魔性の花嫁パラレル (発売前)   パラレル


 それは、全て、一本の藁くじから始まった。
 イーノックは手の中の藁を信じられない思いで眺めていた。短い藁を引いた者が、次代の神になる。神が死した以上、それは決定事項ではあったが、イーノック自身はまさか己が選ばれることはないだろうと高をくくっていたのだ。
 同僚のガブリエルが長い藁を抱くように握り締め、憐れみの眼差しを向けて来る。彼が安堵しているのは、明白だった。イーノックも、神にならなくてすめばほっと胸を撫で下ろしたことだろう。大体、神が死んだこと自体不可解だと云うのに、元人間が神に成り上がることからして、理解出来ない。
 愕然とするイーノックの肩を叩く者があった。ラファエルだ。ラファエルはウリエルと示し合わせるような視線を交わして、ぎこちない笑みを浮かべた。
 「きみが神になるのか。私たちは、ミカエルが良いと思っていたのだが。」
 心から同感だったが、お前では力不足だと言われたようで面白くない。そんなイーノックの不満を感じ取ったのか、ラファエルは辺りをはばかるように見回してから、力なく笑った。
 「あの大罪人を躾けるなど並大抵のことではないよ。でも、ミカエルは彼の弟だからね。少なくとも、神のように殺されることはないだろう。」
 ラファエルの言葉はもっともで、耳に痛いことだらけだ。イーノックは肩を落とし、手中の藁を睨んだ。
 一体誰が予想したことだろう。数年前には人間でしかなかったイーノックが、これから神と成り、世界を統治する任に就く。
 そしてその右に坐するのは、誰であろう、神を殺めた謀反人ルシフェルなのだ。


 他の大天使たちが姿を消し、室内に一人だけ取り残されたイーノックは、手の中の藁くじに視線を落しながら、なぜ自分なのだろうと考えていた。
 運命、と言うことは容易い。事実、つい一年前まで全ての成り行きは、神のお導きだった。だが、神は死んだ。天使長によって崩御させられたのだ。全て神の知るところであれば、神は己の死を選んだだろうか。
 それが不敬な考えと知りつつも、イーノックは思わずにいられなかった。
 実を言うと、前神の評判はあまり芳しくなかった。無論、規律を重んじる天使たちの口に上ることはない。だが、原初の人間を誘惑に晒したうえで地上へ追放し、洪水計画によって地上から堕天使もろとも人間を払拭した記憶はいまだ新しい。天上に生きる者の感覚が地上に生きる者のそれに比べればずいぶん悠長であることを視野に入れれば、つい先日の出来事と言っても差し支えないほどだ。後者に関しては、忘れるはずもない。人類を救うために奔走したイーノックにしてみれば、己の無力さを噛み締める悲惨な結果だった。
 あのとき、イーノックはなぜ惹かれあい愛しあうことが罪なのか、理解出来なかった。それは今でも変わりない。努力空しく洪水を起こされ、地上が水に呑まれたとき、初めて、イーノックはそれまで妄信していた神に疑念を抱いたのだ。溺死した者たちの断末魔の叫び、嘆願が、耳をついて離れず、夢を見ては幾夜魘されたことか。
 そこで、イーノックは気難しげに顔をしかめた。原初の人間を誘惑する任につけられたのが、誰であろう、件の天使長だったことを思い出したからだ。蛇の姿をまとい、善なる者を唆すなど、悪魔の所業ではないか。
 藁くじを持て余し、手の中で遊ばせていると、室内に別人の気配が出現した。炎のように苛烈なオーラは、大天使ミカエルのものだろう。後ろを振り向いたイーノックは、ミカエルの姿を見止めて、力なく微笑んだ。
 天使長の弟であり、彼の次に神に近しい存在。それがミカエルだ。ラファエルたちが指摘したように、人間の身で天へ召し上げられた自分より、余程、神に相応しい。そう思うと、ちくりと胸が痛んだ。イーノックは己の浅ましさに嘆息した。傷付いたのは、ちっぽけな自尊心だ。
 敏いミカエルは、イーノックの心情を読み取ったのだろう。唇に笑みを乗せ、肩を竦めてみせた。
