ホメオスタシス (発売前)   近未来パラレル


  (1)

 そこは、ただ、白かった。
 四方を白い壁で囲まれた施設には、プライバシーなど存在しなかった。それが、当然だった。内部は浅黒い肌に淡い金髪の子供たちで満たされ、幾人かの大人が監督者として付けられていた。彼ら監督者は無表情に子供たちをベッドへ駆り立て、栄養のみに重点を置いた無味な食物を与え、成長を促したが、一方で、子供たちが繋がりを持つことを妨げ、自発的な智慧を持つことを禁じた。
 その子供たちの中で、「少年」は特異な存在だった。監督者たちは口を揃えて、「少年」のことを「先祖返り」と評した。オリーブ色の肌と濃い黄金の髪。体格も優れ、他の子供たちに比べれば、頭一つ分浮いていた。何より顕著なのは、青い目に表れる「自己」の芽生えだった。監督者に唯々諾々と従う他の子供たちと異なり、「少年」は「自己」を形成し始めていた。それはいまだ脆くあやふやな代物だったが、監督者たちから奇異な目を向けられるには十分すぎるほどだった。
 それにもかかわらず、「少年」は殺処分を免れた。それは単に、自意識が確立し、他の子供たちに悪影響を及ぼす前に、「外」によって買い取られたためだった。
 腕を引かれ、「少年」は己が仲間と分かたれることを悟った。こうして監督者に連れ出された子供は、再びその姿を見せたことがなかった。子供たちは一様に「死」という概念を持たなかったが、それでも、それが一個の「終わり」であることは知っていた。
 初めて見た日の光は、薄闇に慣れた「少年」の目に突き刺さるような痛みをもたらした。「少年」は瞬きを繰り返し、光の中、傲慢に立っている男を見上げた。
 男は奇異な見目をしていた。青白い肌に、感情の読めない真紅の瞳。しなやかな肢体に黒衣を纏う男は、長く細い足を交差させ、口端を弓なりに歪めて、こちらを検分している。
 「少年」は男の容貌に、初めて目にした陽光に対するものと同じ、恐怖を覚えた。施設には、表情も、茶と黄と青以外の色彩も、男のような奇妙な器官を備えた外観を持つ者も存在しなかった。淡色を纏う子供たちは、みなどこか諦念し、疲弊した生真面目な顔つきで、黙々と「生存」に従属していた。
 「それで、彼の名は?」
 監督者の告げた番号に、男は形の良い眉をひそめてみせた。
 「ふぅん。ないのなら、私がつけよう。そうだな。」
 顎に手を添え、不躾な視線を「少年」へ向けた男は、心底愉快そうに口元を綻ばせた。
 「「メタトロン」になるお前は、今日から――」
 微かに掠れた豊かな声が、「イーノック」の名を紡ぐ。まんじりともせず己を見つめるイーノックへ、男は苦笑して手を差し伸べた。
 「私は、ルシフェル。お前の大天使だ。」
 開かれた扉から差し込む一条の光が、この出逢いを祝福するかのように、二人を照らし出した。ルシフェルの背に在る翼が、陽光を弾き、純白に輝いた。
 初めて、イーノックは光を目にした。白の眩しさを知った。佳きものを見た。
 強い衝動に身を震わせた。
 ルシフェルは可笑しがるように眼を細め、眼下の子供が手を握り返すのを気長に待っている。イーノックはわいた唾を嚥下し、その白い手を取った。
 後背に堕ちた、闇の存在など知らずに。


 (2)

