桃が死神になると行って家を出て行ってから、数百年。覚えるのも面倒臭い月日が流れた今日。とうとうばあさんが死んだ。死んだと、いうのも可笑しいかもしれない。尺魂界は現世へ転生する繋ぎの場だ。だからばあさんは生きるために居なくなった、というのが正しい。
流魂街で虚に喰われ消える奴は、多い。流魂街に生じ、貧しい生活だったが、そういう意味で転生出来たばあさんは幸せだったと思う。周囲ではどんどん魂が消え去っていった。俺たちは虚から身を守るための土豪に隠れ、死神が訪れるのを待った。そうして段々、逃げ遅れた仲間たちは消えていき、新たな死者で数は補完されていった。
桃は皆を守りたい、と言った。虚から、皆を守るための力を得るために私は家を出て行くよ。そう言って涙ぐみ、流魂街を出て行った。死神になってまで流魂街の知り合いを気遣う者は少ない。少なくとも俺は「そういう類の死神も居るらしい」、と噂に聞いただけで、実際、戻ってきた奴を見たことはない。だから何となく桃ももう戻っては来ないだろうと思っていた。過去を振り返らずに、こちらでの生活など忘れてしまうのだろう、と。
ばあさんは光に解けて消えたから埋葬は出来なかった。俺はただ残されたばあさんの着物に掌を合わせ、ばあさんの来世が幸せであることを願った。
更に数年が経ち、俺は一人で居る生活に疲れを感じ始めた。霊力の宿る身体は飢え、身体は成長する。成長する身体はエネルギーを消費し、それゆえ霊力のある者は常に空腹を抱える。流魂街で食料を手に入れるのは至難の業だ。ある程度霊力のある者は死神になり、霊力の低い者は食料をそれほど必要とはせず、霊力のない者は食という行為そのものを捨て去る。俺は霊力が高かった。元々霊力が高い上に、成長期の身体を抱えていた。
だから俺は仕方なく死神になった。結局、出て行ってから帰ってこない桃のように信念があったわけではない。ただ飢えを満たすだけために、俺は真央霊術院の門を叩いた。
俺は運が良かったのだろう。霊術院への入学は十五歳であるのが暗黙の了解だ。俺は知っていながら、ただ、それでも何となく真央霊術院を訪れた。断られたら面倒臭いがまた七年後に出直すか。そう軽く考えていた。
俺は運が良かった。俺は運が良く、しかしある意味では、悪かった。年端も行かぬ、それも白髪で翡翠色の瞳をした童が珍しかったのだろう。入学受付へ向かった俺に目をかけた死神が居た。
それが、真央霊術院設立者の山本元柳斉重國だった。
「お主名を何という?」
見知らぬ爺さんの言葉に、俺は元々寄っている眉根の皺を深くした。
「そういうあんたは、誰?」
俺の言葉に爺さんの背後に控えていた親父は刀に手をかけ、爺さんはそれを制止ながら笑った。
「ほっほっほ。お主、霊力が強いようじゃの。良い、儂が許す。中途入学になるが、この童を入れよ。」
俺は真央霊術院へ入学することになった。
結局、爺さんは名乗らなかった。
年を取らない死者と年を取る死神と。現世であっても、尺魂界であっても、世界は異なる者たちが異なるなりに折り合いをつけようとして成り立っているのだと、真央霊術院で俺は学んだ。完全であっても、中途なものであっても、隔離は歪みをもたらす。霊力の強弱、貴族と流魂街出身、男女、年齢。
それらの事実を若干の軽蔑と諦めでもって受け入れながら、俺は学院時代を過ごした。
本当に、我ながら短い学生時代だったと思う。真央霊術院は六年制であり、実力のある者はそれ以下の年数で卒業することが可能だ。しかしそれは半ば以上建前の話であり、実際、二千年という長い歴史の中にあっても六年以下で卒業したものは過去数えるほどしか居ない。それは死神になってから常に接する、戦場での心構えを学ぶためであり、更には生き延びるために最低限知識が多いからであり、命がかかっているゆえに、力があったとしても半端な卒業は出来ないからだ。ゆえに、結局は皆、六年霊術院に残ることになる。
