ギルガメッシュの要望で西瓜を切り分けてきた士郎は、ぐるりと部屋を見渡した。
気儘な独り暮らしをきっかけに購入したソファベッドは、5ヶ月ぶりに再会したギルガメッシュに占領されていた。綺麗に真紅のネイルの施された爪先が目に楽しい。今朝までは漆黒だったから、士郎がいない間、暇つぶしにネイルサロンへでも行って来たのだろう。自分で塗ったとは思えなかった。5ヶ月前まで、ギルガメッシュの爪先を彩るのは士郎の担当だった。
開け放したベランダの窓からは、ふりしきる雨が床を濡らしていた。街の光を反射して煌めく水たまりは、ルルドの奇蹟を思わせる。
逢瀬を阻まれ別離を惜しむ織姫の涙、と情緒に耽るには、生ぬるい空気が邪魔をする、そんな夜。
テーブルには、色とりどりのクレヨンと画用紙製の短冊が一面に散らばっていた。士郎はクレヨンと短冊を端に寄せると、代わりに西瓜の大皿を置いた。そんな士郎の行動にちらりと投げかけられた一瞥は、気紛れな猫そのものだ。興味を示したのも束の間、ギルガメッシュはすぐに窓の外へ心を移してしまった。
今年の7月7日は雨になった。空は厚い雲で覆われていた。星を拝める気配はない。
七夕を祝おうと言い出したのは、例の如くギルガメッシュだった。いや、「祝おう」というと語弊がある。「祝うぞ」が正しい。正確に何と言ったのか士郎は覚えていなかったが、それが提案ではなく命令だった事実だけは印象にあった。毎年恒例の行事というわけではない。士郎の記憶に誤りがなければ、言峰家で七夕を祝うのは中学3年を最後に止めている。もしかすると、新しく親交を深めた子供たちに、学校行事を自慢でもされたのかもしれなかった。実に半年ぶりの出会い頭の命令に、拍子抜けするとともに安堵したのも事実だった。
せめて気分だけでも盛り上げようとしたのだろう。持ち込まれた黄金の笹には短冊が吊るされていた。豪奢な篠に対して見劣りのする色紙は、のたくったみみずにも似た流麗な古代語で埋め尽くされている。士郎には何と書いてあるのか判別できなかったが、何となく、それが「願望」でないことだけは理解できた。ギルガメッシュがこのような夢物語に託すような「願望」を持っていたならば、聖杯戦争もあのような結末を迎えなかったはずだ。
生を喰らって燃え盛る山。流された血より紅く暗い空。
いつか見た死が氾濫している市街地。
二度目の死を迎えた街は、世俗の流れから取り残されたまま、廃墟と化している。
士郎は逡巡の末、ギルガメッシュの隣に腰を下ろした。他に座れるような場所もない。可能な限り距離を置いたのは、せめてもの抵抗だった。こうして帰宅することなく、あのときのようにギルガメッシュから逃げ出せば良かったのだろうか。士郎には解らなかった。
気づまりに思い西瓜へ手を伸ばす。再び、士郎はあの気紛れな視線を感じた。士郎は怖かった。士郎の脳裏には、あのとき、最後にギルガメッシュが見せた眼差しがこびりついていた。どれだけ剥がそうと足掻いたことか。侮蔑でも、憤怒でも、同情でもない。ただの無関心。それが、士郎にとっては何にもまして堪えた。だから、あの日、士郎は――
過去に引きずられ視界が紅く染まるのと、腕を掴まれぐいと引き寄せられるのとは、ほぼ同時のことだった。士郎ははっとして隣のギルガメッシュを見やった。手を伸ばせば他愛なく届く距離で、ギルガメッシュが短冊を手に問いかけた。
「望みはないのか?」
いまだ、瞼の裏は紅く明滅を繰り返してしている。指先は恥知らずにも震えていた。思わず、士郎は顔を背けた。
「……短冊に祈るようなことじゃないから。」
望みならばあると告げたも同然だ。士郎は己の拙い返答に歯噛みした。ギルガメッシュが嫣然と微笑んだ。人を垂らしこみ貶しめようとする悪魔の笑みだった。つと爪先がおとがいをなぞった。
ふと、士郎の頭の片隅を、以前養父と交わした会話が過ぎった。
『女子供を犯しても良い、自殺しても良い、人を殺めても良い。何をしようと、私はお前の決断を享受し、祝福を与えよう。だが、アレには気を許すな。取り殺されるぞ。』
ギルガメッシュの愛情を過多に注がれながら拒絶の言葉を吐く綺礼を、あの頃の士郎は深く憎悪したものだ。そんな養い子の蔑視に、綺礼は口端を歪めた。当人は、笑みのつもりだったのかもしれない。綺礼は士郎へ一瞥投げかけると、聖書へ目を落としたまま助言を口にした。