 地上では、小雨が降っていた。
 「都市」と異なり、「街」の雨は強い酸性を示すという。強すぎる紫外線を遮る目的で設けられたシールドは、整備されることもなく赤錆を湛え、朽ちゆく一方だ。
 黒く濁った曇天に、裏口を抜け出た男は虚をつかれたように立ち止った。だが、それも一時のことで、意を決したように走り出した。
 想像に違わず、路地裏は入り組んでいた。あちこちに、壁にもたれかかり、這い蹲った人の姿が見える。時折、悲鳴らしき叫びが耳を突いた。路地に絶叫が木霊する度、男は止めかけた足を強いて前へと踏み出した。薬物に侵され、バッドトリップに浸る者の思考は平常ではない。
 男は、纏うパーカーのフードを目深に被り、顔を覆い隠していた。ひどく緊張しているのか、汗ばんだ掌を落ち着きなくジーンズに擦りつけている。もう一方には、小さな手を握り締めていた。
 不安な面持ちの少女は、目が見えないのだろう。それでも、幾度となく、眼前の男と後方とを交互に見やった。
 ぱしゃぱしゃと濡れしきるコンクリートを駆け抜ける音が響いた。
 男は、狼狽している。通称「土竜」と呼ばれる突然変異体(ミュータント)の少女は、その事実に気付いていた。反成長ホルモンを体内で構成し、「時」を忘れた愛らしい外見と、聴覚の発達に伴い、網膜が退化して光を感じない眼球。何より、兵器として用いられることもある高周波のその声。囚われの少女は、「土竜」が高値で取引される事実、己が競売にかけられた現実を理解していた。
 裏社会において、突然変異体が競りにかけられることは、決して珍しいことではない。人工的に造り出された突然変異体は、愛玩用から生物兵器まで、あらゆる種類が存在している。少女のように人型を保つものでも、知性を持たない幸福なものもいる。
 たまたま、自分の場合は、オリジナルの人間に近しく、自我が残ってしまっただけだ。生物兵器として活用されることになれば、脳に端末機を埋め込むことにより、その自意識も綺麗に抹消されるだろう。少女はそのように自分の将来を客観的に捉えていた。
 誰かが前方で足を止め、男の到来を待っている。少女の鋭敏な聴覚が、第三者の到来を知らせた。男はまだ気付いていないようだ。
 少女は言葉を発するべく口を開きかけ、そのまま、立ち竦んだ。きぃんと張り詰める耳鳴りに、一瞬、意識がぶれた。足が揺らぐ。喘ぎ崩れ落ちる少女を、男が抱き止めた。
 「…イーノック、お前と来たら何をしているんだ。面倒は起こさないと約束したはずだろう。人の話は聞いたらどうだ?」
 「ルシフェル…。」
 ゆったりした足取りで、ルシフェルが近付いて来る。ビニール傘を差したルシフェルは、面白がるような笑みを口端に湛えて、少女に射るような眼差しを向けた。
 「土竜、か。随分と、希少な突然変異体を選んだものだ。お陰で、会場は混乱していたぞ。解ったなら、返して来い。」
 「…私には、彼女を見捨てることなど出来ない。」
 少女を庇うように立ち塞がったイーノックに眼を眇め、ルシフェルは嘲りを浮かべた。
 「それで、売られている子供を見かけるたびに、攫って行くのか?全てを救う、とでも?子供じゃあるまいし、好い加減にしてくれ。お前が自己を投影させてしまう気持ちは解らないでもないが…。」
 「ルシフェル。」
 咎める声調で、イーノックは呼びかけた。その中に紛れもなく混じる懇願に、ルシフェルは肩を竦めた。
 ルシフェルがイーノックを飼育し始めてから、十年の月日が流れていた。
 突然変異体のEL遺伝子配合用に生産される純血種の人間。それが、イーノックだった。先祖返りを起こし、「自我」を与えられた少年は、教育を施された結果、今や自ら思考するまでになっていた。
 一体、これで幾度目の挑戦になるのか。今度は、巧く行きそうだ。
 「すまない、言いすぎたな。大丈夫、お前の判断の邪魔はしないさ。」
 ルシフェルは満面の笑みを湛えて、迷子へ救いの手を差し伸べた。逡巡を見せるイーノックに宥めるように囁いてやる。
 「追手も、大丈夫だ。問題ない。全て私が処理しておいた。ほら、おいで、イーノック。」
 そう言えば、イーノックは僅かな後悔を覗かせてルシフェルの手を取った。ルシフェルは内心ほくそ笑んだ。丹念に育て上げた人間は、この世界を胎から食い破り、生まれ堕ちるだろう。その誕生は、先の話ではない。
 神が斃される日は、近い。
 ナンナと呼ばれた娘は、いまだ怯えたようにイーノックの背へしがみつき、ルシフェルの様子を窺っていた。ルシフェルは僅かに汚れのこびり付いた靴先へ眼を落した。はたして、「土竜」とは嗅覚まで優れていただろうか。それとも、己より高位に属する突然変異体への本能的な警戒の顕れだろうか。
 イーノックはまだ気付いていないようだ。
 ルシフェルはぱしゃりと水溜まりを蹴って、歩き出した。
 例え失敗したとしても、全て雨で洗い流し、クリアしてしまえば良い。今まで同様。
 実に、シンプルな話だった。


