都々逸、三十六「たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車」


 腹が減った。
 食べられるものは何でも食べた。自生する植物を桃と分け合い、桃の腹が膨れたのを見届ける。ばあちゃんは霊力がないから食べ物は必要ない。俺は残りを全て口にした。ぽつりぽつりと大地に散らばる蒲公英は苦かった。熟れすぎた柿はドロドロと橙に溶け、そのくせ渋かった。それでも飢えを満たすために何でも食べた。
 ただ、腹が減っていた。
 流魂街でも数の若い場所である。確かに植物は根付き難いが防風や灌漑を整えれば、育てられないこともない。家の裏に畑を作り、育てられるものは何でも育てた。幼い頭でそれでも必死に何をどう植えれば考えた。独力で考え抜いた。飢餓の力は偉大だった。腹が膨れるものでなくてはいけない。這い蹲り土に塗れ、根菜を中心に植えた。やがて多くの食料が手に入るようになった。
 只管腹が減っていた。
 腹が減るのは霊力がある証拠だと聞いたのは何時のことだろう。最初の意識は繋がれた桃の手の皇かさ、かけられた声の温かさだった。次は感覚ばかりが残っている笑みの柔らかさ。それからのことだった。
 腹が減った。ただ、腹が減っていた。只管腹が減っていた。
 心配をかけさせまいと強烈な空腹は隠した。計算高い子供だったから、霊力があることは隠さなかった。霊圧の強弱を偽った。陰に隠れて貪った。どうして腹が減るのかと涙を零しては口にし続けた。食べては植え、植えては食べ。それでも腹は減っていた。


 腹は減った。
 死神にはなりたくなかった。死神になれば食べものが容易に手に入る。有名な噂だった。死神にはなりたくなかった。山へ連れられていく女工のようで、俺はそれが恐ろしかった。死神にはなりたくなかった。死神は何もしてくれない。死神は流魂街にあぶれた俺達には関係ない者達だった。
 ただ、腹は減った。
 桃が死神になるための学校に行くことになった。シロちゃんも来たら良いのに。桃は言った。あそこには食べ物があるんだよ。桃は言った。おばあちゃんをお願いね。ばあちゃんはその年、亡くなった。おばあちゃんをお願いね。硬く強張ったばあちゃんの手は冷たくて現世での死のようだった。向こうと此方とで何が違うのだろう。彼岸にあるのは霊力。耐え難い空腹。滲んだ瞳を擦り切れた着物の裾で拭った。
 只管腹は減った。
 桃の話に見知らぬ男の話が増えた。藍染隊長が。藍染隊長はね。藍染隊長藍染隊長。次第に俺の眉間の皺が深くなっていった。藍染隊長が。藍染隊長はね。藍染隊長藍染隊長。桃は朗らかに陽気に笑う。シロちゃんも死神になれば良いのに。死神になったところで桃が俺の手元に帰ってくることはない。桃は軽やかに、いっそ残酷に笑う。私、藍染隊長のところで働くことになったの。桃は笑う。
 腹は減った。ただ、腹は減った。只管腹は減った。
 そんなことじゃキミの飢えは満たされへんよ。気味の悪い男が来た。のっぺりとした笑みを浮かべて、瞳を細めて言った。キミは霊力が高すぎる、そんなんじゃ飢えは満たせへんよ。隣町で虚が出たと?丹坊から聞いた、死神だろうか。男の白い羽織に朱が飛び散っていた。あんな黒い虚ろが広がっているだけの虚にも赤い血が流れているのかと不思議に思った。手の中で良く熟れたトマトが赤く掌を濡らした。キミは死神になるべきや。手の中で、トマトが赤く、掌を。


 腹が減る。
 死神になるつもりは毛頭なかった。嫌悪と恐怖が募った。死神になるつもりは指の先ほどもなかったのに。俺は死神になるための学院の入試試験を受けさせられていた。幾度目かの再会の時、逃げ去ろうとした俺の肩を男が掴んだ。あまりに強い力で肩に鋭い痛みが走った。キミは死神になるべきや。男は少しも力を緩めようとはせず俺を無理矢理向き合わせて瞳を覗き込んだ。男の真紅の瞳があの日の羽織の朱のようで。俺は恐怖に震える指先を隠そうと拳を握った。男は笑った。キミは死神になるべきなんや、ほら、行こか。優しい声色とは裏腹にギリギリと締め付けられた肩が痛んだ。
 ただ、腹が減る。
 受けるつもりのなかった死神試験に首席で合格し、気がつけば俺は神童として名を馳せていた。様々な死神が俺を品定めに訪れた。技術開発局も刑軍も隊長格も。モノトーンの無機質な部屋で俺は日々を送った。差し出される手は冷たかった。声は渇いていた。笑みは白々しかった。机上に広げられた数々の食物を唇に押し当て、咀嚼し、嚥下し。ただ事務的に食べ続けた。味気ない食事は決して幸福ではなくむしろ死神になった己への刑罰のような気がした。
 只管腹が減る。
 俺を死神にした男は、護廷十三隊三番隊隊長の市丸ギンだと知った。俺は斬魄刀を構え虚に対峙する。既に始解は会得していた。卍解への切っ掛けが掴みたかった。揺らぐことのない剣の先で虚がニタニタと笑った。死神になった俺は、虚に赤き血が流れていないと知った。剣の一薙ぎで虚が塵に還る。あの朱は何だったのだろう。黒い闇がこびり付いた刀を振り払った。あの朱は誰が流した血だったのだろう。振り仰いだ天は夕陽に沈み、橙に照り輝いていた。




 腹が。




 俺は瞳を開けた。ゆるゆると浮上する思考を繋ぎ止め、何があったのか整理してみようとした。頭が痛んだ。赤く悴んだ指先で触れるとカサカサと乾いた触感がした。頭部には包帯が巻かれいていた。いや頭部だけではない。何処も彼処も俺の身体は白に覆われていた。俺は痛む頭を抑え必死に何があったのか考えをまとめようとする。藍染。偽り。笑み。市丸。朱。飛沫。血溜まり。桃。
 「桃、桃は…。」
 白い消毒液の香りが漂う無機質な部屋の扉を卯ノ花が開いた。お目覚めですか。卯ノ花の柔らかな眦が安堵に下がるり、目の下に一瞬笑い皺が刻まれる。しかしすぐさま卯ノ花は固い表情を浮かべた。雛森副隊長は。謝罪と憐みとを滲ませた声で卯ノ花は言葉を紡ぐ。どうにか一命を取り留めたものの。卯ノ花は俺に言った。まだ覚醒には至らず。酷く喉が渇いた。強く強く握り締めた指先が白く強張った。も、も、は。喉が緊張にことりと鳴った。
 そうして俺は、己の腹が減っていることに気がついた。
 ばあちゃんが死んでも、藍染が裏切っても、市丸が消えても、桃が目覚めなくても。
 腹は減るのだ。
 酷く声を上げて笑い出してしまいたいのに面を覆って泣きたいような。くつくつと喉から嗚咽が漏れた。引きつる気道が痛みを発し、混乱をきたした肺は過呼吸に至り、やけに息苦しかった。横隔膜の乱動で生じたしゃくりあげるような声を、俺は何とはなしに耳にしていた。
 世界が滲む。いつか見たように橙に。世界が揺らぐ。ぽたりと涙が零れた。
 視界の端でただ卯ノ花が沈鬱に睫を落とすのが目に付いた。










初掲載 2006年6月4日
モノカキさんに都々逸五十五のお題さま