 「なあ、メタトロン。きみは私の名の由来を知っているか?「誰が神のようになれようか」神は驕る者を戒めるため、私を造られたのだ。他の者が色々ときみを悩ませているようだが、そうはいっても、私が神になるのもおかしな話だろう?「神の代理人」は、メタトロン、きみの方だ。」
 説得されていることは理解出来たが、それでもやはり、ミカエルの方が神に相応しいと思う。人間だった者が神に成り変るなど、それこそ、傲慢だろう。
 迷いを見せるイーノックの肩を、ミカエルが労うように叩いた。
 「それに、他の者が何と言おうと、メタトロン。私はきみが一番の適任者だと思う。」
 ちらと手中の短い藁くじに一瞥投げかけ、ミカエルが続ける。
 「きっと、きみが神になるのは運命なのだろう。…私たち天使はあまりに長く生きすぎた。前神の統治も長く、言葉は悪いが、そう、膿んでしまったのだ。もし私たちが生まれたときのように希望に満ちていれば、数々の悲劇は生み出さずに済んだだろうに。洪水にしても、そうだ。あのとき、洪水計画に異を唱えたのは、きみ一人だったではないか。それに、きみの力は十分強いよ。他の者たちは認めないが、私を優に上回っている。」
 イーノックは胸が熱くなった。ミカエルは他者の評価を口にする方ではない。その彼に認められ、褒められているのだと思うと、全身に力が漲るようだ。
 「兄さんも、きみになら心を開いてくれるだろう。あの人は、弟だからこそ私に言えないような秘密を沢山抱えているからな。」
 天使長の話題に少し心が沈みかけたが、ミカエルの信頼を無碍には出来ない。
 「だから、やってくれるな?」
 イーノックは大きく頷いた。本心から、良い神になろうと思った。


 イーノックがようやく天使長と対面したのは、戴冠式の前日のことだった。
 それまで、大天使として召し上げられてから五年の月日が経っていたが、イーノックはいまだ時を操る異能の天使長を見たことがなかった。噂によれば、恐ろしい癇の強さと口の悪さで、弟を始めとした首脳陣を悩ませているという。
 みなの前に姿を見せない天使長に関する噂は、数え切れないほどあった。人の良いイーノックは、その大半は、人々の口に上るうちに改悪していったものに違いないと踏んでいた。しかし、その数ある醜聞の中で異彩を放つ、「神を殺めた罪深き大天使」。認めがたいが、これだけは本当だった。
 万が一に備え、ウリエルを伴い訪れた天使長の住居は、天界の隅にあった。領土は、地上に匹敵するほど広大だ。奥には凍てつく氷室があり、夏はそこで神が涼を取ることもあったと言う。神の寵愛を一身に受け、これほどまでの待遇を施されながら、恩を仇で返すなど、イーノックにはとてもではないが信じられなかった。
 領土に比べて、屋敷は小ぢんまりしていた。小屋、と呼んだ方がいっそ相応しいだろう。どうやら主は、外観に頓着しない性質らしい。位置づけと外観を重んじる天使の中にあっては、珍しい方だ。
 それに怖じ気づく背を押されるようにして、イーノックは繋ぎ目一つないフォルムの壁を叩いた。すると、薄らと切れ目が入り、中から小柄な娘が姿を現した。
 娘は淡い銀髪を頭頂部でひっつめ、紐で括りつけていた。西暦2011年と呼ばれる時代のエプロンを身にまとっていることから、天使長付きの侍女なのだろう。褐色の腕をネフィリムにもたれかけ、怪訝な顔つきでこちらを見つめている。
 イーノックは目を見張った。存在を許されないネフィリムがいることにしてもそうだが、娘の存在にも心から驚いていた。天使にあって褐色の肌をもつ者など、イーノックの他にはいない。つまり、彼女は人間だ。まさか、天使長が人間を側仕えに使っているなどとは思いもよらない。その上、娘は盲目なのだろう。娘は焦点の合わない眼を瞬かせて、警戒心も顕に、汚れたエプロンの裾を握り締めた。
 「…あの、どちらさまですか?」
 小首を傾げて問う様が愛らしい。