 (3)

 ルシフェルに次ぐ高位の大天使「メタトロン」として、「神」に仕え始めて五年。イーノックは己の特異性を知った。イーノックは、荒廃した環境に適合するため、遺伝子工学や機械工学の観点から造り変えられた突然変異体や義体(サイボーグ)ではない。純粋な人間だ。だが、純血種の人間で生身(フレッシュ)であるという事実は、「教会」において何より意味を持った。
 性急に足を動かすイーノックの後ろを、ルシフェルが常のゆったりとした足取りで追いかける。イーノックはひどく混乱していた。
 先程、イーノックは初めて「神」と謁見を果たした。かつて幼少期を過ごした飼育場を思わせる、真白い無機質な場所だった。「神」と呼ばれる存在は、合成音を用いて、跪く「メタトロン」に面を上げさせた。緊張に咽喉が渇き、掌が湿っていた。ルシフェルが微笑んで、神の玉座を覆い隠す白布を取り払った。嘲るような笑みだった。
 イーノックはすぐさま、その嘲笑の意味を理解した。
 元はイーノック同様人間であったはずの科学者の「神」は、今や、疑似脳脊髄液によって品質を保持された一個の器官だった。脳溝を増やし膨張し続けた結果、本来の外形を失くした巨大な灰色の脳は、「光輪(オウレロール)」と呼ばれる広大な部屋で数え切れないほどの配線に繋がれたまま、ネットワークを伝って遍く世界を支配していた。
 抱いてしかるべきは、畏怖の念であったのだろう。だが、イーノックは「神」の御姿に嫌悪を覚えてしまった。ルシフェルと出会ったときとは、真逆だった。実に容易く己の生を救いあげたルシフェルの存在によって、己が、いまだ知らぬ神すらも偉大な存在と妄信した事実に気付かされた。
 ルシフェルは可笑しがるように眼を細め、イーノックが壁にもたれ、絶望から座り込む様を見た。一向に立ち去る気配はない。悲嘆に暮れ、顔を両手で覆い隠したイーノックは、ルシフェルが発言するのを待った。
 「世界を転覆させたくないか?あんなモノに仕えて、お前はどうする。」
 ルシフェルは罪深く笑いかけてきた。イーノックは指の合間から、初めて見るものを見やるように、美貌の突然変異体を見上げた。
 取り澄ました様子でいながら、実は注意深く周辺に電子機器がないことを確認していた事実に、イーノックは薄々気付いていた。いつもそうだ。神の監視を掻い潜り、イーノックにこの世界の闇を知らしめて来た。遥か彼方頭上から底辺を示しながら、ルシフェルは気安く、底辺の御し難き愚昧を嗤った。
 地上に這い蹲る者の腹の内など知らずに。
 いつかのように、傲慢に立つルシフェルが手を差し出した。
 「私は、反逆者ルシファー。そして、お前の大天使、ルシフェルでもある。イーノック、お前が新たな神になるんだ。」
 迷いは、なかった。伸ばされた腕を掴み、強く引き寄せていた。
 初めて重ねた唇は、罪の甘さに咽返るようだ。口端に浮かんだ揶揄する笑みを掻き消すように、キスをした。貪るように噛みつき、与えられた禁断の果実を余すことなく味わっていた。幾度、こんな日が来ることを夢見たことだろう。崩れ堕ちるように床へ縺れ込み、愛おしい天使の肢体を暴いた。
 眼下の背は汗ばみ、しっとりと濡れている。はたはたと翼が揺れていた。なだらかな曲線を描く腰にイーノックを受け入れたルシフェルは、苦しそうに眉根を寄せ、短く浅い呼吸を繰り返している。つとその背骨へ指を滑らせたイーノックは、白い柔肌に舌を這わせ、肩甲骨を唇でなぞり上げた。
 膨らみに欠ける乳房を掌で覆い、もう一方の手で、とろとろ先走りを零すものを握り込む。絡み付くルシフェルの胎の中は、冷めた表皮に反し、焼けるように熱かった。
 更なる交接を求め身体を返せば、下方から伸びた華奢な手がイーノックの頬に添えられた。
 「…彼はお前を殺さないだろう。殺せるはずもない。」
 ルシフェルは乾いた唇を舌で舐め、キスを強請った。
 「お前は神に成り変る唯一の危険因子でもあるが、私に対する唯一の抑止力でもあるからね。」
 いつか、噂を耳にしたことがあった。ルシフェルは、時間操作の異能を持つ突然変異体で、神に次ぐ実力の持ち主であり、類稀なる美貌も合わさって、神からこの上ない寵愛を賜っている、と。だが、「土竜」のナンナは真相に気付いていた。同じ能力を持つためだろう。
 ルシフェルは、言わば、ハイスペックな「土竜」だ。常人では聴覚で捉えることのできない、特殊なノイズ交じりの高周波を発生させ、電子機器や突然変異体を破壊する。その異能ゆえ、体内に端末機も埋め込まれていないため、神の支配に抗うことの出来る希有な存在でもあった。
 しかし、突然変異体特有のEL遺伝子を持たない生身(フレッシュ)のイーノックは、ルシフェルの異能の範疇ではない。神の支配下にもない。
 「イーノック、愛しているよ。」
 眼下の天使が醒めた声で嘯く。真紅の眼が、地獄の業火の如く燃え上がっていた。つられて、こちらまで煽られるようだ。
 イーノックは内で生まれた飢餓を殺せそうになかった。入念に張り巡らされた罠に絡め取られ、抜け出す術が見当たらない。
 元より、この罪科から逃れるつもりなどなかった。


