下は最近、遊びにはまってらっしゃるのだとか。」
先に口火を切ったのは、政宗だった。内心、何企んどると面白がる秀吉に、政宗は提案した。
「折角なのですから、この政宗めがいずれか当てることにしませぬか?」
「じゃがのう、」
秀吉は答えあぐねた。当然である。これは政宗をからかうために、秀吉がしかけたい遊びなのだ。秀吉が解答者に回っては、からかわれることはあってもからかうことは出来ない。そんな秀吉の思いの内を知ってか知らずか、ねねが大きく頷いた。
「それ、面白そうだね!さ、やろうよ!」
秀吉は心中頭をかいた。遊女相手に遊びほうけすぎ、本気でねねは腹を立てたらしい。ここでねねを当てられぬものならば、帰ってからが更に怖い。秀吉は大きく肩を落とした。どうやら、政宗にいっぱい食わされたようである。サルをけしかけたときと同じだ。綺麗どころ、などという歌い文句にほいほいついてくるべきでなかった。
ところが、である。
そんなとき、秀吉にとっては折良く、三成がやって来た。ねねを当てられるならば問題ないが、当てられそうにない秀吉にとってはまさしく救世主である。秀吉は諸手を挙げて、三成の登場を喜んだ。
「三成!よう来た!」
「は?」
「おみゃあさんが相手をせえ。な?そうしたら良いんさ!」
「…何ですか。また、何かやらかしたんですか?」
二人並んだ政宗に、おおよそ状況を把握したらしい三成が呆れて言った。
「だから俺はお止めしたでしょう。」
しかしそうは言いながらも、三成も秀吉の部下。おいそれと命令を拒むことも出来ない。ふむと扇子を広げてから、二人の政宗を一瞥し、三成は大きく嘆息した。
「秀吉様。当てたら褒美に何をくれます?」
三成にしては即物的な要求に、秀吉は正直驚いた。しかし可愛がる部下の珍しい言葉、その上政宗の手前である。秀吉は太っ腹なところを見せねばなるまいと腹を括り、半ばやけっぱちに叫んだ。
「何でもおみゃあさんが欲しいもんくれてやるんさ!」
「その言葉、嘘偽りはないですね?」
「男に二言はにゃあ!」
「そうですか。それ、忘れないでくださいよ。」
わずかに、右の政宗が身を強張らせた。それが、大言壮語を吐いた夫に家計を預かる主婦として怒りを覚えたねねなのか、失笑を隠しきれない政宗なのか、秀吉にはわからなかった。
しかし三成は違うようであった。扇子を閉じた三成は、一歩、前へ踏み出した。
「俺が選ぶ政宗は、」
迷いのない足取りで、三成はそれに近づき手を取り上げた。
「これです。」
とても酒の席とは思えぬほど、その場に沈黙が満ち満ちた。取り上げられた手を見やり、それが三成を見上げた。困惑仕切りの様子である。無理もない。三成が選んだのは、政宗たちの後ろに控えていた猫だった。戸惑う様子で小首を傾げ、猫が可憐な唇を開く寸前。三成が秀吉を振り返った。
「褒美は何でもいいんですよね?」
「あ、ああ。でも三成、そりゃ、」
言いあぐねる秀吉を鼻先で笑い、三成は言った。
「見くびらないで下さい。この俺が、懸想した人間を間違うわけがないでしょう。」
初耳である。すわ幻聴かと秀吉が耳を疑う間にも、呆気に取られ目を見開いている猫を、三成は軽々と腕に抱き上げた。双方美形なだけあって、憎らしいほど様になる。まるで物語の王子様とお姫様そのままだ。わけもなく、長政とお市を前にしたときのような敗北感に、秀吉は襲われた気がした。
「では、これをもらっていきますから。」
反論する間も、承諾する間も許されなかった。
閉じる間際の襖からちらり覗いた横顔に、秀吉はまんまといっぱい食わされたとあんぐり口を開けた。憮然とし、不満そうに唇を尖らせた猫のあの表情。間違いない、政宗である。後ろを見れば、こちらが本物の猫であろう、その隣でねねがにこにこ笑っている。
「あの子ら、可愛いよねえ。ああ、三成呼んで本当に良かった!ねえ、お前さま。」
秀吉は大袈裟に天を仰いだ。これでは一体、誰が化かされ、誰が化かしていたのやら。
「でもお前さま、いくら政宗が誘ったからって、今日はちょっとお痛しすぎだよ!」
とりあえずこの後、城に帰ったらねねが怖いことだけは、秀吉にとって確実なようである。
