腕が伸ばされた。細い、手折れてしまいそうな未熟な腕だ。
発達途上にあるそれは、己を押し退けるのかと思った。拒むのかと思った。
しかし、腕は頼りなく背中に回され、あやすように二三度叩いた。兼続は大きく目を見開いた。それが自分の犯した仕打ちに対する行為であるとは思えなかった。
ぽたりと涙が零れ落ちた。
大阪で起こった大戦から既に季節が一つ半巡り、家康が病に倒れてから半年以上経った、如月初午のことだった。
江戸に参拝に訪れた兼続は期せずして政宗の姿を見つけた。江戸中いたるところに設けられた稲荷神社の一つ、国主が一人で居るべきではないような場所だ。同じ状況の兼続が言えた義理ではないが、無用心だと一瞥を投げて兼続は立ち去ろうとした。
そのとき、背後から声をかけられた。
無視をすれば良かったのだと思う。互いの立場があるとはいえ、雑踏に紛れて聞こえなかったと言えば良い。一度無視すれば、政宗もわざわざ後を追いかけて来ないだろう。そもそも、兼続自身であったのか確信を持てないに違いない。兼続に、話すことなどない。
しかし、兼続は応えてしまった。
振り返った兼続の顔に政宗は僅かに眉をひそめた。おそらく、酷い顔をしていたのだろう。去年の夏から落ちた陰は重く、減った体重も手伝って、兼続を暗く見せていた。
だが、感情を表したのも束の間。政宗はすぐさま気丈な態度に戻ると、兼続のことを鼻先で笑った。
「貴様も、稲荷の祭りに来たのか。意外じゃな。貴様の信仰は愛染明王であろうに。」
「…民の様子を見るのも悪くあるまい。」
「なら、もう少し民に溶け込む工夫をするのじゃな。そのような顔で。不審者と間違えられても知らんぞ。」
歩き出した政宗に目を向けられ、兼続はしぶしぶ後に続いた。
一体何処へ向かおうというのか、路地裏の小さな稲荷から祭りで賑わった人込みを抜けて、政宗は何か目的を持って足を進めているようだった。
「上杉はどうじゃ。」
「…知っているだろう、減封だ。」
「そうか。まあ、わしも普請や参拝で財を取られて、散々じゃ。」
「しかし、それは貴様の望んだ未来だ。山犬。」
兼続の非難に、政宗がおかしそうに嗤った。
「はっ。その呼び名も久しいな。そもそも人目があれば、かようにため口なぞありえぬが。」
人目どころか人気もない。ここが幕府の置かれた江戸なのかと違和感を覚えるような、林の中の境内だ。江戸特有の潮の香りも届かない。今日ばかりは稲荷に参拝者を取られたのかといぶかしんでから、玉垣をろくに敷かれぬ地面と黴の浮き出た黒い社にそうでもなさそうだと一人ごちた兼続を他所に、政宗が縁に腰を下ろした。
「徳川は伊達を手折るつもりかもしれんの。力の見せしめとして。」
ふっと沈黙を間に挟んでから、政宗が兼続を見上げた。
「そんな思いつめた様子で生きておってもつまらぬであろうに。」
隻眼に浮かんだ憐みの色に、衝動的に、兼続は政宗の肩を縁に押し付けていた。
「貴様が、幸村を殺した貴様が言うのか。」
無理矢理だった。常であれば、兼続が最も忌避する愛のない行為だ。三成が死んだと知ったとき捨て去った義ですら、これに比べればましだった。人の道にもとったことだった。
「……、…愚かで…惨めじゃな、山城守。」
下に敷いた政宗が血の気の引いた顔で呟いた。強いられた苦痛に額には脂汗が滲んでいた。
「…貴様に比べればましだ。」
その返しに、政宗がふっとぎこちなく笑った。
腕が伸ばされた。細い、手折れてしまいそうな未熟な腕だ。
発達途上にあるそれは、己を押し退けるのかと思った。拒むのかと思った。
しかし、腕は頼りなく背中に回され、あやすように二三度叩いた。兼続は大きく目を見開いた。それが自分の犯した仕打ちに対する行為であるとは思えなかった。
優しい声で政宗が囁いた。
「…我慢せず泣きたくば泣くが良い、兼続。誰も…誰もそれを咎めぬというのに。」
ぽたりと涙が零れ落ちた。
初掲載 2007年12月16日
【愛染明王】
愛欲の煩悩がそのまま悟りにつながることを示す明王。