 (4)

 そこは、崩壊する以前の世界を模した場所だった。天使の歌声の影響が及ぶものなど、一つもない。
 力ない白い二の腕に、注射針を当てる。メタトロンが押子(プランジャ)を押し、薬剤を投与しても、腕の中の鳥は身動ぎ一つしなかった。力では敵わないことを承知しているのだ。だが、真紅の瞳は烈烈たる憎悪を宿して、メタトロンを睨みつけていた。
 「ルシフェル、そんな眼で見ないでくれ。私は貴方を愛しているんだ。」
 「…戯言を抜かすな。私を裏切り、彼に加担したくせに!」
 吐き捨てるように詰るルシフェルに、メタトロンは傷付いた様子で苦笑を浮かべた。
 「貴方も、私を捨て駒として殺すつもりだっただろう。それに、私に罪の甘さを教えたのは、貴方だ。…私は手を伸ばすつもりなどなかったのに。」
 慣れた手つきで柔い肢体を弄る。下へ手を伸ばしつつ、メタトロンは晒された白い首筋へ吸い付いた。甘い息を吐き、ルシフェルの強張っていた肢体から力が抜けていく様を見て取ると、いつも、煽られて仕方ない。
 「神は、私に貴方を約束してくださった。産めよ栄えよと仰せだ。どうやら、貴方の異能を引き継いだ子供が欲しいらしい。」
 まだ、内側は乾いていた。しかし、催淫効果のある排卵剤を投与されたルシフェルは、五分としない内に、乱れ始めるだろう。メタトロンは安堵させるように、ルシフェルの頬を大きな掌で包み込み、笑いかけた。
 「大丈夫だ、問題ない。貴方の望み通り、神はそのうち斃れる。私が新たなる神となって、この世界を造り変えるよ。貴方が望んだ通りの世界に。」
 「…私が望んでいたのは、そんな、未来じゃない。」
 メタトロンから眼を反らし、ルシフェルが悲痛な呻き声を漏らす。
 「メタトロン…、お前は…、お前は…。」
 項垂れるルシフェルを強く掻き抱き、キスの雨を降らせる。翼を切り落とした背は滑らかで、以前のように、抱き締めるのに苦労したりしない。膝の上へ引き揚げ、ルシフェルの唇を柔く食む。
 肩口に額を擦り寄せ、ルシフェルが身を震わせた。
 「私が望んでいたのは、こんな、未来じゃない。」
 だが、それならばルシフェルがどんな未来を望んだというのか。
 メタトロンは問いかけず、熟れすぎ地に堕ちた赤い果実の堪能に、没頭することにした。


