Color12「in the gray of the morning (朝の薄明かりの中に)」


 正月ということもあってか、早朝というには幾分早い時間帯にもかかわらず、町は人々で溢れていた。ぐずつきだした白い空は今にも泣き出しそうだ。山崎は暫く空を見上げていたが、信号が青く変わったのでコートの前を掻き寄せて、マフラーを口元まで引き寄せながら歩き出した。
 人の群れで埋め尽くされたモノクロの歩道を、ぶつからないよう器用に、目立たぬようひっそりと歩く山崎が密偵という職についていることを、群衆は知らない。誰も、知らない。それで良いと山崎は思う。
 屯所内には山崎が密偵であることすら忘れてしまっているような者達も居る。
 山崎の存在は日向に出れるようなものではない。それは山崎の生きる意味で、唯一の存在意義ではあったけれど、陰に隠れ己を捨てて姑息な手段を弄するような仕事だ。だから誰も山崎の仕事を知らないのであれば、それが山崎の存在すら知らないことに繋がったとしても、山崎の存在意義を否定することになったとしても、山崎はそれでいいと思った。
 はらりと雪がとうとう降り始めた。山崎が白い掌で掬うと、雪はじんわりと山崎の熱を奪いながら溶けて水に戻ってしまった。山崎は小さく息を吐いた。
 (俺は雪のようなものだ。触れたことすら感じさせず、すぐさま消えてしまう。)
 誰かの記憶に留まるような行動を今までしたことがあっただろうか、と考えて、山崎は自嘲気味に笑った。そういえば万屋の連中と知り合ってから、たいそう派手になったものだ。務めて記憶に残らないように振舞うまでもなく、思い出になどならなかった山崎は、今では立派に新撰組を構成する人間としておぼろげながら認識されてしまっている。
 人込みを抜けた山崎は確固とした足取りで屯所にたどり着くと、門前で一度立ち止まった。
 (俺には誰かの熱を奪えるのだろうか。)
 山崎の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。山崎に生きる目的と意味を押し付け、今まで生きさせてきた人物だ。
 山崎が外気で冷やされた手をすり合わせると、パタリと赤が滴り落ちた。ブーツの先で蹴ると、雪でぬかった道はすぐさま赤を呑み込んで、消した。振り返る道に形跡は残っていない。それで良い。山崎は小さく頷いた。敵は始末したが、刺された腹が鈍痛を抱いて熱かった。
 (いや、熱が奪えたとしても、)
 熱が奪えるのは一時のこと。触れたことすら忘れて、肌はすぐさま悲しみの冷たさを忘れて歓喜に打ち震えるのだろう。日常と群衆に埋没する山崎がわざわざ記憶から掘り起こされるなど、到底望めやしない。だからきっと、自分は近いうちに誰の記憶からも消え去ってしまうに違いないと山崎は思った。
 密偵になりたての頃はそのことが怖くて反発を覚えた気もするが、今では何でもない事実として受け止めてしまえる。そんな自分自身を山崎は嗤った。美しい過去はこうして消えて、生き辛い現実というものに圧倒されるようにして塗り潰されていくのだ。きっと。
 山崎は再びコートの前を掻き寄せて、屯所の扉を潜った。
 いつの日か。誰にも気に留められず、気付かれず、そっと消えて亡くなるのだろう。
 それは未だ今日ではないけれど。










初掲載 2006年12月2日
Rachaelさま