兼続は焦っていた。憤っていたといっても過言ではない。政宗が遠呂智軍に降り、主に日ノ本の武将で構成される反乱軍に身を寄せる兼続の敵となって、早数ヶ月が過ぎた。その間、兼続は何が出来ただろう。自問してみるに、答えが出ない。そもそも、上杉軍に在籍する兼続と伊達軍の頭領たる政宗が、同じ派閥に属し、のみならず味方として軍を起こしたことの方が少ないのだが、そのようなこと兼続の頭からは抜けている。兼続はぐうの音も出ないほど、自らの無力に打ちひしがれた。それはいっそ、芝居がかっているほどの熱烈な打ちひしがれ方であったので、かえって兼続らしくもあった。
当然、それは人目を引かずにおれないようなものであったので、端から眺めるものたちがあった。近くの座敷で、歓談していた四人組である。兼続という男の人間性が苦手ゆえ、関わりを持つまいと眺めるだけに留まる関平。つられて自らも郷愁に駆られ、実妹や良人の安否を気にかけ始めた小喬。そんな上司の愛妻の胸のうちを察して、それとなく慰めにかかる凌統。ほんま顔は良いのに頭は不憫なお人だわと嘆息しつつ、ふと、あることに疑問を覚えた阿国だ。
阿国は常々、何故、あれほどまでに兼続が政宗に執着するのか疑問を抱いていたのだが、そこに追い討ちをかけるように、これである。例えば、兼続の知己である三成も、未だ遠呂智軍に在籍している。しかし、兼続がそのことを嘆いて、このような悲喜交々を演じたことは一度もないように阿国は思うのだ。それだけ、三成のことを信頼しているといえばそれまでなのかもしれない。しかし、この政宗に対する執心は、言うなれば異常である。
そういえば、と凌統が口にしたのはそれから四半刻ほど経ったときのことであった。小喬は、彼女のことを大いに気に入っている信長に呼ばれて、席を外している。否、外したからこそ、凌統はこの話題をようやく切り出したのかもしれない。凌統はちらりと兼続に一瞥投げかけてから、小声で言った。
「独眼大蛇さんなんすけど、何で、あんなに兼続さんに捕まるんですかね?」
以前から不審に思っていたのだろう。確かに、と頷いたのは、関平である。遠呂智軍と反乱軍という敵対関係ながら、関平は同年ということもあり、政宗を好敵手と見定めつつも、親愛の情を抱いていた。そういう心の動きもあって、伊達軍が出払う戦あらば信長に乞うて出陣しているのだが、気がつけば、先に兼続が政宗を捕縛している。これは、長谷堂城で行われた戦においても同じであったらしい。そして、どういうわけかその後、政宗が見張りの目を掻い潜って悉く逃げ果せるという結果が待っているのだが、それについて信長も秀吉も信玄も何を言うでもなく、ただ見守っている。これに関して、彼ら三人は、遠呂智軍に内通しているものがあるならば排除せねば、という気も起きぬようだ。
「平ちゃんは、なんや、聞いてへんの?」
身を乗り出して問いかける阿国に、関平は僅かに後ろへ下がりながら、否と答えた。
関平は一度、曹操にも例えられるその才に触れてみたいと思い、囚われた政宗と夜を明かして語ったことがあった。そのとき、関平は、大胆にして繊細、闊達で晴れやかながらその底に深い闇を抱く政宗に、強い危惧と共に友情を覚えることとなった。
その際、関平も、政宗と兼続のいたちごっことも呼べる捕縛劇を常々不審に思っていたので、直接本人に尋ねてみたのだ。だが、政宗から返って来るのは、それまでの明快な言葉とは打って変わっての曖昧な呻き声ばかりである。終いには、独眼に殺意を滾らせて兼続への呪詛を吐き始めたので、慌てて関平も話題を逸らしたのだった。
その経緯を関平が語って聞かせると、凌統は何か思うところがあるらしく、顎に手を当てた。そうして、ぽつりと漏らされた台詞に、関平は目を丸くした。
「あっちじゃ、男同士ってのは普通らしいけど、そんな、なあ…。」
兼続の考えることなど、関平には毛頭理解できない。だから、そう考える余地もあるのかもしれない。だがまさか、政宗に限ってそんなはずはあるまい。あれほど兼続のことを嫌う素振りを見せているのだ。しかし、と同時に、関平の頭を過ぎる不安があった。政宗はあれだけ賢しい男だ。あれも演じているだけかもしれない。
一時物々しい沈黙が流れた後、勘繰れば勘繰るほど泥沼化する話題を放棄して、関平が話を平和なものへと変えた。