連れてこられた座敷部屋の布団に下ろされた政宗は、剣呑な目付きをしていた。口元には不敵な笑みを貼り付けつつも、しかし瞳には焦りが窺える。まさか、このような展開になるなど予想だにしていなかったに違いない。動揺も顕な政宗の様子に、内心三成は苦笑した。三成だとて、そうである。まさか、呼ばれた酒の席に政宗がいるとは思わなかった。その上、このような娘の形であるとは。三成の知る限りでは誰よりも高い彼の誇りは、伊達男であろうとする矜持の前には、脆くも崩れ去ったようだった。奇を衒うからこうなるのだ。
「随分様になっているな。」
揶揄うような三成の口調に、思わず政宗がつけていたかもじを投げつけた。しかし相手は三成である。政宗にとっては小憎らしくも、ひょいと簡単に避けてしまった。ますます憤る政宗の目許に朱が差す。だが怒りゆえのその紅潮も、政宗が艶やかな形であることもあり、三成にはまるで怖くない。むしろ、三成を煽るだけだ。まったく墓穴を掘りやすい男だ、うかつなのかもしれないな。そんな失礼なことを考えながら、三成は肩膝ついて身を進めた。先の怒りと男である矜持ゆえに戸惑ったが、それ以上の焦りが政宗を襲った。
「貴様、なんの冗談だ?」
感情を押し殺した声は平坦すぎるほどに平坦である。だが、腰が引けている上に、後ずさり逃げているのだから、思いのうちなどばればれである。
「わからないのか?」
「わかるわけがないであろう。折角ねね様と謀ったのに、何故、貴様が答えてしまうんじゃ!」
掌から伝わる敷布団の柔らかさが、むやみやたらと生々しい。その上、背はもう壁についている。逃げ場はない。誤魔化しきれぬほど焦りを刺激され思わず叫ぶ政宗に、三成は「ふむ?」と考えるように動きを止めた。政宗の顔まで、距離にしてわずか一尺ほど。脇に置いた手も上から握るように押さえつけられ、どう足掻いても外せない。このような状況で動きを止められても、かえって、身の置き方に困るというものである。目の前の美貌に、認めたくはないが、眩暈がした。
「それは何故だ?」
「何故と言っても、諸侯を困らせておる太閤の遊びをそろそろ叱って止めさせるためじゃと、」
「…ねね様がそう言ったのか?」
ここに来て、会話の不穏な成り行きに、政宗も何か感じるところがあったらしい。眉をひそめる政宗に、折角着飾っているのに勿体ないものだと思いつつ、三成は告げた。
「この酒の席に来るよう命じたのも、秀吉様がどうせ困るだろうから助けるよう言ったのも、ねね様だぞ。」
「なっ、」
「ふ。謀られたな、おねね様に。」
言い、三成は言葉を失う政宗へと更に距離を一歩詰めた。政宗は慌てて後ろへ下がろうとするが、後背には最早壁しかない。怒りに唇を噛み締め、ぎりりと政宗は歯を鳴らした。このような策にはまって、男に下賜されるなどと。政宗にとっては屈辱以外の何物でもない。手さえ自由なら殴りつけてやったのに、と政宗は強く三成を睨んだ。
「…この、馬鹿めっ。」
「馬鹿で結構。貴様みたいなじゃじゃ馬に惚れた時点で馬鹿だろうよ。自分でわかっている。」
「屑っ!」
「それで気が済むのなら、何とでも言え。」
「この変、態っ!」
「それは、俺が悪いのではないだろう。そんな格好をしている貴様に責はある。」
吐息が感じられるほど、近い。そうであるというのに、手は動きを封じられ、足は重ねて着込んだ慣れぬ女物の重量を前に満足に動かない有様だ。政宗は強く瞼を瞑り、諦め、大きく溜め息を吐いた。このような屈辱的な状況では絶対に嫌だったが、政宗の矜持はこのような状況は絶対に許せなかったが。本当に、このような状況は嫌だったが。絶対に言いはしないが――不満なのは状況だけだった。
辛うじて動く頭を三成の肩口に擦り寄せ、政宗は小さく呟いた。
「…物好きな奴。もう、貴様の好きにすれば良い。」
しおらしい政宗の様子に三成はわずかに目を見張り、それから、にやりと満足そうに笑った。
「その言葉、違うなよ。」
「…、違うことなど許さぬくせに。」
答えず、三成は政宗を壁に押し付け、黙らせるように唇を重ねた。大変な男のものになったものだと強い眩暈を感じつつ、政宗はきつく目を閉じた。
初掲載 2007年9月