 (5)

 「最下層(ディーププシュケー)」は、禁断の間だった。神のみが存在を許された聖域だ。
 男は人間で、罪人だった。堕天使と呼ばれる搭(タワー)の監視員だ。昼夜交代制で代わり映えしない七二のモニターを覗き込み、何もなかったことを上へ報告するのが服役中の務めだ。搭には、生身(フレッシュ)の重罪人しか投獄されていないので、死刑までの務めと言うべきか。
 神は連日のように訪れ、半日余りを「最下層」で過ごし、立ち去っていく。神は「最下層」へ何か重要なものを秘匿していることは、監視員であれば、誰もが知っていた。だが、「それ」が何であるか興味を示す者は皆無だった。そのような不敬で軽率な監視員は、疾うに間引かれていた。
 この日も、男は旧時代の飲み物を片手に、何ら変化を示さないモニターを眺めていた。
 「それ」に気付いたのは、モニター一三番の画面左上に挿し込んだ影だった。いぶかしんだ男は、画面をフルサイズへ移行させた。
 ひらりと白が過ぎった。
 「それ」は、何者かの足のようだった。長く細い足をゆったりと動かして、「それ」が近付いて来る。「それ」は明らかに、監視カメラの設置場所に気付いている様子で、迷う素振りを見せずカメラの真下へと来た。
 「それ」は、天使と見紛う美貌を持つ有翼人種と思われた。逆サイドの監視カメラから、肩甲骨に沿って、翼を切り落とされた者特有の表皮が融解したような傷跡が確認できた。
 男は外へ報告すべきか、一瞬、躊躇した。「それ」が外からの来訪者であれば、判断を迷いはしなかっただろう。だが、「それ」は明らかに「最下層」から出現した。神しか与り知らぬ存在に違いなかった。
 『――きっと、メタトロン、お前はコレを見るだろうから、言っておくとしようか。私は誰のモノになるつもりもないよ。』
 気だるげに、天使が肩を竦める。
 男は慌てて緊急連絡用ボタンを押した。束の間存在を主張した好奇心は消え去っていた。これは、神への呼びかけだ。コンマ数秒を置かず、外へ回線が繋がった。男は監視データを転送しながら、外へ異常を訴えた。今や、目まぐるしいまでに全てが動き出していた。代わりばえのなかった日常は、どこにも見当たらない。七二全てのモニターを天使の映像に切り替え、男は外部の支援を待った。
 画面では、天使が緩慢な素振りで話を続けていた。
 『前にも、言ったな。お前は話を聞かないから、覚えていないだろうが。私の望んだものは、こんな未来ではない。』
 どういうわけか、画面にノイズが走り始めている。不鮮明な映像に、男は眉根を寄せた。やがて乱れは砂嵐ほど酷くなり、ざーざーという不快な音も混じり出した。次第に、非常警報の音が遠ざかる。
 大きく歪むモニターで、腕を空へ掲げた天使が笑みらしきものを湛えるのを、男は見た。
 蠱惑的な紅い唇が、何か、言葉を口にした。
 『さ……なら、―…―ノッ…。』




 パチン


初掲載 2011年2月22日