 だが、身分を重んじるウリエルはそう思わなかったらしい。
 「人間よ、お前は新たな神の御姿も知らないのか。」
 イーノックは慌てて、抜刀しかけたウリエルを宥めた。万が一に備え伴ってきたが、短気なウリエルよりラファエルの方が良かったかもしれない。だが、と、イーノックは嘆息した。ラファエルやガブリエルはルシフェルに怯えているようで、ここへ来ることをひどく嫌がった。ミカエルも公言したわけでこそないが、ここへ来るのを躊躇っている様子だった。だからこそ、ウリエルを伴に選んだのだ。
 イーノックはウリエルを下がらせ、身を固くしている娘へと向かい合った。娘は暴力を振る舞われることに不慣れなのだろう。その怯える様を眼にして、不謹慎ながら、イーノックは安堵した。どうやら、天使長がこの娘に暴力を振ることはないらしい。
 「怯えさせてしまってすまない。私はメタトロン。ルシフェルに用事があるのだが、会いに来た旨伝えてきてもらえないだろうか?」
 娘は返答を渋った。まだウリエルが近くにいると思っているのだろう。イーノックは安堵させるため娘に、ウリエルを周辺の探索に行かせたことを伝えた。だが、娘にはまだ何か躊躇う理由があるようだ。
 「…メタトロンさま、あの、」
 言い渋る娘へ先を促す。娘は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 「大天使さまは誰ともお会いしたくないと言っているの。例え神さまであっても会いたくない、と言われている以上、伝えられないわ。大天使さまは怒ると、それはもう、とても怖いのよ。」
 イーノックは苦笑を浮かべて、娘に問いかけた。
 「それは、私のことだろうか?それとも、前の神?」
 「神さまは神さまよ。どの神さまでも同じだわ。」
 ネフィリムの後ろに隠れて、娘が即答する。あまりの即答に一瞬言葉に詰まり、イーノックは頭を掻いた。
 「そうか。まあ、仕方ないな。きみの名前は?」
 「…ナンナよ。」
 「そうか。では、ナンナ。私は天使長にどうしても用があるんだ。だから、私が会ってくれないか説得して来よう。それだったら、問題ないだろう?きみが怒られることもないと思うよ。」
 ナンナは不審そうに眉をひそめて、首を傾げてみせた。
 「何だか、屁理屈を捏ねられている気がしないでもないわ。」
 イーノックは笑って、ナンナの横をすり抜けた。


 屋敷の中は、天界風の外観と異なり、未来の地上風に造り込まれていた。天使長の屋敷ともなれば、本来ならば、大勢の下級天使が仕えているはずだ。だが、一向に、使用人らしき者の気配はしない。
 イーノックは眉をひそめ、外観からは想像もつかないほど長い廊下を突き進んでいった。空間が歪められているのだ。天使長の領域に足を踏み入れたことを、今更ながらに後悔した。天使長は強い。互角か、辛うじて上回るか。だが、時間軸を歪める異能さえあれば、元人間のイーノックなど取るに足らない存在に帰すことができる。なるべくならば、話は穏便に進めたかった。
 廊下沿いに置かれた皮張りの真紅のソファの上に、見たこともない未来の帽子やコートが乱雑に放られている。床には籠が置かれ、中に洗濯ものと思われる衣服が山となっていた。殆んどは、盲目の娘のもののようだ。他にも買い物袋やブーツといったものが列をなし、箪笥からは適当に押し込められたシャツの裾がはみ出ていた。一体、天使長はどのような生活を営んでいるのだろう。先程のナンナの薄汚れた恰好を思い返して、イーノックは顔をしかめた。盲目の娘に家事が取り仕切れるとは到底思えない。他に、この屋敷には、誰が仕えているのだろうか。
 イーノックは長い廊下を突き進んだ。亜空間の主は深層にいるものと決まっている。やがて廊下は閑散とし始め、耳慣れない音楽が流れ始めた。天使たちの奏でる讃美歌とは違う。恐らく、天使長が好むという未来の地上の音楽だろう。それは奥に進むにつれ、騒がしくなっていくようだ。イーノックは顔をしかめた。あまりの騒音に耳がおかしくなりそうだった。
