民族シャダイ:玉砕 (発売前)   民族シャダイ


 暑い。
 容赦なく照りつける太陽に、イーノックは、顎を伝い落ちる汗を拭った。愛用しているジーンズも、汗でじっとり濡れている。シャツは言わずもがな、脇に抱えた買い物袋まで汚してしまいそうだ。イーノックは僅かながら顔をしかめた。麻を織り上げて作られた袋は通気性に優れているが、水の浸入を防ぐ効果はなきに等しい。果物や野菜の類なら、食べる前に洗えば済む。しかし、イモを捏ねて作られたパンのような土着の食べ物を、駄目にしたくはなかった。
 砂漠が見てみたい。そう言いだしたのは、ルシフェルだった。湯浴み直後の、ベッドでのことだった。黄色い砂塵、土くれの街、白い布切れを纏った人々。何より、ルシフェルが望んだのは、太陽に愛され、乾き切った土地だった。
 「きっと太陽は、きみみたいな色をしているんだろう。」
 ルシフェルは笑いながら、イーノックの黄金の下生えに顔を埋めた。くぐもる笑い声が振動となって、イーノック自身に触れる。くすぐったい、と身をすくませたのも一瞬のことで、気がつけば、夢中で這わされる舌に荒い息を吐いていた。いつもそうだ。ルシフェルは願い事があるとき、決まって、ベッドで強請り始め、決断を求める。そんな状況下で、イーノックに断れるはずもない。そういうわけで、イーノックは今回もルシフェルの嘆願を拒みきれなかった。
 この砂漠の国はいるだけで、体力を消耗する場所だ。
 イーノックはこの国が嫌いなわけではない。しかし、肌を焼く灼熱の太陽には手を焼いていた。イーノックですらこのありさまなのだ。太陽と無縁の土地で生まれ育ったルシフェルは、明らかに堪えていた。一昨日、市中で見かけたこの国独自の文化も気に食わなかったらしい。この国に到着してから一週間経った今となっては、あれほど願った砂塵や太陽にも辟易した様子で、宿を出る素振りすらみせない。そのため、こうして異国の言葉が解らないイーノックが、ルシフェルの分まで買い出しに出かけていた。言語が通じず、身振り手振りだけでの買い物は毎回といって良いほど難渋したが、それでも、好奇心の強いイーノックには面白い体験だった。
 長い白布を纏った人々が、イーノックの脇を抜けていく。この土地の人々は一様に、浅黒い肌で白銀の髪をしている。体格も、これまで見て来た西の国の人々に比べれば、幾分小柄な部類のようだ。ブーツではなく、編み込まれたサンダルを履いているせいで、なおさら、背丈が低く見えるのだろう。彼らの中に、イーノックのように赤みがかった黄色い肌で金髪のものや、ルシフェルのような白肌で黒髪のものはいない。時折見かけても、それらは決まって異国の商人や旅人だった。
 インディゴ染料を零したような色合いの空には、時折思い出したように白が舞い飛んでいる。何の鳥だろう。イーノックは目を眇めて空を見上げたが、判別できなかった。元々、鳥類には詳しい方ではない。それが異国のものとなれば、なおさらだ。イーノックと異なり博識なルシフェルなら、おそらく解るだろう。しかし、ルシフェルが市中へ出ることは、まず、ない。
 ルシフェルが市中へ自主的に足を運ぶよりも、この国を出ようと言い始める方が、確率的には高かった。実際、ルシフェルはすでに旅支度を整え始めている。今日は、旅の必需品である塩と水の購入を頼まれた。明日か明後日には、宿を引き払うことになるだろう。
 次は一体、どこへ行きたいと強請られることか。イーノックは今からその瞬間が楽しみだった。勿論、一言でも漏らそうものならば、ルシフェルはつけあがることだろう。それが分かっているから、イーノックも口には出来なかった。


