イーノックがルシフェルに出会ったのは、初夏の夜のことだった。
その日は朝から雨が降りしきっていた。所轄の警官であるイーノックは、相棒のアルマロスと共に、何か非常事態がないものか、パトカーで繁華街を警邏していた。そのとき、路地裏で壁に背を預け、携帯を弄るルシフェルを見付けたのだった。
黒髪を後ろへ撫でつけ、全身黒尽くめで統一した男が、傘を差しもせず、人目を逃れるように路地裏にいるというのは、如何にも怪しかった。不健康な青白い肌も、痩身も、薬物売買の可能性を示唆しているように思え、イーノックは職質することに決めた。
イーノックが声をかけると、ルシフェルは少し驚いたように目を見開き、先程まで熱心に弄っていた携帯画面を閉じた。それから、興味を引かれた様子で面白がる風に目を眇め、イーノックと背後のアルマロスへ交互に視線をやりながら、口端に笑みらしきものを湛えた。
ルシフェルの人を食った笑みに、アルマロスは警戒したらしく顔を強張らせたが、なぜか、一歩後ろへ身を引いた。こういうとき、馬鹿にした相手にむしろ喰ってかかる傾向にあるアルマロスが後退するのは不自然だ。イーノックは、知り合いだろうか、とぼんやり頭の片隅で思いながら、ルシフェルを見つめていた。
雨に遮られ、遠目には判らなかったが、ルシフェルは非常に美しい男だった。色の薄い肌に映える、長い睫毛に縁取られた真紅の瞳。艶やかな黒髪は雨水を吸って、幾筋か額へ流れている様はやけに艶っぽい。僅かに開けられた薄い唇から覗く歯は綺麗な真珠色で、その後ろに、紅い舌が見え隠れしていた。
これほどまでに美しい人を目にしたことがなかったイーノックは、言葉を失って、ただルシフェルを見つめるばかりだった。
一目惚れだった。
イーノックは、敬虔なキリスト教信者だ。今まで、自分は生粋のストレートだと固く信じていたので、葛藤がなかったと言えば嘘になる。しかし、ルシフェルを恋慕う想いは日増しに強くなるばかりで、溜め息ばかり増え、どうにも堪えられそうになかった。そんなイーノックの様子にアルマロスは酷く気を揉んだようではあったが、固く口を閉ざし、努めてルシフェルのことを忘れさせようとしている風だった。
そんなイーノックの恋が成就し、ルシフェルと同棲を始めたのは、晩夏のことになる。
繁華街の路地裏での出来事だった。また、早晩の警邏の最中に見かけたのが切欠だった。
アルマロスの猛反対を押し切り、とうとう告白したイーノックに、ルシフェルは呆れた風に肩を竦めてから、あの面白がるときの癖で、目を眇めて見返してきた。
「お前はゲイなのか?」
ルシフェルの揶揄に、イーノックは頭を振って否定した。何度も自問自答を繰り返してはみたが、どうしても、イーノックは自分がゲイだとは思えなかった。今まで付き合った者は全員女だったし、男子高出身とはいえ、男に欲望をそそられた経験はなかった。
口下手な自分に巧く説明出来るとも思えず、イーノックはルシフェルの手を取った。一度しか会ったことがないのに愛しているも何もないものだと言われればそれまでだが、本当に恋しいのだと、目で訴えた。初めて触れたルシフェルの肌はひんやりと冷たく、イーノックの庇護欲を煽った。生涯をかけて、愛し尽くしたいと思った。
突然の接触に驚いたのか、ルシフェルは困惑した様子で握り締められた手を見やり、睫毛を瞬かせた。
「お前…、私が見えるだけではなく、触れられるのか。」
その言葉の真意が解らずきょとんとするイーノックへ、ルシフェルは身を寄せ、可笑しがる風に笑った。寄せられた柔らかな肢体、初めて聴く笑声に、イーノックの心臓は大きく跳ねた。
「良いよ、お前がそれを望むなら。――名は確か、何と言ったかな?」
「イ、イーノックだ!」
名すら覚える気がなかった男の首へ腕を回し、ルシフェルがキスをしてくる。勤務中だというのに、甘い疼きが股間を直撃し、固さを増した。慌てるイーノックの耳元で、ルシフェルが笑い交じりに囁いた。
「お前がゲイなのかどうかも、そのうち、判るだろうさ。」
イーノックの勤務が慌ただしく終了した頃には、すっかり夜の帳が落ちていた。
行く宛がないというルシフェルをアパートへ招いたのは、疾しい気持ちからではない。疾しい気持ちが皆無だったかと問われれば嘘になるが、決して、肉欲に目が眩んでいたわけではない、と思う。
だから、布団に寝そべって、思いもよらなかった行幸を思い返しているとき、急に重みを感じて、イーノックは心底驚いた。上半身を起こそうとするイーノックを制し、腹の上へ跨るルシフェルが、貸したパジャマ代わりのシャツを脱ぎ捨てた。
「恋仲になったら、こういうことをするものなのだろう?」
そうして、悪戯っぽく笑んで、目を白黒させているイーノックの顎を人差し指でなぞり上げた。喉元までせり上がる鼓動に、上擦った声でルシフェルの名を呼んだ。
「何だ、イーノック?」
唇に呼吸がかかる距離で、ルシフェルが笑みをこぼした。
「ふっへへ、ちゃんと名前だったら覚えたぞ。――褒めて欲しいな。」
ぶつん、と理性の緒が切れた。抱き寄せ唇を貪ると、ルシフェルが身を捩らせて、胸元を力なく叩き、息苦しさを訴えた。自分から煽っておきながらすぐさま音を上げる様が可愛らしくて、鼻から抜ける声が来る快楽を匂わせて、劣情にあっさり火が着いた。
