2007年9月23日伊達受オンリー発行 それを直江は愛と呼ぶのだ!

「原因」(げんいん)

「友情」(ゆうじょう)

「転」(うたた)

「噂」(うわさ)

「必要悪」(ひつようあく)

「愛」(あい)

































 

「原因」(げんいん) 兼政で8のお題、七「恥をかかせおって」


 (1)ある物事や状態を引き起こしたもとになった事・出来事。
 (2)結果が出てから、悔やむ際に口にする言葉。





 直江兼続が記憶を失したそうである。頭を強く打ち、目覚めたときにはすでに自分のことも周りのこともわからなくなっていたそうだ。何か弱みでも握れぬものかと潜ませておいた黒はばきの報告に、それまで留守を任せた小十郎に文を認めていた政宗は、取るものも取らず屋敷を飛び出した。時は太閤秀吉の時代、大阪には武将が大勢居を構えて並んでいた。そういう状況ではいくら隠そうとも、兼続の話などすぐさま知れようものだ。だから、そんな面白そうなことは他人の手垢のついていないうちにからかうに限る、と政宗はおっとり刀で兼続の住まう屋敷に向かった次第である。
 もっとも政宗が、多少品がないとも取れる行為に走った理由は他にもあった。政宗と兼続は、犬猿と称されるほど仲が悪いのだ。他人の不幸は蜜の味。それは嫌っている相手のものであれば尚更甘かった。
 甘いはずであった。
 「直江山城守兼続!来てやったぞ!記憶を失ったというのは本当か!」
 すぱんと障子が小気味良い音を立てて開かれた。驚いたのか、兼続が大きく瞬きした。
 政宗が見当をつけたとおり、兼続は宅にいた。いたにはいたが、政宗の目論見は残念ながら外れていた。驚きから回復すると、兼続は見たこともないほど爽やかな笑顔を浮かべ、急に訪れた政宗を迎えた。宗教の臭いをさせるいつもの胡散臭い笑みではなく、どこか幸村が浮かべる類に似た、爽やかな笑みであった。
 障子に片手をかけたまま政宗はしばしうろたえ視線を泳がせた後、部屋の隅で壁にもたれてこちらの様子を窺ってはおかしそうに笑っている慶次を見つけて、咎めるように目つきを鋭くした。もっとも、それがうろたえたところを見られた照れ隠しだとわかっている慶次は気にも留めない。慶次は壁から背を離すと、やはりおかしそうに笑いながら兼続の肩を持ち、政宗を指差した。
 「兼続、こちらの御仁は伊達政宗。こんな小さいなりしてるが、これで奥州一帯を統べる大大名だ。」
 「伊達政宗殿…、申し訳ない。実は記憶が混乱していて覚えていないのだが。しかし、」
 爽やかすぎる雰囲気に、幸村と同じどこか天然じみたものを感じ、政宗はとても嫌な予感がした。本能に従って逃げ帰ろうとする足を引き止めたのは、虎哉禅師から教え込まれたへそ曲がりだった。
 「定かならぬ噂を耳にするなりこれほどまでに私の身を案じ、すぐさま駆けつけてくれるとは…、政宗殿は私の親友に違いない。」
 意地など張らず、逃げれば良かった。見当だにしなかった台詞をあの兼続が吐いているのかと思うと、本気で気持ち悪かった。政宗は鳥肌の立つ腕を組んで、慶次を見た。
 「な。面白いだろ?」
 「全然、何処がじゃ!」
 「…!政宗殿はそんなにも私のことを心配してくれるのだな。」
 「ちっ、違。」
 また何か勘違いしたらしい兼続にきらきらと輝く無垢な瞳で見つめられ、政宗の肌は更にあわ立った。背筋に何か薄ら寒いものが走る。政宗はうひーとらしくもない悲鳴を上げて、慶次の腕を掴むと全速力で部屋の隅へと連れていった。
 首を傾げこちらを窺う兼続を指し示し、政宗は小声で慶次に尋ねた。
 「あっ、あれは何じゃ?!あの馬鹿の、出来の悪い影武者か?」
 「違う違う。政宗も、どうせ子飼いの忍の情報で来たんだろうが、お前さんのとこの忍は有能だろう。そんな間違いするもんか。ありゃ、兼続が記憶失った姿だよ。」
 「それであんな気持ち悪いことに…!わしのことをし、親友だのと!」
 思い出して二の腕を擦る政宗に、慶次が苦笑した。
 「まあ、政宗が一等早く来たからねえ。」
 「あの馬鹿が仲良くしとる真田や石田はどうしたっ!」
 「さあ。まだ知らないんじゃないのかい、下手すりゃ。でも幸村はともかく、三成の方は知ったとしても来ないかもしれないねえ。」
 確かに報告を受けたとしても、三成はひどく大儀そうな顔をして仕事を言い訳に来なさそうである。「左近、見舞いの品でも送っておけ。」それだけで済ましそうだ。命じられた左近の方も主の言葉を素っ気無いと思いつつ、「でもまあ、直江さんですし。」と、納得して見舞い品を選んでいそうだ。
 全ては「まあ、あの直江だし。」その一言に尽きるのである。
 「話は終っただろうか?」
 心持心細そうな顔でこちらを覗きこんでいる兼続と目があった。幸村でも良い、三成でも良い。何だったら、兼続が日頃信仰していた愛染明王でも良い。誰かこの状況を打破してくれ。子犬のようないじらしい兼続の目に、政宗は本気で眩暈がした。
 「誰か…とりあえず幸村と三成来い!早う連れて参れ!」
 隣では慶次がやはりおかしそうに笑っていた。