しかし、俺は過去最短の一年半で卒業することになった。山本が中途入学を認めたこともあり、教師陣が俺に元々注意を払っていたせいもある。だが、それだけであれば貴族である特権を有す朽木白哉も注目の新人であった檜佐木も、わざわざ六年在籍することもなく死神になっていただろう。
俺が最短で卒業した理由を、他の者は言った。俺が神童だから。だから僅か半年で斬拳走鬼を網羅し、あまつさえ一年で瞬歩を取得したのだ、と。そしてそれ故に、若干一年半で初解出来たのだ、とも。
俺が氷輪丸を手にしたのは、偶然だった。天才児と、畏敬と羨望と嫉妬と皮肉を込めて呼ばれる俺には友が居なかった。皆遠巻きに俺を眺めるだけであり、だから俺は暇を潰すために勉学に励むという一種の悪循環があった。俺は時折その状況に疲れ、ふと、流魂街時代からの友である?丹坊に会いに行く。その日もそういう理由で、俺は流魂街へと向かっていた。
空を裂くような絶叫がした。続く地鳴り。俺は驚き、悲鳴のした方角を睨んだ。周囲を見回し、僅かな失望と共に誰も居ないことを確認し、俺は声の方向へと走った。
瀞霊廷の中で虚が発生することは珍しい。珍しいが、ないということはない。まれにではあるが、流魂街寄りの場所に虚が発生する。その場合であっても近くに居合わせた死神がすぐさま対応するのが常であるが、その、死神が対応できないとなる、と。
俺が行ったところで何も出来はしないのかもしれない。だが良くも悪くも俺は外見同様子供で、見捨てることなど出来はしなかった。瞬歩で現場に着くまでの僅かな時間、俺はぼんやりと桃のことを思い出した。桃も、このような義憤を感じたのだろうか。だから死神になったのだろうか。そう思った。
着いてみると、そこは凄惨の一言であり、俺はすぐさま来たことを後悔した。目の前には死神を喰らう巨大な虚が居た。口から赤が滴り、大きな円を地面に描いていた。俺が対処出来る規模ではない。俺はそう判じた。しかし後悔したところで俺はすでに到着し、居合わせてしまったのだ。
「ギイイイイイィィィィィイイイッ!」
俺を認識した虚が咽喉を震わせ叫んだ。この規模の虚に対処できるのは、席官レベル一人。あるいは十番台の束ねる、小隊。
俺は己の蛮勇とも取れる愚行に唇を噛み締めた。これは勇気ではない。正義足るには、力が足りない。俺には、力が。そう、足りない。俺は虚に相対し、破道を唱えつつ視線だけで周囲を探った。血に突き刺さった斬魄刀が目に入る。どうする。いくら優秀と謳われているとはいえ、それは他人の判断だ。俺自身は、まだまだ力が足りない、と思っていた。真央霊術院に在籍してまだ一年半。まだ現世での実習すら行っていない、ただの子供。
しかし悠長に悩んでいる暇はなかった。虚の咢が残虐に下がる。血と涎にぬるりと長い舌が光った。
俺は手を伸ばし、斬魄刀を手にした。
それは運命だったのだ、と山本総隊長は言った。使い手を失った斬魄刀は、手にした者に最も相応しい形へと変ずる。斬魄刀について知識としてしか知らず、また焦っていた俺は、己が手にした短刀が長刀になったことに気付かなかった。
呼ぶ声がした。
『 』
最初、俺は幻聴かと思った。
『 』
しかし、二度聞こえた声にそれは現実であると確信する。
『聞け、我を使役する者よ。我が名は、』
「……、氷輪丸っ!」
俺は咽喉を振るわせ啼いた。
天が一瞬白く染まり、見渡す限り一面、霜が降りる。白い息が頼りなげに立ち上った。俺はそれが己の為した行為であると思わなかった。
「 !」
暫くしてから死神がやって来た時も、俺はぼんやりと手にした斬魄刀を見つめていた。その死神たちの中に、五番隊副隊長に就任した桃の姿があったことも、俺は声をかけられるまで気付けなかった。
