まるで泥濘のようなどんよりと濁った空が頭上に広がっていた。私は小さく瞑目する。其の灰色がギンの髪のようだと思った。
でも、彼はもう居ない。
「隊長、今宵お暇でしたら一緒に呑みませんか?」
私の言葉に隊長は視線だけで私の見ていた窓枠の外を睨みつけ、幼い身体つきに似合わぬ不遜な態度で問うた。
「檜佐木や阿散井じゃなくて、俺か?」
隊長は私の心をわかって、其れをわざわざ問うことなく返答をしてくれる。何時もならば否定する類の言葉は今の隊長からは出てこない。
「私は、」
小さく言葉を切った。
「隊長が良いんです。」
私の台詞が隊長の背中を後押しした。
常は訪れないような小料理店で隊長と飲むことになった。
外見など死神においては意味を成さないけれど、それでも、幼子の姿を取る隊長に酒を出すのを渋る大人は多い。おそらく隊長の清廉さと潔癖さの際立った美しさがそうさせるのだろう。一種の正しさ、其の在り様を問う美に、私は之が神童の姿なのかと酷く感動したことを覚えている。
私たちは個室で呑むことになった。元より、大衆に紛れて大部屋で飲む私たち副隊長が異端なのだと、入室する際隊長には小言を言われた。其れが口先だけのものだとわかっているから私も口先だけで返す。其れが私と隊長との常態だ。
隊長に誘われるまま、私は盃を重ねた。其処には言葉などなかった。ただ、其れが隊長と私との飲み会での常である。私はこの沈黙を求めて隊長を誘ったのだし、隊長も其れを理解していて了解したのだ。
私はモノクロに澱んだ空を見上げた。尺魂界の夜には月などない。ましてや星々も存在しない。太陽は在るが其れすらも実在のものではなく、偽りだ。白く黄色く輝く其れは、地上のものとは異なりいつも同じ色をとる。
地上であれば、今宵の空模様は何を意味するのだろう。
私は遠くに過ぎ去った記憶を酒でぼんやりと霞んだ思考で呼び起こす。呼びかけてくる声すらも途切れて消え去ってしまうような、大降りの雨だろうか。それとも、愛する人の影すらも地上に落とさないような曇天なのだろうか。
ふと見ると、隣では私と同じように隊長が空を見上げていた。
雛森はまだ眠りに就いている。
身体はもう十分回復したと卯ノ花隊長は仰ってらした。まだ眠りを欲しているのは、彼女の精神なのだ。目覚めるかどうかは未だわからない。このまま来世に送り出した方が彼女のためでもあるのかもしれない。そうしたら、記憶の消えた彼女であっても、隊長は彼女を雛森として認識し、守り続けていくのだろうか。たった百年にも満たない接触のために。
でも、私がギンと暮らしていたのも、百年にも満たない短い時間だった。ギンはすぐさま私たちの家を出て行ってしまったから。色褪せた落書きだけが、机、と私たちが呼んでいた場所には残されていた。泥で塗りたくったような血で塗れたような、其れはやけに薄らぼんやりとした字だった。
飢えに耐え切れず死神になった私は再びギンの姿を目にしたけれど、私はギンに声をかけようとは思わなかった。別段、遠い存在だと思った訳ではない。ただ、ギンも私ももう別々の道を歩み始めてしまって、後戻りなどどう足掻いたところで出来はしないのだと察しただけだ。だから、ギンは私を置いて出て行ったのだとも。
隊長と雛森が出会ってから現在に至るまでの時間が、私とギンが共に暮らしていた時間にすら満たないものだとしても、隊長には思うところがあるのだろう。其の正しき幼子には、失望という言葉は似合わないから。私は隊長に理想だけを追い求めて欲しいと思うし、完璧こそが隊長の寄る辺だと信じている。其れが大人のエゴであると十分理解はしているけれど、私は、隊長にそう願うのだ。
たまに私は問いかけたくなる。隊長と私とで、何が違ったのか。私だってギンのことを唯一無二の存在だと信じていて、互いには互いしかないと思っていて、ただ守りたくて。共に居る、ただ其れだけを望んでいた、はずなのに。
初めてギンが去ったときも、あの日ギンが消えたときも、私は涙一つ零さなかった。空腹に耐え切れずに涙を零しもしたのに、ギンとの日々が可笑しくて涙を浮かべもしたのに、枯渇したのか私の瞳は滴一つ垂らさなかった。ぱちぱちと瞬きをして、其れだけだった。驚きすぎたのかもしれない。絶望したのかもしれない。もうあの頃の私が感じた気持ちがわからない私には、ただ空想するしかない。
隊長も雛森に裏切られて、雛森が目覚めなくて、其れでも尚泣かないでいることを私は気付いている。隊長も私も根本にある感情は同じなのに、其れでも、私と隊長は全然違う。隊長はきっと、雛森のためなら全てを捨て去る。私には其れが出来ない。哀しい位、私には其れがわかっている。本能が告げているから。
もう物語は終った。
けれどエンドクレジットは流れずに、新たな物語が始まってしまっている。私も隊長も転生をした訳でもないのに、此の世は兎角理不尽だ。
私は盃を重ねた。何時もならば酒を呑むことを楽しみ、其れ故に酔いが回るのが遅ければ良いと思うのに、今宵ばかりは早く酔いたいと思った。
隊長の翡翠色の瞳が空を撫でる。隊長の渇いた瞳が見つめる先を、私は触れたいと願った。
私の心を映した様な灰色の空は、其れでも尚、憎らしい程明るかった。
初掲載 2006年5月31日
アンジェラ / 山崎まさよし
モノカキさんに都々逸五十五のお題さま