 「頭を殴れば直るのではないか?エレキテルで動く機械も、大抵殴れば直るだろう。」
 政宗が向かわせた使いによって無理矢理連れてこられた三成は、言うなり、すぐさま実行せんと、ひらりと扇を斜めにはらって開いた。一応兼続の部下で友人なのだが、やはり慶次は面白そうに軽く目を眇めただけで引き止めようとしないので、代わりに、左近が慌てて三成の暴挙を止めさせた。
 「ちょっと待ってください、殿。これ以上悪化したらどうするんですか。」
 「悪化も何もこれ以上、」
 はたとあることに気づいたように扇を閉じ、三成は幸村と談笑している兼続を見やった。
 その隣では政宗が瀕死の呈でぐったりと襖にもたれている。幸村が来るまで、ずっと兼続の相手をしていたのだ。犬猿の仲であるがゆえに、普段と違う兼続の様子は政宗の心に多大な痛手を与えたようだった。頼みの綱だった慶次はうろたえる政宗を面白がって、まるでそれが当然であるのように、手助けしようとはしなかった。逆に、政宗にとっては致命的ともいえる無駄な茶々入れをしたので、最後の方、政宗は慶次の介入を望むどころか、本気でもう止めてくれと手を合わせて懇願したくらいだった。
 「兼続。政宗はさ、お前さんの一番の親友だったんだぜ。」
 違う。全く違う。真実はその真逆で、互いにどうやって相手の足を引っ張ってやろうかと画策する程度には毛嫌いしあっていた。しかし記憶を失った兼続は純粋で、慶次が吹き込んだ法螺を信じて疑わず、どれだけ政宗が力いっぱい否定しようとも政宗の言を信じなかった。兼続に気苦労させまいと政宗が気を使っているものと思ったようである。見舞いに一番初めに来た、すなわち親友であろう、という最初の誤解も尾を引いているようだ。兼続に本当にすまなさそうな顔で謝罪されるたび、政宗は何故ここに来てしまったのだろうと己の愚行を呪った。せめて、来てすぐさま引き返すぐらいの機知があれば良かった。
 年相応に困惑し途方に暮れた様子でいる政宗を、珍しいものを見たと思いながら、三成は言った。
 「今のままで良いのではないか?むしろ前よりまともになったくらいだ。何も問題はないだろう。」
 酷い言い様である。
 「いえ、問題っていえばありますが。執務はどうするんですか。」
 「そろそろ開花の時期だ。秀吉様主催の花見で当分仕事にはなるまい。大体今日もその支度で俺は忙しかったのだ。むしろ、酒の肴が出来て良いくらいだろうよ。」
 そう言われるとそんな気もしてくるから不思議だ。三成の言葉に説得力があるというよりは、「まあ、あの直江だし。」という認識が大いにものを言っているのだろう。
 言い捨ててさっさと帰ろうとする三成に、左近も兼続たちの様子を見やって、小さく嘆息した。政宗には申し訳ないが、確かに、このままでも良い気がする。もっともそんなこと、当の政宗を前にして言えたものではないが。
 「…難儀な御仁だ。まあ、頑張ってくださいよ。」
 左近も三成の世話で手一杯なのだ。これ以上荷を背負うわけにはいかない。懐かれた政宗に、兼続が記憶を失ったことで発生する面倒事は全て丸投げすることにした。花見の席で、常は犬猿と称されている二人が一緒にいるのを目撃されたら、一体どんな噂が広まることか。無論、皆は兼続が記憶を失ったことは知っているはずだが、そんなこと、秀吉を筆頭に誰も気にしないだろう。元々、そういう事情を知っておきながら茶化すような連中ばかりである上に、花見ということで酒も入る。年の割に老練で常ならば少しも隙を見せない政宗を、これでもか、とからかうこと必須である。
 政宗に同情の視線を送る左近に対し、からりと慶次が笑っていた。絶対、面白がっている。




 一月が経った。見事に花見の季節である。秀吉主催の花見が行われるということで、政宗は大きく溜め息を吐いて屋敷を出ることとなった。向かう先は兼続邸だ。慶次は前夜祭と称して島津たち酒好きと呑んでおり、昨夜から不在である。そのため、兼続の世話を政宗がすることになったのだった。
 この一月、毎日のように兼続にまつわりつかれ、あの無垢な目に無下に扱うことも出来ず、政宗はずるずる流されるまま一緒にいることとなった。元々、政宗は、慕ってくる存在に弱い性質なのだ。そして一緒にいるのを見かけられてはからかわれ、中には秀吉のように政宗をからかうためだけにわざわざ訪れる者まで現れ、政宗は誰に鬱憤を晴らせば良いのかわからぬ屈辱感を味わう日々を経て、今ではすっかり諦めの境地に至っている。胃痛に苛まされた時期も過ぎた。どんな噂も七十五日。まだ一月しか経っていないが、周囲は兼続が政宗と一緒にいる光景に慣れてしまい、からかうのに飽き始めている。
 もう少しの辛抱だ。
 周囲よりも誰よりも、政宗は自身が一番この状況に慣れ始めていることに気づいていなかった。


