生きる、ただそれだけのことがどれだけ難しいことか。そのときまで少しも知らなかった。
先ほどまで晴れ渡っていたはずの空は急に雲行きが怪しくなり、予報外れの雪をもたらした。
未だ小学生だった俺は白い大地に少しでも多く足跡をつけようしていた。軒先から外れ、土手へ。自分の足が何処へ向かっているのかさして気にも留めず、俺は雪道を踏み続けた。
防寒らしい防寒もしていない俺は吹雪で顔も手足も、全てが真っ赤に悴んでいた。
急に雪が止み、天を覆い隠していた厚い雲の隙間から光が射した。光は一直線に線を描き、ある一点に降りていた。
そこには、雪のような銀色の髪を持つ子供が着物姿で立っていた。手には白い刀があった。
ふと立ち止まった俺に、子供が視線を向けた。大して年齢は変わらぬように見えるのに、その翡翠の瞳は酷く静謐で潔白だった。
子供はすぐさまふいと顔を背けると、目に追えぬ速さで何処かへ行ってしまった。
見てはならぬものを見た気がして、怖かった。手にしていた雪を放り投げ、一目散に家へと走った。
誰にも其の日在った出来事を言わなかった。母が話してくれた雪女の話が頭を掠め、言えなかった。
それは未だ母が生きていた、クリスマスの日の出来事だった。
窓の外では雪が降っている。辺り一面真っ白だった。道理で寒い訳だ。
俺は暫し悩んだ後、室内の酒臭さを少しでも和らげるため小さく窓を開けた。これだけでは効果など望めはしないだろう。だが室温が下がるのも好ましくない。立ち上る息は白かった。
最近、恋次の様子がおかしい。そう気付いたのは、ルキアに指摘されてからのことだった。
今までルキアと同じように敬遠していたはずの冬獅郎に、戸惑いながらも近付いている。わかりやすく心情を映すその瞳は、恐怖と羨望と憧憬とが交じり合った複雑な色をしていた。
苦手で恐れさえも抱いている冬獅郎にわざわざ近付くなど、恋次は何を考えているのだろう。恋次は決して回りくどい考え方をするような男ではなかった。いつでも一直線で、その性根同様、思考も単純だった。
「やはり、恋次はマゾなのか?」
神妙な顔でルキアが俺に問いかけた。あまりに真剣な声色に俺は何とも言えなかった。
返答しなかった俺の様子にルキアは肩を落とし、そうか、と一言呟いた。
何を思ったのかは、怖くて聞けなかった。
今夜も恋次は迷いながら、それでも誘蛾灯に惹かれる蛾のように、やはり冬獅郎の方へと寄っていった。酒の酌などしつつ、ぎこちないながらも話しかけている。冬獅郎は文句を言うでもなく、問いかけるでもなく、そして戸惑うでもなく。見ているこちらが不思議に思うほどいたって普通に、おかしな態度の恋次に接していた。
はらはらと子を見守る親の思いでルキアとともに恋次を眺めていると、乱菊さんが酒瓶を手にやって来た。俺たちの様子を交互に見、直接酒瓶に口を付け呑んだ後問う。
「何見てるの?」
「え、その。あの二人を。」
「何ルキア。恋次取られて隊長に嫉妬〜?」
「え?そ、そのような!違います!ただ恋次がま」
ま、の後に何が続くのか怖く、俺は慌ててルキアの口を塞いだ。乱菊さんが俺とルキアを見、それから恋次と冬獅郎に視線を向けた。
「…マゾ?」
絶句している俺の手の下で、ルキアが大きく頷いた。
乱菊さんが笑った。
「あれは違うわよ。ただ怖いだけでしょ、まだ。」
「松本副隊長、何がですか?」
俺の手をガリガリと引き剥がし、ルキアが問うた。引っ掛かれた手の甲が痛かった。
「自分の全てを捧げたいと願ってる自分を認めることが。」
訳が分からず首を傾げるルキアの頭を乱菊さんが撫でた。
「私みたいに、あるいは雛森みたいに女だったら楽なのよ。全てを振り切って、何もかもを捧げられるもの。恋と同じ。女はそういうふうにできているの。ルキア、あんたもいつかきっとわかるときが来るわ。」
まるで神への祝詞を読んでいるかのような口調で淡々と放たれる言葉は酷く熱を帯びていた。一言一言が、乱菊さんの思慕と信仰とを秘めていた。
「男がそれを認めるのは大変なのよ。相手が男であれば尚更。相手が女なら恋愛ごとにでもすり替えられるし、守れるけど。同性でしかも自分より強かったら、どうすれば良いのか迷うのね。きっと。でも隊長に焦がれない副官なんて居ないでしょう?まあ、あんたの兄さまじゃなかったかもしれないけど、下に就いてからの任期も未だ短かったし」
嫣然と乱菊さんが微笑った。
「そこはほら。私の隊長だから。」
乱菊さんの言葉に納得した様子のルキアは、隣で井上の作った不可思議なケーキを突いている。
ケーキは、中からトマトが顔を覗かせた時点で俺は食すことを諦めたのだが、女性陣には意外と好評だった。だが、美味いのか、と勇気を振り絞って食べてみようとしたところ、井上の家に居候している冬獅郎に止められたので、どうやら女性陣の味覚がおかしいだけの話らしい。
パリっと軽快に鳴った音にルキアを見ると、何故か、ケーキにポテトチップスが入っていた。
思わず、慌てて俺は視線を逸らした。
隊長、とは何なのだろう。
隊長とはそれだけで納得するほどの強い響きを持って、死神の意識下に存在するらしい。先ほどの乱菊さんや今のルキアの様子から察するに、恋次の現状は何一つおかしくないものなのだろう。
全てを捧げることを厭わないほどの、依存にも近しい信愛の情。
窓から入り込んだ冷気がアルコールで火照った身体を撫で、遠い昔の記憶を掘り起こした。八年前のクリスマス。今思えば、あれは、俺が最初に死神を目にした記憶だった。
あのとき感じた恐怖は紛れもないものだった。そしてその想いは、神に対するものに近かった。
あのように強烈な情を抱いて生き続けることなど俺には出来そうもない。生きる、ただそれだけのことが急に意味を帯び、酷く重みを増すのだ。
あの日のことを、冬獅郎は覚えているだろうか。
視線の先で冬獅郎が何かを呟き、恋次がとうとう諦めたように笑った。
『自分の全てを捧げたいと願ってる自分を認めることが。』
乱菊さんの言葉が脳裏に浮かんだ。
『全てを振り切って、何もかもを捧げられる。』
俺は小さく嘆息した。
問うだけの勇気はなかった。
初掲載 2006年7月17日