身体を入れ替え、下に敷いたルシフェルの肌を荒々しく撫ぜた。冷たい体温が、かえって欲情を滾らせ、イーノックは場所を問わずキスの雨を注いだ。
性急に下着へ手を差し入れると、男であればあるはずのものがなく、代わりに、女の慎ましいものがあった。イーノックは混乱した。しかし、次の瞬間には、神に愛されこれほどの美貌を与えられた人物が凡人と同じ身体の作りのはずがない、という根拠のない確信に変わっていた。
自分から嗾けてきたくせに、キス一つにすら間誤付き、ひどく困惑した様子で身構えるルシフェルは愛らしかった。処女だろうと憶測を立てて、イーノックは固く閉じられた花弁を丹念に解した。世間一般からすれば、イーノックのものは基準よりずいぶん大きい。それを受け入れる際の苦痛を少しでも和らげることが出来るよう、指と舌を駆使して、入念に濡らした。
ベッドサイドから、二年ぶりの活躍になるコンドームを取り出し、手早く装着する。
「ルシフェル、あなたを愛したい。」
捧げられる快楽にすっかり思考能力を奪われた様子で、ルシフェルは、欲情にけぶる眼差しをイーノックのいきり立ったものへ向けた。
「…良いよ、お前がそれを望むなら。」
細い腕が伸ばされ、背へ回される。イーノックは少しずつ、大きなものの先端をルシフェルの中へ押し込んでいった。苦痛に、ルシフェルの眉根が寄る。眉間へキスを落としながら、イーノックは身を進めていった。
「あ、あぁ…イーノッ、」
「ルシフェル、愛している。ルシフェル、ルシフェル。」
うわ言のように繰り返し、とろんとした目つきのルシフェルを掻き抱く。この行為で自分だけが満足することのないよう、初めてでも感じてもらうことの出来るよう、イーノックは努めてゆっくり抽送を繰り返し、至るところへ愛撫を施した。胸元で色づく紅い飾りを摘み、柔く歯を立て、小さな肉芽を指の腹で擦り、暴力に等しい快感を教え込んでいく。
「こんなの、ふぁ、ぁっ、よ、知ら、な…!んんっ!あああああ!」
ルシフェルの身体が強張り、背へ爪を立てられる。強く締まる内部に引き摺られ、イーノックも絶頂を迎えた。びくんびくん、と陸に上げられた魚のように、ルシフェルの中が痙攣し、弛緩する。そのまま意識を手放した恋人に、満面の笑みで強く抱き寄せた。決して夢ではないのだと認識したくて、腕に閉じ込めて、ルシフェルの肩口に顔を埋めた。幸せだった。
ルシフェルが目覚めたのは、そう間もないことだった。
「初めてだったんだ。」
イーノックの胸へ手を添え、頬を擦りつけて来るルシフェルはまるで子猫のように甘えただ。イーノックは僅かに潤む眦にキスを落とし、真っ向からルシフェルを見詰めた。
「まさか、こんな風だなんて思わなかった。」
「ああ。」
額にキスを贈ると、ルシフェルが瞼を閉じた。その自分の反応が気恥ずかしかったのか、頬が赤く染まった。
「手折るという表現の意味がわかったよ、まったく。」
「ああ。」
今度は、愛らしく色付いた頬へキスを一つ。とうとう、ルシフェルが怪訝そうに眉をひそめて言った。
「お前はさっきからそればっかりだな、イーノック。他に何か言ったらどうだ。」
「ルシフェル、愛している。」
「…馬鹿っ。」
イーノックは快活に笑って、そっぽを向く恋人の不満に尖る唇へ、最後のキスを降らした。
イーノックがルシフェルと付き合い始めてから、半年が過ぎた。
何くれと同棲の状況を尋ねて来るアルマロスは、イーノックの語るルシフェルの態度が解せない様子で、毎回、困った風に眉尻を落とす。そのたびに、アルマロスの知る過去のルシフェルの話がイーノックは聞きたくて堪らなくなる。だが、実直なイーノックには、恋人の与り知らぬところで勝手に詮索するのも躊躇われて、聞かないことにしていた。
それに、こういうときに限って。
「あの方は、もっと、怖いと思ったんだけどなあ。」
頻りに首を捻るアルマロスの頭に、勢い良く、ペーパーブックがぶつかってきた。今朝、ルシフェルが読み進めていた本だ。イーノックはぱっと顔を歓喜に輝かせて、頭を抱えて蹲るアルマロスの背後へ目を向けた。
「ルシフェル!」
ルシフェルが軽く手を上げて応じ、涙目のアルマロスを冷たい眼差しで睨みつけた。
「アルマロス…あることないこと、イーノックに吹き込まないでもらおうか?」
ルシフェルの足がアルマロスの足をぎりぎり踏み躙っているように見えたが、恐らくは、イーノックの見間違いだろう。ルシフェルがどれだけ愛情深く、優しいか、イーノックは知っている。
「何だったら、すぐさま息の根止めてやっても良いんだぞ?お前に恩情をかけてお目溢ししてやっているのは、お前があと50年もしないうちにくたばる人間の身で、イーノックの親友だから、なんだからな。」
思わず見惚れる花のような笑みを浮かべるルシフェルの言葉に、青褪めたアルマロスが何度も首肯しつつ、悲鳴混じりに問いかけた。
「ど、どうしてアストラル体のあなたがものに触れられるんだっ?」
「……ああ、ポルターガイスト現象というものがあってね。最近、練習中なんだ。」
再び、アルマロスの頭部へ本が飛ぶ。何度も繰り広げられた恋人と親友のやり取りに微笑ましさを覚えて、イーノックは笑った。
初掲載 2011年5月15日