 その花見の席のことである。周囲が酒に溺れて呑めや歌えやのどんちゃん騒ぎを繰り広げ、「おまえさんたち呑みすぎだよ!」「ねね、花見の席くらい、」「言い訳はなしだよ!」とねねに一列に並ばされ叱られるという恒例行事が始まった頃。勧められれば断らぬものの、いつも通り好んで酒の輪にも加わることもせず、したがってねねに叱られることもなかった政宗は、隣の兼続を見やった。酒好きの謙信や慶次と親交を持つだけあって、流石という酒の強さだ。政宗も北国育ちということもありそれほど弱い方ではなく、むしろ孫市辺りと酌み交わせば勝つ程度には強い。しかしそんな政宗も、兼続の酒の強さには舌を巻かざるをえなかった。初めて酌み交わしたからこそ、知った事実である。今までどおり犬猿のままだったら、こんなことも知らずにいただろうに。政宗は思って、変なこともあるものだと杯を空けた。まさか、兼続と酒を呑むなどと。これまで夢にも見なかった。
 「政宗、」
 「何じゃ。」
 「政宗が好きだ。」
 「そうか。」
 どうせ幼児が親に言うような意味合いであろうとあっさり聞き流した政宗の唇に、何かが触れた。驚いて面を上げると、兼続が濡れた瞳で政宗を見ていた。
 「本当に好きなんだ。」
 政宗は言いあぐね口を閉ざすと、咽喉を鳴らして唾を呑み込んだ。そうして、視線を逸らすことなく固い口調で告げた。
 「違う。」
 「何が?」
 「違う。貴様は単に頼るもののいない不安な中でわしといたから、好きだと勘違いしとるだけじゃ。」
 「違う。そんなことはない。私は本当に政宗のことが好きだ。」
 「違う!わしたちは、」
 政宗と兼続は犬猿の仲である。今兼続は記憶を失くしているから、一番長い間共にいた政宗を恋しいと思っているだけで、実際は違う。毛嫌いしあう仲なのだ。伊達と上杉という間柄、政宗も兼続もそれが当然だと思ってきた。さんざん、政宗も兼続に対して訂正しようと足掻いてきた事実を口にするのが躊躇われ、政宗は唇を噛み締めた。何故今更、躊躇うことがある。兼続が納得するまで言い続け、それでもわからないようなら突き放してわからせれば良いだけだ。そうであるのに、流されるようにしてここまで関係を持ち続けてしまった。
 そこまで考えて、政宗ははっとした。先ほど声を荒げたせいか、周囲の視線がこちらに集まっている。
 「政宗?」
 兼続が心配そうに尋ねてくる。
 もうどうとでもなれ、と政宗は思った。人の噂も七十五日。この一月で好奇の視線にもからかう言葉にも、政宗は十分慣れた。それが更に七十五日延びたところで、何の痛手を己に負わせることができるだろう。むしろ、このままの関係を兼続と持続する方が、自身の精神には多大なる痛手となろう。政宗は精一杯腕を振り上げた。細腕とはいえ武将の渾身の一撃。後頭部にまともに喰らった兼続はそのまま地面にめり込んだ。衝撃ではらはらと桜の花弁が舞う。地に伏している兼続の存在を考慮に入れなければ、非常に幻想的な風景だった。
 政宗は兼続をそのまま捨て置き、悠々と何事もなかったかのように歩き出した。周囲の視線は振り捨てて、そして花見会場を抜け出た後は、一目散に屋敷へと走った。脇目も振らず、ただ、走った。
 どうしようもなく、頬が熱かった。
 ひらり、肩についていた花弁が舞った。


 翌日、花見の席で政宗から受けた後頭部への攻撃が元で、兼続は記憶を全て取り戻した。
 「やはりあのとき初めに、兼続を殴っておけば、話は早かったのだ。」
 三成はそう言って、扇で掌を数度叩きながら、鼻を鳴らした。左近は三成の言うことを尤もかもしれないと思いつつ、緩い笑みを浮かべる他なかった。確かに、あのときさっさと兼続の記憶を取り戻させていれば、こんな目に政宗が会うこともなかっただろう。
 現在、起き上がって早々に、兼続は政宗の屋敷へ突撃訪問中である。政宗にとって幸か不幸か、兼続はこの一月の記憶をしっかり留めていたらしい。昨夜の騒動もあり政宗は奥州へ引き返す支度を取り急ぎ進めているということで、兼続が駆けつけるのが早いか、政宗が雲隠れするのが先かは謎である。しかし、政宗が奥州に引っ込んだところで、おそらく兼続は上杉という立場も忘れて追っかけていくことだろう。元に戻った兼続に、恐れるものなどないもないのだから。何しろ、あの、兼続であるし。
 「…難儀な御仁だ。まあ、頑張ってくださいよ。」
 いつか口にした台詞を呟きながら、左近は胸中で大きく溜め息を吐いた。