「…そういえば、兼続殿ですが。新しい赴任先が決まったそうですね。」
「ああ、黄忠のじいさんが行ってる先だろ?…何て言いましたっけ、阿国さん。恥ずかしながら、日ノ本の地名はまだ頭に入ってないんすよ。」
そう言う凌統に、阿国がにっこり微笑えんで答えることには。
「金ヶ崎、ゆうんよ。…ここからは結構遠方になるんやないやろか?」
あの第六天魔王ですら若干持て余し、遠ざける存在。それが、兼続である。
一方、政宗である。政宗は未だかつてないほど、怒りに燃え滾っていた。考えてみれば、政宗は兼続相手に連敗を重ねているのだ。ふいにその事実に思い立つと、最早黙っておれぬほど、政宗の怒りは深くなった。そもそも敗北の仕方からして、政宗の意にそぐわぬものなのだから、その怒りや凄まじいものがある。
政宗が妙な戦法で兼続に捕縛されるようになったのは、今に始まったことではない。始まりは、あまり覚えていたくもなかったので努めて忘れるよう心がけているのだが、秀吉主催の茶会に呼ばれたときであったように思う。茶会が呑み会に変わったのは、酉の刻を過ぎた頃であったろうか。身分差も考えず喧嘩を吹っ掛けてきた兼続の口車にまんまと乗せられ、政宗の余裕が崩れたのは、酒が随分と過ぎていたせいである。嫌味の応酬はやがて罵倒の遣り取りへ変化し、周囲からやんやと野次を飛ばされるに至って、それまで、侍女を隣室に連れ込もうとした主催者を叱り付けるべく席を外していたねねが帰ってきた。ねねは、あわや掴み合いに発展しそうな口喧嘩に眦を吊り上げると、喧嘩両成敗とばかりに、二人の首根っこを掴んで室外に放り出した。元々、良人の浮気未遂で機嫌が悪かったのだ。しかし、北の政所の仕置きを受けても、どうにも腹の虫の収まらない政宗と兼続は、それから半刻ほど、ねねの目が届かぬ場所で罵り合っていた。
最初に相手の胸倉を掴みあげたのは、政宗だった。相手は上杉の参謀である、手を出すのは拙かろう、という先の配慮も怒りの前に消えていた。もしかすると、このとき、政宗が短慮な行動に走らなければ、以降延々と連なる敗北もなかったかもしれない。己の胸倉を掴みあげ、噛み付くように吼える政宗に何を思ったのか、兼続は噛み付くような口付けをした。自らより大柄な男に襲われて、口を吸われ、政宗はなす術もなく背からもんどりうって倒れこんだ。圧し掛かってくる重みと深く重なる唇、そして、当然のように痛みを訴える身体に気が遠くなる。気に喰わない男に唇を奪われながら疼く堪え性のない身体を、既に酸欠気味の頭ではあったが、政宗は心底憎いと思った。それゆえ政宗は、兼続の手が熱心に体を弄っていることに気づかなかった。気付いていれば、興奮していたのが己だけではないと知れただろうに。否、知ったところでかえって気味が悪く何の慰めにもならないが、意趣返しする手助けくらいにはなったかもしれない。
やがて、兼続は糸を引かせて唇を離した。腰が抜けて立ち上がることすら侭ならない政宗に、驚嘆交じりに笑って一言。
「なるほど、喧々吼える山犬を黙らせるには、有効かもしれん。今回のこの戦、私の完全勝利のようだな。」
政宗は絶句して、何も返せなかった。
それからである。戦場でもこの手法で毎回やり込められて、捕縛されるようになったのは。戦において勝つためならば手段を問わぬのが常とはいえ、それでも、一線を画する程度の配慮を見せるのが普通である。それを兼続という男は、味を占めたように毎回毎回芸もなく、この不埒な策を弄して政宗を捕らえるのだ。勿論、政宗もしてやられるばかりではない。色々と対応を講じるのだが、いっかな、巧くいかない。それというのも、兼続が異常に躁で異様に頑丈で奇天烈な力を用いるせいである。近づけさせまいとして遠方から攻撃してみても、札で阻まれる。政宗も近くに人がおれば兼続もあのような無体な真似に走るまいと思うのだが、仮に人目も憚らず口を吸われたらという不安と、少しでも距離を取りたい一心から、結果的に人気のない方に追い込まれてしまう。接近戦になってしまえば、政宗など兼続の敵ではない。はたして、あの頑丈さは何処から来るのか。政宗が力いっぱい殴ったところで、風にそよと撫でられた程度にしか感じない兼続だ。物の数にも入らない抵抗を捻じ伏せ、力でもって政宗の唇を奪うくらいわけないのである。そうなれば、どれだけ政宗が手足をばたつかせようと、身を捩ろうと関係ない。政宗は為す術もなく、敗北を喫することとなる。腰が抜けてしまい、逃げようがないのだ。