『ゲーテのファウストを読んだことはあるかね?なければ、読むと良い。アレはメフィストフェレスのようなものだ。愉悦の持続は難しい。しかし、破滅は刹那で済むものだ。一瞬の気の迷い、それが絶望への入り口となるだろう。』
とんとんと忙しなく執務机を叩く指先は、彼なりの愛情から生じる焦燥の表れであったのかもしれない。
しかし、半年前の士郎には、綺礼の憐憫など分かるべくもなかった。あれだけ危ぶまれていたにもかかわらず、ギルガメッシュに愛憎を傾注しすぎたのが原因だった。
「ならば我に申してみるが良い。叶えてやらんでもないぞ。」
咽喉にギルガメッシュの温かな呼気を感じた。士郎は身震いした。眼下の悪魔が何を求めているのか、士郎は本能で知っていた。己の堕落だ。
「後ろを向いてくれ。」
士郎の嘆願に、ギルガメッシュが可笑しがるように目を眇めて、士郎に背を向けた。金色の髪がなびき、襟足を掠める。肩口で揃えられた髪を惜しむ権利は、士郎にはない。あのとき、決断を迫ったのは士郎だ。曝け出された項は、取り繕った上辺のように白々しく、爪跡や鬱血は癒され、あの日の痕跡など、もはや何一つとして残っていなかった。
士郎は唇を噛んだ。なぜ、今更になって、ギルガメッシュは姿を現したのだろう。彼女を永劫失った空虚を忘れられないまでも、やり過ごす術を見つけた今になって、なぜ。
あのときの昂揚と絶望が胸を焦がした。手に入れられないならば、せめてこの手で手折ってやりたかった。
無頓着で無警戒な様子に募る苛立ちを殺して、指先をギルガメッシュの背へ滑らせる。
スキ
稚拙な告白に、我ながら反吐が出る。
士郎はギルガメッシュのことが好きだ。何よりも、愛していた。恋焦がれていた。自分にとってギルガメッシュがそうであるように、ギルガメッシュにとって無二の存在になりたかった。だが、太陽に焦がれたイカロスの末路など決まっている。ギルガメッシュは士郎の求愛を拒んだ。教会という枠組みに囚われ、士郎をそういう目で見ることはできないと宣告した。己は綺礼のサーヴァントであり、受肉した身でサーヴァントという枠組みにとらわれないとはいえ、自らの意思で為した契約は履行すべきであるから、と。
だから、士郎は殺そうとした。自分だけを見てくれないのならば、最後に自分の姿を留めさせたまま、その瞼を閉ざしてしまおうと思った。
その目論見は、ある意味では、達成したと言える。ギルガメッシュは死ななかったが、あの戦争で全てを亡くしていた。
「確かに、短冊に記すまでもない望みだな。」
くぐもった笑声が響き、視界が反転した。
「どうしたい?ちゃんと口でおねだりできたならば、叶えてやろう。」
押しつけられた乳房の柔らかさに、士郎はくらくらした。ギルガメッシュのほっそりした肢体は白百合を思わせる。だが、放つ咆哮は金木犀の如く甘く、士郎の判断力を奪い、酩酊させた。士郎では、綺礼の代わりにはなれない。そんなことは、ギルガメッシュも解っているはずだ。
悪ふざけを止めさせようと身じろぎすると、ソファベッドがぎしりと嫌な音を立てた。愛するか、死ぬか。あのとき、いずれも欲しくないとうそぶいた唇が眼前にあった。あの日、締め上げた白い首。士郎はごくりと咽喉を鳴らした。この白い咽喉を噛み切れば、今度こそ、ギルガメッシュを殺せるだろうか。歪んだ欲望に、真紅の甘さを感じたくて舌が疼いた。
愛していた。恋しかった。焦がれていた。憎かった。殺したかった。
二人きりで、閉じたまま生きたかった。
「ギルのこと、愛したい。」
このギルガメッシュの気紛れが復讐に起因するものか、士郎には解らない。ただ、そこに一滴でも良い。憎悪の中に混じりけなしの愛情があれば、それだけで、士郎は救われたことだろう。
からりとギルガメッシュが笑った。悪戯が成功した、無垢な子供の笑みだった。
「好きにするが良い。」
時間よ止まれ、そなたは美しい。
士郎は震える腕で、ギルガメッシュを強く掻き抱いた。
けれど、かつてギルガメッシュの目を奪い、この地上に留めさせたファウストは蘇らないのだ。
初掲載 2012年7月7日