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「友情」(ゆうじょう)


 (1)友達の間の親愛の情。友人の間の情け。友達のよしみ。
 (2)窮地において初めて証明されるもの。





 意識を取り戻すや否や屋敷を飛び出た兼続は、訪れた伊達宅で、政宗が既に不在である事実を知らされることとなった。政宗は朝一番で太閤に許しを得、荷物は後続に任せると、一足先に奥州へ引き上げてしまったのだという。半刻ほど前の出来事だそうだ。政宗は松風に次ぐ駿馬と名高い汗血馬に乗って出たため追いつくのは土台無理であろう、というのが政宗に従って大阪にやって来ていた茂庭綱元の言である。最近の記憶喪失及び昨夜の騒動にも精通していると見えて、綱元の口調は些か兼続に同情的ではあったが、事実は事実。その上、部下として主の決定に逆らうわけにもいかない。
 「いやはや申し訳ござりませぬ。政宗様にも困ったものでございまして。」
 しかし兼続としても、ここで納得しておめおめ引き下がるわけにもいかない。兼続は綱元に礼を告げると、たとえ道中追いつけなくとも追わなければと、厩へ走った。
 厩には思わぬ先客がいた。慶次である。慶次といえば、呑んだ翌日は夕方過ぎまで寝て過ごすのが通例のため、このような時間帯に起きていることはまずありえない。兼続が急く気持ちを抑えつけ、何事かあったのかと尋ねると、慶次は頭を掻いて苦笑した。
 「いや。お前さんが困ってるんじゃないかと思ってねえ。良い機会だ。これを気に嫌ってるふりなんざ止めて、幸せを追求してみちゃどうだい?」
 兼続は驚きに目を見張り、しばしの沈黙の後、視線を泳がせ呟いた。
 「…知っていたのか?」
 「そりゃあ、友だ。兼続が政宗のことを好いてたことくらい知ってたさ。餓鬼みたいに好いた子をからかうのも良いっちゃ良いがね、そろそろ本心を告げたらどうだい。いつまでもこのままじゃ駄目だろう。」
 身に沁みる一言である。
 「…言われるまでもなく、そのつもりだ。」
 「そうか、良い返事だ。聞いてて嬉しくなるねえ。」
 慶次はからりと笑い、既に馬具が装着されすぐさま乗れるように整えられている松風を顎で示した。
 「乗っていきなよ。追いかけるんだろ?汗血馬に追いつける可能性があるやつなんざ、俺の松風以外にゃいないぜ?」
 任せろという風に松風が嘶いた。慶次が頷く。
 良い友を持ったものだ。
 「すまない!恩に着る!」
 兼続は松風に跨ると、疾風の速さで厩を飛び出た。


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「転」(うたた) 兼政で8のお題、五「長谷堂城」


 (1)状態がどんどん進行してはなはだしくなるさま。
 (2)ある状態が普通でないことに心を動かされる意。
 (3)止めたくとももはや止められない事柄。事態や感情。





