政宗の引き付けも空しく、すぐ脇を火計部隊が走り抜けていく。
政宗は悔しさにぎりりと奥歯を噛んだ。計略に気付くも、予想外であった。まさか、信長の軍が呉に対して援けを出しているなどと。その上、その援軍は政宗が焦がれながらも憎んだ上杉の将、兼続であった。あるはずのない兼続の姿に動揺した政宗は、その隙を突かれ手傷を負った。
衝撃に緒が切れた兜が、後方へ転がっている。否応なしに晒された咽喉元には、兼続の剣が突きつけられていた。向けようとした銃は弾かれ、手元を離れている。刀はまだ腰に佩いていたが、兼続が政宗の咽喉を掻っ切る方が速いだろう。
どちらにせよ、抵抗しようがしまいが死に至るのだ。終わりがそう遠くないことを、政宗は察していた。兼続の護符で撥ね飛ばされた際、肋骨を何本か折り、その骨が内臓を傷つけたようだ。政宗が生き延びるためには治療が必要であったが、手厚く手当てを受けられるような状況でもない。であれば、政宗には死ぬ道しか残されていない。
伊達の存続のためにこれまでどれだけの労苦を負い、辛酸を舐めたことだろう。政宗は兼続を睨みつけたまま、己の過去を振り返った。母に疎まれ、父弟を殺め、それでも繋いできた命が尽きようとしている。
それは呪縛を解かれ、自由になるということなのか。
政宗は血の滲む唇を吊り上げ、不敵に笑った。
「…ふん。わしの命を…貴様が…散らすか。山城。」
「そのようだな。」
一瞬、政宗の隻眼は熱病に浮かされたように光った。最期ゆえのきらめきだった。
政宗には、ここで兼続の手にかかって死ぬことは決して悪くないことのように思えた。遠呂智に与すると決めた時から、死ぬ覚悟は決めてある。単に、その機会が今だっただけだ。激痛に、すでに意識は朦朧として定かではなかった。痛みもさして感じまい。少なくとも政宗は、死の恐怖を感じてはいなかった。
兼続がいったん剣を引き、振り上げた。白刃が煌く。
「最後ゆえに言う…わしは…貴様が…!」
それが良いものであれ悪いものであれ、少しでも兼続の記憶に自身が留まれば良いと思いながら口早に告げた政宗は、終わりをもたらす衝撃に備え瞼を伏せた。想いを最後まで告げるつもりは元よりなかった。今際に政宗が何を紡ぎかけたのか、兼続が散々悩めばよいと思った。それが政宗に出来る、せめてもの意趣返しであった。
しかし止めは下されなかった。
いぶかしみ政宗は苦労しながら、重くなるばかりの瞼を上げた。兼続が首を撥ねる寸前で止めた剣を下げ、何か思うようにじっと政宗を見詰めていた。
「…殺さぬ…のか。」
情けへの屈辱から拳を握る政宗の問いに答えず、兼続は片膝つき、政宗を抱き上げた。まるで壊れ物を扱うかのような優しい手付きだった。
「…、何を。」
合わさった目はひたすらに静謐で、政宗には兼続が何を考えているのかわからなかった。
「連れて帰る。」
さも当然という風な兼続の答えに、業を煮やした政宗は小さく舌打ちし、自害しようと刀の柄に力ない手を伸ばした。だが抜け目なくそれに気付いた兼続は、政宗の手を取って制した。再び、二人の視線が交差した。政宗は追い詰められた獣のような目をしていた。
「何…故、」
散じようとする意識をつなぎとめ、やっと、それだけ絞り出した政宗の声は震えていた。
火計は成功したらしく、何処からか出現した橙が皓々と空を照らし始めている。既に戦況には興味がないのか。あるいは信長から火計の成功のみを命じられたのかもしれない。ゆっくりと自陣に向かって歩き出した兼続が、政宗を見詰めた。そのとき、政宗は常の活発で横暴な姿からは想像もつかないほど、弱弱しく頼りなかった。
これほど小さな男だっただろうか。記憶の中の政宗は態度と気風も相まってそれなりに大きいように思っていたが、腕の中の政宗は兼続がうろたえるほど軽かった。とても厳重に鎧をまとっているとは思えない。
ちらりと、何かが兼続の胸を焦がした。それは確かに政宗を生かそうと思った原因であった。しかしそれが何であるのか。兼続には判断しかねた。
義ではない。愛というにはあまりに重い。
「ここは直に火の手が回る。」
「そうではない…!何故…わしを、殺さんのだ…!」
政宗が緩慢な動作で兼続の胸元を掴んだ。力なく縋り付く手は、強く兼続の中の何かを煽った。
「生きたくはないのか?」
「馬鹿め…っ、お情けで…生かされる、くらいなら。死んだ方が…ましじゃ!冗談では、…ないわ!」
涙すら浮かべそうな痛烈な怒りに打ち震える政宗の発言に、兼続は低く笑った。それは政宗が知っている兼続とは随分掛け離れた、何処か陰のある姿であった。
「確かに、冗談ではない。私は本気だ。」
奇矯なことをしている自覚はあったが、少なくとも兼続はその場限りの冗談や軽い憐みで政宗の命を永らえさせようとしているのではなかった。そもそもお情けと政宗は言うが、実際、これが情けになるのかどうか自信がなかった。情けをかけられる立場の政宗は既に、意識が曖昧でありながらも、憎しみに満ちた眼で兼続を睨んでいる。これが情けであるはずがなかった。兼続は政宗を誤って落とさぬよう抱えなおした。互いの顔は見えなくなった。
遠呂智軍の船から戦火が飛び移らぬようにという配慮からか、あるいは、この場は打撃を与えたことで良しとして引き上げるのか。いずれによるものかわからないが、切り離しによって足場は揺れていた。
兼続が何を思いこのような行動をしているのか、政宗にはわからなかった。遠呂智軍と同等の力を持つに至った今、政宗の存在が人質として価値があるということもない。追い縋る火のせいか、重い怪我のせいか、抱き寄せる腕のせいか。政宗はやけに熱さを感じた。その熱は、政宗が必死に守ってきた何かを内から崩壊させようとしていた。誰にも触れさせなかった場所を暴く、そんな熱だった。鮮烈な熱と眩暈に、視界が歪む。兼続の真意を図りかねながら、政宗は次第に酷くなる痛みに抗いきれず、瞼を閉ざした。
一瞬、何かが唇に触れた。夢うつつながら、政宗はそれが何であるのか知るため、重い瞼を開けようと試みた。目を開ければ、そこに何か大切なものが待ち受けている気がしたのだ。
しかし間をおかず、政宗の意識は深い場所へと落ちていった。その様子を兼続が優しい瞳で見詰めていた事を、政宗は知らなかった。
初掲載 2007年4月15日
改訂 2008年11月30日