ふと、海に行きたいと思い、言ってみた。
それから、河上の肩口をしっかり掴んで、彼の操るバイクに揺られている。
山崎のいる江戸という都市は、幕府が開かれることになった際海を埋めたてて造られた場所だった。引かれた多くの河口が合わさり、一つになって、宇宙でも珍しい生態系を為している。プランクトンがどうのこうのという話だが、門外漢の山崎には良くわからない。ただ、ダイバーや魚系の天人がこぞって海へ潜ろうとするのは知っていて、彼らを引き止めるのは真選組の仕事ではないことも知っていた。山崎には重要なことだ。
それでも時折巡回の間に、海へ飛び込んだ何かの銀の背びれが夕日に輝いたり、万屋が天人を釣り上げたりするのを見かけたりする。
その釣った万屋と釣られた天人の喧嘩を仲裁するのは、残念ながら真選組の仕事で、間に入った山崎はクロスよろしく殴り飛ばされることもある。既に片手で足りないほど、海に落ちて水柱を立てている。そういう場合は大抵、山崎が一緒に巡回していた原田に引き揚げられたときには、万屋も天人もすたこらさっさと姿を消している。苦情を言いに行く気にもならないのは、相手が万屋だからだろうか。
前に一度、頭に付いた藻を海に捨て、水でがっぽがっぽと音を立てるブーツで歩いて屯所へ帰ると、何やってんだと呆れた風に土方に顔を顰められた。その日は珍しく使いに出されず、それどころか身包みを剥がされるようにして風呂へ追い立てられ、残業もさせてもらえなかった。
しかし、翌日体調を崩して寝ていると、あれだけしてやったのにと嫌そうに苦言を洩らされた。副長の思いがけない優しさが不気味で夜通し色々考えてたら眠れませんでしたとも返せず、山崎は布団を頭から被って沈黙を守った。布団で灯りの閉ざされた視界は、幼い頃押し込められた納戸のように暗かった。
風邪ごときで体調を崩したのも、子供っぽい仕草で土方の言葉を拒んだのも、後にも先にもあのときだけだ。
山崎が唐突に海に行きたいと思ったのは、それを思い出したからかもしれない。しかし風邪を引けば許されるなどと甘ったれたことを思ったわけでなく、単に、そういえば最近海を見ていないことを思い出したからだった。
丁度休暇のことだった。
「海に行きたい。」
「何処のでござる?」
「えーっと。西、が良いな。」
考えがあったわけではない。単に故郷が摂津だから、言ってみただけだった。
河上はサングラスの下で山崎を不思議そうに見つめ、それから読んでいた音楽雑誌を一瞥すると、ソファから身を起こして立ち上がった。
「では行くか。」
身の軽い男だ。バイクのキーと財布をポケットに突っ込み、河上がさっさと玄関へ向かった。慌てて、山崎もその後を追った。
難波津は摂津の由来になった湾だそうで、やはりこれまた門外漢の山崎は良く知らないが、歴史はかなり深いらしい。近くには住吉津や瀬戸内海もあって、今では天人の技術で空を飛ぶ方が断然楽だが、一昔前まで非常に重宝されていた。
山崎が河上に連れられたのはそんな摂津の海ではなく、見たことのない海だった。途中までは摂津へ向かっていたのだから、西の方であることは確かだが、一体どこの海なのだろう。
バイクから降りヘルメットを取りながら辺りを見回すと、ふいに潮の臭いが強く香った。江戸とは違う香りだった。
「これだけ来ても、やはり某の知る海とは違うな。」
「どこの海?」
「もっともっと西…不知火海などまこと綺麗で。」
「不知火っていうと、えーっと、九州?」
「さよう。熊本でござる。」
河上がかつて熊本藩士だったことは、山崎も調査で知っている。無言でペットボトルのコーラを含むと、生温くなっていて不味かった。内心飲まなきゃ良かったと思った。
「で、ここはどこの海?」
「おそらく、紀州沖でござろうな。詳しいことはわからぬが。」
「ふーん。」
視界一面に広がる海にぽつりぽつりと船が浮かんでいる。あれらのいくつかは密航船かも知れないと山崎は胸中密かに思った。
時折飛び交う飛行船が細い雲を引き連れて行く。
江戸ではなんてことない風景だ。それが今は無性に懐かしい。
「俺、死んだら海に沈みたいな。」
海に行きたいと言ったときと大差なかった。ただふっと思ってそのまま山崎は口にした。
河上はサングラスの下で山崎を可笑しそうに見つめ、それから海を一瞥した。
「それは無理でござろう。」
「何で?」
「水死体は腹のガスで浮くと聞く。その上、生半可な醜さではないらしい。」
「…言われなくても知ってる、けど、さ。」
山崎は監察だ。死体を検めることも少なくない。それに現在、医師の勉強も細々している。水死体の酷さなら、恐らく、新撰組隊士では誰よりも熟知していた。
「あんた、ロックだ歌だなんだって言ってんのに、全然浪漫がないんだな。」
「浪漫がない、か。ぬしに言われるとは心外でござる。」
夢を壊され顔をしかめる山崎を笑って、河上は再び海を眺めた。
「しからばそのときには、某がぬしの歌を止めよう。」
「…自分で助けた命を自分で摘み取るのが趣味か。悪趣味だな。」
「まさか?だから精々、ぬしには生きて歌ってもらわねば。」
口の軽い男だ。山崎は思わずまじまじと万斉のことを眺めてから、嘆息交じりに吐き出した。
「まあ、死ぬつもりなんて毛頭ないけど。でも、仮に俺が死ぬときが来たら、あんたに看取ってもらおうかな。」
死ぬな、と命じられても子供っぽい仕草で瞼を閉ざしてやろうと思った。生涯二度目で、そして、最期の反抗だ。あんたに出会えて幸せでしたってそれだけ告げて土方を拒んで、河上に見送られて海底へ沈むのだ。沈降して逝ったその先で泡になって、神楽が楽しそうに教えてくれた天人の人魚みたいになっても良い。
あれ?あれって人魚が天使になるんだっけ?などと山崎が首を捻っていると、河上が山崎の手を掴んだ。
「もう帰ろう。ぬしの休暇はあまりに短い。」
手を引かれて歩き出し、ふっと一度だけ、山崎は背後を振り返った。いつの間にあんなに色付いたのか、夕日が赤々と海を染めている。その下は陽が射さず、漆黒の闇が広がっているのだろう。
河上のマンションに戻って布団を頭から被ったときの納戸のような暗闇は、海底の暗さにきっと似ている。
バイクに乗ってしばらく躊躇してから、思い切って胴に腕を回すと、改めて河上の存在を感じた。
今は新撰組隊士の立場があるから絶対言えないが、人魚になるそのときは、大好きだったと言おうと内心思った。河上はきっとサングラスの下で目を丸くして、それから呆れたように笑うのだろう。そして山崎では考えもつかないような、浪漫溢るる言葉を言うに違いない。考えがつかないから、想像することも出来ないが。
「いつか不知火海にも行きたいな。あんたの故郷の。」
「それではいつか連れて行こう。」
口に出さずに頷いて、山崎は脇の海を見やった。
竜神の灯火と呼ばれる不知火はきっと綺麗で、それ以上に、ずっと寂しい。
初掲載 2007年11月10日
山崎は紀州沖にて、新撰組仲間に看取られ、水葬。
そのとき、河上は獄中にいた。