 政宗は必死だった。後続に荷物は任せ、一人さっさと汗血馬を走らせてここまで来た。政宗が自慢する駿馬である。しかも、誰よりも先に大阪を出立している。本来ならば後から大阪を出た者に負けようはずがないのだが、相手は慶次に借りたらしい松風に乗っていた。おのれ慶次貴様どこまで、と政宗にしてみれば、非常に舌打ちをしたい気分だ。元はといえば、慶次が面白がって記憶を失くした兼続に法螺を吹き込んだのが悪いのである。政宗と兼続が親友などと。おかげで政宗は本来ならば犬猿の仲である兼続の世話を焼くことになり、こうして今、追いかけられる羽目になっている。
 花見の後、色々空想してしまい寝付けず、朝になると同時に、政宗は奥州に引き上げることを決めた。出来うる限り兼続の顔が見たくなかった。また、どのような顔をして会えば良いのかもわからなかった。さてどんな言い訳をしようかと迷いながら朝一で秀吉の元に向かうと、秀吉は政宗の細腕を不思議そうに眺め、「どこからあんな馬鹿力出したんね?兼続、地面に埋まってたで。」と首を捻りつつ、あっさりと奥州に帰る許可を出したのだった。どうやら事前に、ねねに何か言い含められていたらしい。政宗は太閤夫妻に感謝を告げて、大阪城を後にした。
 それから、部下に引き上げる旨を伝え、政宗は汗血馬を走らせ上野に着いた。そろそろ馬も己も疲労を無視することが出来ない段階に及んでいる。どこかで休もうと足を止めかけたところ、背後から近づいてきたあるはずのない呼び声に、政宗は度肝を抜かれて後ろを振り返った。松風に乗った兼続がいた。
 以来ずっと、走っている。
 「何故逃げる!」
 愚問である。政宗が兼続に捕まりたくないからだ。
 「貴様が追いかけるからじゃ、馬鹿め!」
 「私は話したいことがあるのだ!記憶が、」
 兼続の記憶がどうなったかなど、説明されずとも話し方でわかる。戻ったのだろう。であれば尚更、政宗は兼続の話など聞きたくなかった。
 「わしにはない!さっさと大阪に帰れ!」
 「…っ待て!」
 どこをどう走ったのか。兼続に捕まらないことだけを胸に脇目も振らず馬を駆ってきたため、政宗は前方に見えてきた城に愕然とした。出羽の長谷堂城である。政宗が目的地にしているのは己の住まう岩手沢城であるから、どこかで道を誤り北に進みすぎたらしい。すぐ脇には最上が拠点としている山形城がある。秀吉が惣無事令を出しきつく目を光らせているとはいえ、最上と伊達は長く敵対してきた過去があるだけに、伊達当主の政宗が無闇に足を踏み入れて良い土地でもない。一瞬、背後から兼続が迫っている事実を忘れ、熟考するよりも先に手が手綱を引いていた。汗血馬が嘶いて、急停止する。
 何故今まで疲労を押して必死に駆けてきたのか。あ、と思ったときには遅かった。政宗は追いついた兼続に手首を掴まれていた。
 「何故、逃げるんだ?」
 兼続の問いはどこか懇願じみていた。まるで逃げないでくれと言っている風にも聞こえる。幻聴だ、と己の耳を嘲笑い、政宗は唇を噛んだ。自身の願いと現実を混合するとは、情けないにもほどがある。しかし政宗は生粋のへそ曲がりである。傷付いた様子は微塵も見せず、気丈に笑った。
 「ふん、何故わしが逃げねばならん。ただ貴様が来るのを無視して駆けていただけじゃ。」
 「しかしここは…岩手沢ではない、長谷堂だ。ならば何処に行こうとしていたんだ?」
 「何処でも良いであろう。早うこの手を離さんか。わしは逃げておらん、それだけで良いであろう!大体、何故貴様はわしを追いかけてきた。そっちから説明せんか。」
 政宗は腕を振り解き、きっと兼続を睨みつけた。一度苛立ちを顕にすると、政宗自身にはもう止めようがなかった。胸がかあと熱くなり、涙が込み上げ、鼻がつんと痛かった。政宗は涙を堪え、一息に叫んだ。
 「わしを嗤いに来たのか!貴様が怖くて逃げ帰ったなど。嗤いたくば嗤え!どうせわしは無様で愚かじゃ!」
 「そんなことは、」
 「そんなことはないとでも言いたいのか?貴様に翻弄されるわしはさぞ見物であったろう!思い出して好きなだけ嗤え!もうわしに、構う、な!」
 もう、堪え切れなかった。悔しさと怒りと悲しみに、政宗の隻眼からぽろりと大粒の涙が零れ出た。兼続が絶句して政宗を見つめている。もうこれ以上恥を晒すのは忍びない。政宗は鼻を啜って、身を翻そうとした。
 「待ってくれ!」
 しかし兼続に再び腕を掴まれ、逃げることは叶わなかった。まだわしを嗤いたいのか。怒りに打ち震えながら、政宗はこれ以上物笑いの種を作ってたまるかと俯いた。泣いている顔はどうせ酷いに決まっていた。
 「私は政宗を嗤いに来たのではない。ただ、記憶は戻ったが昨夜告げた想いに変わりはないと、告げたかっただけなのだ。」
 「嘘、吐け。」
 「嘘ではない。私の言動が政宗を傷つけたのならば謝る。傷つけたいわけではなかったのだ。」
 嘘に違いない。嘘に決まっている。政宗はそう思ったが、きつく閉じた唇が戦慄き嗚咽が漏れるのを抑えられなかった。兼続が政宗の頬に掌を添え、面を上向かせて口づけた。
 「本当なんだ。信じてくれ。」
 もう我慢できなかった。政宗は兼続にしがみつき、わっとばかりに泣き出したのだった。