もしかすると、奇計百出、鬼謀の冴え渡る諸葛亮や妲妃といった軍師連中に相談すれば、政宗ももっとましな対策を練ることが可能なのかもしれない。しかし、それは、自らの置かれている不幸を漏らさねばならないということでもある。常であれば隠し事などせぬ三傑相手にしても同様のことが言える。
次回は日ノ本関係というと、伊達軍は金ヶ崎に攻め入る予定か。政宗は炯々と目を光らせて、金ヶ崎付近の地図を睨みつけた。現在、黄忠が守備についているというから会うこともあるまいが、神出鬼没なところのあるあの男のことだ。出くわしてしまった場合のことを、絶えず念頭に置く必要がある。
政宗は切羽詰って袋小路に陥っていることにも気付かず、普段であれば冴え渡る知恵を絞って、必死に打開策を講じようとした。
さて、そういう経緯を経て、見事、戦場で遭遇してしまった兼続と政宗であった。人気のないところで唇を重ねるところまでは、恒例と化した手順である。しかし、そこから先が普段と違ったので、兼続は驚きに重ね合わせていた唇を離した。
一方の政宗は、策が功を奏したものと心中手を打って喜んでいた。政宗はあれこれ思い悩んだ末、素直に兼続の技巧を認めたくないがゆえに、口吸いを受ける一方だから己は腰が抜けて負けてしまうものと決め付け、また同時に、であるとするならば兼続にも同様のことが言えるのではないかと結論を出した。つまり、自分が本気を出して仕留めにかかれば、兼続も腰を抜かして負けを認めるはずである、と。あまりに早計である。だが、事情を知悉し、止めてくれるような存在も居ない。結果、政宗は短慮な行動に走った。これでは、自ら喰らってくれと喧伝しているようなものである。しかし、政宗はそのようなこととは夢とも思わず、不敵な笑みを浮かべて兼続の様子を窺っていた。
下腹の辺りに政宗が奇妙な違和を覚えたのは、そのときである。何であろうと意識を散らした瞬間、兼続に勢い良く圧し掛かられて、大坂の昔日と同様、政宗は背からもんどりうって倒れこんだ。
「そうか、ようやく山犬も義と愛の重要性をわかってくれたか!私の愛の勝利だな!」
等々、兼続は興奮気味に意味不明なことを捲くし立てている。しかし、そのようなことに構っている余裕は政宗にはなかった。先ほど覚えた違和を、今、足の付け根に感じる。ざっと血の気の引いた顔で政宗はその辺りと兼続とを交互に見やった。政宗も男である。当然、生理現象の一つであるそれを知らぬはずがない。だが、何故、かような場面でこの男は固くしておるのだ。混乱と動揺のあまり頭が巧く回らない政宗の鎧を、兼続が器用にも剥ぎ取っていく。最早こうなれば恥も外聞もない。事態は一刻を争うのだ。誰か居らぬものかと血眼になって周囲を見渡すが、今回は罠のつもりで政宗自ら人気のないところへ誘い込んだのである。当然のように誰も居ない。
下穿きの中に手を差し込まれる。政宗は精一杯、手足をばたつかせて抵抗を示した。だが、身体能力という一点において兼続に勝てるはずのないことは、政宗も身に沁みて良くわかっている。
嗚呼、無情。今まさに一人の少年の純潔が汚されようとしていた。
しかし、このような無体を天が許すはずがないということか。振り下ろされた一撃をまともに後頭部に受けて、兼続が倒れ伏した。涙で濡れた睫毛を瞬かせて政宗が兼続の肩越しに見上げれば、斬馬刀を手にした関平が顔を強張らせて立っている。実は関平、兼続の赴任に際して、黄忠と旧交を温めようと金ヶ崎へやって来ていたのである。そして、好敵手の姿を求めて疾駆しているときに、助けを求める声を耳にして飛んで来たのだ。元々、関平は兼続に良い印象を抱いておらず、その一方で政宗には親愛の情を寄せていたので、現場を目にしたときの行動も早かった。
「か、関平ぇ…っ!」
関平が兼続の体を退けてやると、ようやく窮地を脱したことを理解できた政宗が、わあわあ泣きじゃくりしがみついて来る。関平は政宗に服を着せてやり、背を擦ってやりながらその場を後にした。後に残されたのは、意識を失った兼続ばかり。
因果は巡る。早計を立てれば窮地に陥り、罪を犯せば罰が下る。例え魔王の手によって世界が生まれ変わろうとも、因果はそのように出来ているということである。
どっとはらい。
初掲載 2009年8月14日