部下に後処理と任した桃に連れられ現場を去る時、ふと背後を振り向くと、虚は消えてなくなっていた。
まるで最初から存在などしなかったかのように。
己が何をしでかしたのかすら自覚せぬまま、俺は自室待機をさせられていた。現場での唯一の生存者として、また惨劇に対面した学生への精神的傷痕の考慮から、というものもあるだろう。実際は、通常であれば五年以上、永ければ二十年以上もの時をかけて可能にする斬魄刀の始解を、呆気なく初回で成功させた俺についての話し合いが行われていた、と後に山本総隊長から聞いた。俺は在籍若干一年半の学生に過ぎない。しかもいくら神童と呼ばれようと、俺はまだ十に満たない容姿の子供に過ぎないのだ。俺の手の中で氷輪丸がカタカタと小さく鳴った。扉が開く。俺は視線を上げた。山本総隊長が、流刃若火を携え、そこには立っていた。
山本総隊長は俺を見下ろし、笑った。このときを待っていたというように、満足そうに目を細め、髭を撫でた。
「日番屋冬獅郎。主を護廷十三隊一番隊第六席に任ずる。」
こうして俺の学生生活は唐突に、終った。カタカタと氷輪丸と流刃若火の奏でる音が、ただ、やけに耳に付いた。
俺が死神になってから、十年が経とうとしていた。
一年半という史上最短で真央霊術院を卒業し、更には、死神になると同時に席官入りを果たした俺は行く先々で奇異な目で見られた。あの事件で再会した桃ですら、時折、俺を不安と恐怖に揺らいだ目で見た。不安、恐怖。他の者とは異なり、桃のそれは、守るべき子供だった俺が力を得てしまうことへのものだった。だが、どちらにせよ負の感情であることに変わりはない。流魂街時代の姉ですらそうなのだから、当然、俺に身の置き場などあるはずもない。山本総隊長の下で俺は黙々と任務をこなし続けた。恐らく気の優しい?丹坊は俺を避けることなく、以前と変わらず接してくれるだろう。そう思ったものの、生憎仕事が忙しく、俺が?丹坊に会いに行くだけの時間が作れなかった。
ただ飢えを満たすためだけに死神を目指したのに、必要以上に大事になったものだ。俺は氷輪丸に手をかけ、書類を手に廊下を歩いた。山本総隊長から直々に下された四番隊との提携任務結果を、俺は一番隊側の担当者として卯ノ花隊長に報告しなければならなかった。一番隊は二番隊や十二番隊と趣が異なるものの、主に、口に出来ぬような任務が多い。これもその類だった。目にするのも躊躇うような血に濡れた凄惨な現場でさえも、文字にしてしまえば乾いてしまって味気ない。幾ら朱に染まった惨劇を目にしようとも熱することのない心を自覚するたびに、俺もこの十年で酷く年を取ったものだ、と感じる。小さく笑って俺は卯ノ花隊長の居る執務室の扉を開いた。
十番隊の隊長が姿を消したのは、そんな日のことだった。
「お主、卍解を取得しておるのであろう。」
卯ノ花隊長からの書類確認報告を告げに執務室へ訪れた俺に対する山本総隊長のその言葉は、もはや質問ではなく確認だった。そうして俺は、今まで山本総隊長がその事実に触れずに居たのはただ単に隊長が十三人全員揃っているからであり、特別入れ替えの必要性も感じなかったからだと知った。
こうして、俺は隊長になった。
何かと俺に菓子を与えようとする浮竹と、何かと俺に酒を呑ませてみたがる京楽との台詞で、俺が山本総隊長に気に入られているらしい、という事実に気付かされたのは、旅禍が訪れてからのことだった。旅禍は去った。俺は地上へと降り、破面との戦いに備えた。雛森は未だ目覚めない。自覚せぬまま、俺が真実守ろうとしたのは雛森だったのに。
守れなかった己に不甲斐無さを感じながら、俺は、未熟な身体を叱咤して走る。せめて今度は守れるように、と。
いつか見た日のように、虚が笑った。
初掲載 2006年6月1日