 ひとしきり泣いた後、政宗と兼続は轡を並べ歩いていた。
 「大阪に戻ってくるだろう。」
 それがさも当然であるとばかりに言う兼続を、政宗は赤く腫れた目で見やり、言った。
 「何を言っておる。わしは奥州に帰るぞ。」
 「しかし誤解は解けたのだから、」
 「何が誤解じゃ。今更前言撤回できるか。それこそ何かあったと疑われること必至であろう、馬鹿め。」
 「だが、」
 「だがも何もないわ、馬鹿め。」
 それ以上兼続が何か言おうとするのを視線で制し、政宗はすんと鼻を鳴らした。元々上野に至った時点で疲労していたところに、休憩なしで出羽まで走らされ、更に追い討ちをかけるように思いっきり泣いたため、心身共にだるくてたまらなかった。
 「貴様もさっさと大阪に帰れ。そうして七十五日一人で噂に晒されて、わしが蒙った迷惑を思い知るが良い。」
 珍しく兼続が困ったような顔をした。いい気味だ、と政宗は襲う睡魔に次第に下がる瞼を押し止めながら、ふと、空が茜色に色付き始めているのに気づいた。幾ら松風とはいえ、既に疲労も募っていることだろう。夜を徹して大阪に帰れと言うのも酷な話かもしれない。流石に政宗もそう思い、兼続にとって最も近場の宿といえばどこだろう、上杉が拠点としている米沢だろうか、と考え込んだ。
 今でこそ転封で伊達は岩手沢を拠点にしているが、米沢といえば元々は政宗が生まれ育った場所である。あまり良い思い出ばかりとも言えないが、それでも懐かしいといえば懐かしい城だ。入れ替わりに上杉が封じられてからは、兼続と仲が悪いこともあり、政宗は一度も訪れていなかった。
 政宗はうつらうつらしつつ言った。
 「久しぶりに米沢城に行きたいのう。」
 「…では来るか?」
 政宗がこくりと頷いたので、兼続はほっと胸を撫で下ろし、半分寝ている政宗に危険だからと松風に乗り移るよう勧めた。その胸には、明日以降への様々な打算や期待を抱いていた。互いの想いを確認し合った者たちが、一つ屋根の下で夜を過ごすのである。しかも、大阪ではなく兼続の権力が隅々まで行き渡る場所であるから、口さがなく言う輩はいない。そこで何が起こるかなど、口にするのは無粋なだけだ。あれもしようこれもしよう。兼続は緩む口端を必死に引き結ばねばならなかった。
 その目論見が、政宗の固い意志の下失敗することを、兼続はまだ知らない。


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「噂」(うわさ)


 (1)世間で言われている話。風説。評判。
 (2)人の身の上や、事件について陰で話をすること。また、その話。
 (3)俗に七十五日経てば消えると説明されている話。消えない場合は事実とされる。





 流石に噂も鎮まっただろう。そう判断して、夏の酷暑が厳しくなる寸前の梅雨に、再び政宗が大阪を訪れると、花見の頃の出来事はもう鳴りを潜めていた。しかし、兼続と政宗の関係に関しては、噂が廃れるどころかそれが確固たる事実として確かな地位を築いていたので、政宗は愕然とした。
 来訪を告げるために向かった大阪城で、会う人会う人、好奇の視線を向けてくるのである。それが何に由来するのかわからぬまま、政宗は秀吉に対面することとなった。
 誰かに理由を尋ねるべきであった。
 「ところで、政宗。」
 「何でござりましょう?」
 「兼続のやつたあもう寝たのけ?」
 政宗は思わず吹いて、咽た。政宗は機知に富んだ対応で、危なげにではあるが、巧く世を渡り歩いてきた武将である。こんな醜態を他人の前に晒すのは、おそらく、初めてのことだった。幾ら政宗の地位が高いとは言え、流石に、太閤の首根っこを捕まえて事の次第を尋ねるわけにもいかない。まさにしてやったりと言わんばかりに、けけけと心底楽しそうに秀吉が笑い声を立てたのも、既に幾度も行っている化かし合いに此度は文句なしに圧勝したためであった。
 秀吉はにやにや笑みを浮かべて、政宗に事の種を明かした。何てことはない。当の兼続自身が吹聴しているというのだ。米沢城に泊まった翌日、恋人らしい展開もなしに、さっさと大阪に帰した腹いせだろう。恋仲が成立したことを示し周囲を牽制しつつの腹いせであるが、元犬猿の仲ということもあってか、手口が微妙に悪質である。政宗にしてみれば、嫌がらせというより他はない。
 あの野郎、見付け次第ぶち殺す。
 政宗の掌の中で、茶器がみしりと音を立てた。庶民派のねねが時折市で購入してくる二束三文の茶器である。とりわけ壊れて困るということもないのだが、そこはかかあ天下、壊されて嬉しいということもない。しかし誰も彼もを自らの子と思っているようなねねが、童顔で年齢以上に幼く見えるためか、政宗には格別甘いことを知っていた秀吉は小さく溜め息を吐くことで諦めた。何しろ、元々は自らが撒いた種である。これを種に更に政宗をからかうという手もあるが、どこで見ているかわからない神出鬼没のくのいちねねに、叱られそうで怖かった。
 「しっかし。花見のときもそうじゃったが、おみゃあさんのその馬鹿力、どこから出てくるんさ?」
 それでも一言言ってやりたくなったのは、致し方ないというものだろう。


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「必要悪」(ひつようあく) 兼政で8のお題、一「不義の山犬」