 漆黒の亜空間に、ぽつりと真紅の扉が浮かび上がっている。この屋敷の主は、赤がお気に入りらしい。盲目のナンナのための仕様だろうか。『knock me!』と囁く扉を、イーノックは口端に笑みを湛えて、控えめにノックした。
 返事はない。
 「…天使長、いるだろうか?」
 もしかすると、喧騒に紛れて聴こえていないだけかもしれない。何度か強く叩くと、中から勢い良く扉を開けられた。イーノックは慌てて、後ろへ飛び退いた。
 「ナンナ、何なんだ一体!さっきから!聴こえている!…?」
 中から現れた痩身の男は肩を怒らせて、乱れた長い前髪の下から射るような眼差しを向けて来た。多少、相手がナンナでなかったことに驚いた様子だった。それほどまでに、この屋敷には来客が少ないのだろう。
 「すまない。あなたはお付きの者だろうか。あなたの主にお会いしたいのだが。」
 イーノックの台詞が気に食わなかったらしい。男は鼻を鳴らして、ふてぶてしく腕を組んだ。
 「ふん、私に主などいない。私がこの屋敷の主だ!」
 その言葉に、イーノックはまじまじと男を眺めた。長らく手入れしていないのか、もつれた長い黒髪が鼻先まで覆い隠している。垣間見える瞳は、血に近しい真紅だ。青白い肌に未来の黒服をまとった男の姿は、正しく、異形だった。とても、美しい天使たちを束ねる長の地位にある者とは思えない。嘘をつけず、正直に不信感を顕にしてしまうイーノックに天使長が噛みついた。
 「嘘だと思うならば、とくと味わうが良い。そして、お前の主に伝えるんだな。」
 ルシフェルが右手を宙へと掲げる。そのモーションに何らかの意図を感じ取り、イーノックは身構えた。空間が圧縮され、静電気が生じる。どうやら、ルシフェルは邪魔ものを外へ放り出そうとしているらしい。害はないだろうが、新たなる神が天使長の宅から送り返されたなど、良い外聞ではない。
 仕方なしに、イーノックは力を掌に掻き集めた。
 ルシフェルがヒステリックに叫ぶ。
 「私はもう、誰にも仕える気はないッ!」
 ぱちん、と指が鳴らされたが、何も起こらない。ルシフェルが眼を丸くして、己の右手を見やった。自らのテリトリーで力を振るうのを邪魔されたのは、初めてなのだろう。イーノックは己の力が正常に相殺を引き起こしたことに満足して、胸を撫で下ろした。
 「お前…この力…騙したな!使いではないのか!」
 身を震わせて詰るルシフェルに、にっこり笑いかける。そちらが勝手に勘違いしたのであって、意図的に騙したわけではない。だが、名乗らずにいるのも失礼にあたると思い、イーノックは右手を差し出した。
 「初めまして、天使長ルシフェル。私はメタトロン。新たな神に就任することが決まった者だ。イーノックと呼んでくれ。宜しく頼む。」
 差し出した手を握り返される気配はない。馬鹿にした態度で鼻を鳴らしたルシフェルは、今にも、踵を返して室内に戻りそうに見える。ここでめげるわけにはいかない。イーノックは笑みを張り付け、握手し返されるのを待った。
 三十秒、一分、二分。
 刻々と時間ばかり過ぎていく。腕を組んだ天使長は、爪先で地面をノックしながら罵詈雑言を吐き続けているが、どうも、室内に引き返すという選択肢は持っていないらしい。こうなれば、根気比べだ。幸い、時間ならばたっぷりあった。どうせ今日は天使長との会見で疲労して仕事どころではないだろう、と、フルで予定を組んであったのだ。
 やがて、根負けしたルシフェルが乱暴に手を掴んだ。勢い良く上下に振られながら、イーノックは内心溜め息を吐いた。自己紹介するだけで、このぞんざいな扱いだ。だが、あまりに力が強すぎるため、放置することも叶わない。
 これからどうやってこの天使長と付き合っていくべきか、既に頭痛の種だった。











初掲載 2011年2月20日