 (1)ない方が望ましいが、組織などの運営上また社会生活上、やむをえず必要とされる物事。
 (2)悪かったとは思っていないときに、口で一応言う言葉。言い訳。





 階下がいつになく騒々しいようだ。兼続ははて何事かと、家猫の首をくすぐる手を止め、耳を澄ませた。騒音はどうやら女中たちの決死の引止めも振り切って、兼続のいる部屋に近づいてきているようである。そうぼんやり思っているうちに、すぱんと勢いよく障子が開けられた。思いがけない人物に、兼続は驚きに僅かに目を見開いた後、小さく笑った。
 「これは政宗。どうしたのだ、そんな急に。こちらに来ていたのか。…ああ、大丈夫だ。下がって良い。」
 困り果てた様子で、政宗の後ろに控えていた女中頭は畏まって頭を下げると、姿を消した。政宗は兼続の膝の上に陣取っている猫を訝しげに見やったが、訪れた用件を思い出したのかはっとして、憤りも顕に怒鳴りつけた。
 「貴様!あれはどういうことだ!噂が鎮まるどころか事実として広まってしまっているではないか!」
 大声に猫が部屋を飛び出していく。兼続は寂しくなった膝元を寂しそうに見下ろしてから、面を上げて尋ねた。
 「噂?」
 「白を切るな、白々しい。わしと貴様が好きおうておるという噂じゃ!」
 「そう怒るな。何が不満だ?事実ではないか。」
 兼続の返答に一瞬、政宗は言葉に詰まった。確かに、政宗と兼続が情を交わしているのは事実であり、兼続の言は尤もなのである。しかし、政宗が言いたいのはそのようなことではなく、もっと根本的なこと、仲を知られるのが恥ずかしいからむやみやたらと吹聴するなということなのだった。無論、兼続と通じたことが恥ずかしいのではない。今までさんざんいがみ合ってきた相手と掌を返したように通じたことが、自尊心の高い政宗には居た堪れないのである。
 とはいえ、周知の事実であるように、兼続は人の心の機微を気にするような性格ではない。軍師であるから人の心の機微に気付かないということはないのだが、あくまで己の道を突き進む我の持ち主なのである。それは、全く意向を気に留められない当事者以外は、呆れ返る余りいっそ感嘆する程だった。
 第一、兼続はようやく、恋焦がれつつも上杉と伊達という立場の違いから違えている風に見せてきた政宗を、掌中にすることが出来たのだ。生粋の女好きである秀吉が統治する世とはいえ、衆道の風潮が依然として大きな勢力を持ち続けている現在。たとえ政宗の心が己にあるとはいえ、蚊の如く政宗の周囲をまつわりつかれてはたまらない。惚れた欲目も多分にあるが、政宗は男臭さを感じさせない童顔や感情に激しく燃えるつり上がり気味の大きな瞳と、いっそ不敬なまでの不敵な笑みや舌打ちしたくなる老獪さが、不釣合いで酷く魅力的だった。それでいて、政宗は案外うかつな面もあり、状況に流されやすく、情に絆されやすい体質なのである。いったん心を許すと何処までも享用するので、その思わせぶりともいえる態度に、部下の中には勘違いする者も多いという噂だ。ふいに零れる笑顔と、その際ちらりと口元に覗く八重歯を見たらそれも仕方なかろうとは思うが、恋人としては全然面白くない。笑顔など、自分にだけ見せれば良いのである。
 ともかく、秀吉とは違った意味合いで政宗が部下に異常に好かれているという噂を以前から伝え聞いて知っていた兼続は、片思い中であった頃から、随分気を揉んでいた。身分的に政宗を抱ける者など滅多にいないが、それでも、つい流れでということがありえないとも言えない。
 それをこのように、大手を振って牽制出来る立場になったのである。兼続は、政宗との関係を喧伝することは必要悪だったのだ、と誰にともなく言い訳した。もっとも、兼続は本心ではそれを必要悪だとは全く思っていなかった。止むを得ず喧伝したわけではなく、兼続が自慢したくてたまらず、太閤夫妻や石田主従に口が滑るままあることないこと妄想も織り交ぜ惚気た結果、予想外に広がりを見せただけのことである。
 その噂を、秀吉に気に入られ度々大阪に訪れていた伊達家の家臣茂庭綱元や、伊達お抱えの忍軍団黒はばきは当然のように知っていたが、主君には報告していなかった。噂とは転がり転がって膨れ上がり、原形を留めないものである。その頃には、政宗があられもない姿を兼続に喜んで披露したり、あるいは夜な夜な兼続が奇術を弄して奥州に足しげく通っていたり、秀吉立会いの下祝言を挙げたりしたことになっていた。中には、兼続が政宗を妊娠させたというものまであった。それは普通であればありえないと斬って捨てられるような奇想天外で荒唐無稽すぎる内容だったが、相手が兼続であるだけに、嫌な意味で信憑性が生じていた。
 春先に奥州へ伊達当主が急遽引き返してしまったのは、花見の件が問題だったのではなく、実はひっそり山城守の子を出産するためなのではないだろうか。
 俄かに広まったそんな噂を、当事者に告げないだけの分別を伊達の家臣は持っていたのである。血気盛んな成実がいたならば、無二の主の嘘の醜聞を噂する者を片っ端から斬り伏せて回っただろうが、残念なことに、成実は奥州で政宗の相手を務めていたため、大阪で広まっているこの噂を知らなかった。また、政宗もまさかそこまで変な噂になっているとは、幸か不幸か、この時点では未だ知らなかった。
 「こっ、くっ、くそっ!馬鹿め!」
 「はっはっは、何とでも言うが良い。照れるな照れるな、愛い奴め!」
 「っ!!」
 普段であればどこからそれほどまでに言葉がすらすら出てくるのかと首を傾げたくなる滑らかな舌も、今回ばかりは、苛立ちに巧く言葉が見つけられなかったようである。もどかしげに舌打ちした後、不満に唇を尖らす政宗を、兼続は愛おしさの込み上げるまま、腕を引き寄せ己の膝に坐らせた。政宗は眼光鋭く睨みつけてきたが、兼続の腕の中から逃れようとはしなかった。可愛いものである。
 自惚れ項に口づけた次の瞬間、兼続は政宗に思い切り肘鉄を食らわされ、強かに咽ることとなった。それは、照れ隠しの域を超えている強烈な一撃だった。目の前をちかちかと星が舞う。政宗がまるで童のように膝の上に乗せられることに抵抗しなかったのは、単に油断させてこちらの隙を窺う作戦の一環だったのだろうかと兼続が涙目で窺うと、政宗は口づけられた箇所に手を添え、動揺から耳まで赤く染めて吐き捨てた。
 「だっ、誰かが見ていたらどうするのだ、馬鹿め!」
 それをいうなら膝に乗った時点で駄目だと思うのだが、政宗の基準ではそうではないらしい。前回豊臣に対する謀反の嫌疑をかけられた際も、反乱の勧めに使用された伊達の押印の鳥に瞳が入れられていないとごね、「結局、確たる証拠を掴めていないようですな。」と詭弁を弄して処罰を免れた政宗のことである。色恋沙汰も政宗がそのようにして尻尾を掴まれ逃げられない程度、つまり、ある一線を越えないでいる心積もりでいたらどうしたものかと内心焦りつつ、兼続は言った。
 「大丈夫だ。家中には、私の許可がない限り、猫の子一匹通さぬよう命じてある。」
 「わしは通れたぞ?」
 政宗は疑わしそうに言った。しかし、政宗は通ったのではなく、押し通ったのである。
 だが、その事実を指摘して更に機嫌を損ね、再び奥州に引き上げられてはたまらない。肘鉄、蹴り上げ、発砲の類も御免蒙る。
 兼続は力強く頷いた。
 「いや、大丈夫だ。」
 自信たっぷりの様子は胡散臭くとても信じられたものではなかったが、それは兼続の常である。政宗はしばらくの間毛を逆立てた犬のように兼続を警戒していたが、しぶしぶ了承したのか、兼続の胸に背を預けた。
 兼続は愛情の限り力いっぱい政宗を抱きしめながら、政宗からは顔が見えないのを良いことに、人の悪い笑みを浮かべた。それは三成が居たならば、義の徒ではなく悪代官の浮かべる類の笑みだったと断言したであろう笑みだった。
 義と愛の勝利だ…っ!
 時刻は未。陽は未だ高く、寝具もない。しかし大した問題ではなかろうと判断して、兼続は再び唇を寄せた。
 今度ばかりは政宗も拒まなかった。


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「愛」(あい)


 (1)対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。
 (2)キリスト教で、神が人類を限りなく深くいつくしむこと。
 (3)〔仏〕人や物にとらわれ、執着すること。むさぼり求めること。渇愛。
 (4)他人に好ましい印象を与える容貌や振る舞い。
 (5)直江の口癖の一つ。他に「義」「不義」がある。





 何やらむやみやたらと寒い。
 夜の寒さに目覚めた兼続は思わず顔を顰めた。部屋はそこが執務も行なう場所であることを考慮すれば、悲惨な有様になっていた。そもそも、そこで事に及んでしまったことからして、兼続の口癖を借りれば不義なのだが。夕餉の時間になっても食べに来ない主を不審に思い、誰かが呼びに来たはずである。その者がこの状態を見て何を思ったのか。それを考えると、威厳を保たねばならぬ立場としては頭が痛かった。
 隣では政宗が一人上掛けに包まり、胎児のように身を丸め眠っていた。上掛けは、兼続が意識を失った政宗にかけてやったものだった。しかし、一応二人で使用していた気がするのだが。道理で寒いわけである。
 急くままに脱ぎ捨て、事の間は下に敷き、今は寝具代わりに用いている上掛けを爪先で軽く抓み、兼続は小さく溜め息を吐いた。この上掛けはこのまま廃棄だろう。自業自得とはいえ、そこそこ値が張ったことを考えると悔やまれた。
 しかし、悔いても仕方がない。焦がれ続けた者をようやく手に入れられたのだ。見やった政宗の額には、汗で束になった髪が張り付いていた。それを起こしてしまわぬよう夢見心地でぼんやりと掻き分けると、今更のように、政宗を手に入れられたのだという実感が兼続の中に湧いてきた。
 愛おしいと思った。最早、何ものでも埋められないほど、これほどまでに欲するものは生涯政宗しかないと思った。
 こみ上げる愛おしさのまま、兼続は政宗に口づけた。そして身を寄せ抱きしめて、上掛けを肩まで引き上げた。
 もう絶対、離さないと決めた。


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刊行 2009年9月23日
掲載 2010年8月7日

伊坂幸太郎さん『陽気なギャングが地球を回す』オマージュ。
兼政同盟さま