 その晩、イーノックが湯浴みを済ませて宿の部屋へ引き下がると、ルシフェルが待ち構えていた。イーノックは、髪を拭く手を止めた。ルシフェルがベッドの真ん中にいたからではない。別に何もなくとも、同じベッドで睡眠を取る間柄なのだから、それくらいのことで今更驚くことはない。イーノックが眉をひそめたのは、ルシフェルの周りに羽毛が散らばっていたためだった。ベッドサイドには、クッションの残骸が無残に打ち捨てられている。おそらくは、ルシフェルの思惟の犠牲となったのだろう。
 ルシフェルとは十年来の仲になるが、いまだに、イーノックは彼の考えることが解らないときがあった。
 例えば、一昨日もそうだ。眦や唇に紅を塗り、美しく化粧を施された少女を乗せた籠が、人々の喝采を背に中央通りを通り過ぎたときにも、イーノックにはルシフェルがなぜあれほど憤慨したのか、理解出来なかった。この国の言葉が解らないイーノックの眼には、あれは、単に華やかな祭りの行列として映った。だが、解るはずのルシフェルは、重く口を閉ざし、説明を拒んだ。背中で拒絶されれば、イーノックに問えるはずもない。イーノックはルシフェルを愛していた。ルシフェルの意思を尊んでいた。だから、ルシフェルのささやかな願いを捩じ伏せるなど出来なかった。
 本心では、流浪の旅も良いが、定住したいとも思う。飽くなきセックスも好きだが、愛するルシフェルと出来れば子を設けたい。元々、イーノックは諸国を巡って暮らすようなタイプではない。文化や言語が異なり理解出来ないのも、楽しい半面不便だと感じている。しかし、ルシフェルは子供など邪魔なだけだと答え、両方の性を持つとはいえ、見た目が男性に近い以上、夫婦や恋人として定住することなど不可能だと笑いながら却下する。ルシフェルの言うことはもっともだ。イーノックも、それ以上のことは言えなかった。
 それに、イーノックはルシフェルが人間嫌いだと知っている。イーノックは辛うじて、許容されているに過ぎない。おそらく、自分で孕んだ子だとしても、遠ざけるだろう。自分すらも、厭うがゆえに。
 それだけに、この夜のルシフェルの発言は、イーノックに大きな衝撃を与えた。
 「…なあ、イーノック。家族が…、子供がいる生活をどう思う…?」
 ちろりと耳を舐められ、イーノックは唾を呑んだ。ルシフェルの手が思わしげに、イーノックの腿を撫でる。イーノックは自身が張り詰めるのを感じた。そして、それ以上に、イーノックは衝撃を覚えていた。ルシフェルと異なり、大家族で育ったイーノックは、本心では家族という存在に飢えていた。ホームと呼べる居場所が恋しかった。だから、ルシフェルの提案が嬉しくて堪らなかった。
 だが、珍しいことに、ルシフェルは黙りこむイーノックの態度を見誤ったらしい。珍しく自信がない様子で、瞼を伏せた。
 「もしかしたら、きみは嫌かもしれないが…。」
 「大丈夫だ、問題ない!」
 そう言って強く抱き締めれば、ルシフェルの腹へ不都合なものが当たった。イーノックは焦った。いかんせん、あれしきの誘惑で至るには、あまりにも固すぎる。しかし、ルシフェルはいきり立つイーノック自身に手を添わせ、柔らかく微笑むと、イーノックを押し倒した。イーノックは、大いに焦った。たまに、ルシフェルは面白がって、散々にイーノックを弄る。そのときの羞恥といい、理性が焼き切れ、本能のままにルシフェルを貪り尽くしてからの後悔といい、筆舌に尽くし難いものがあった。ベッドにもつれ込み、揉みくちゃになっている最中は熱中していて解らないが、恋人のきめ細かい白肌に、己の手の痕やキスマークというには乱暴すぎる痣を見つけたときなど、後ろめたいあまり、しばらくルシフェルの顔が見られないほどだ。
 最初、膝で軽くさすられた。走る快感に体を強張らせている間に、湯浴み直後で水気を含んだ下着を手際良く下ろされ、イーノック自身が晒された。勢い良くこぼれ出たそれに、ルシフェルはひどく嬉しそうな様子で綻ばせた顔を近づけた。ちらりと赤い舌が覗いた。
 「…今夜は、きみに尽くしたい気分なんだ。」
 ルシフェルの長い睫毛が震え、艶やかな唇からはあえかな溜め息が零れた。雪のように白い指が、イーノック自身へと絡められる。温かい口内に招かれたときには、もう、イーノックの頭にはもたらされる快楽を追うことしか考えがなかった。


 目が覚めたのは、偶然だった。
 温もりを求めて伸ばした先に何も見つけられず、イーノックは寝ぼけ眼を瞬かせた。隣にいるはずのルシフェルの姿が見えない。眠気と心地よい疲労とで、用を足しに行っているのだろう、と気軽に考えていたイーノックも、時間が経ち、頭がはっきりするにつれ、次第に不安になって来た。ルシフェルが、まだ、帰ってこない。
 イーノックに縋りつき、抱き枕代りにして眠るのが、ルシフェルの常である。真夜中に不在になることなど、滅多にない。その滅多にない事例を思い返すに、嫌な予感しかしない。
 イーノックは起き上がった。再び眠りに就くような気分でもなかった。
 案の定、ルシフェルは出先で突拍子もないことをしてきたらしい。
 「…何だ、起きてしまったのか。きみは明け方までぐっすり眠るものだと思っていたのに。」
 そう言って、ルシフェルは抱き抱えていた毛布の塊を、イーノックの腰掛けるベッドへ横たわらせた。はらりと銀色がこぼれる。イーノックは顔をしかめ、痛み始めた頭を押さえた。今度は何を仕出かしたのかと思えば、誘拐らしい。
 毛布の中には、年の頃13ほどの愛らしい少女がいた。闇夜に慣れないのか、焦点の合わない大きな目を、ルシフェルの方へ彷徨わせている。
 「彼はイーノック。」
 ルシフェルが囁きながら、安堵させるように、怯えるいたいけな少女の頬へ手の甲を滑らせた。
 「大丈夫、私などよりよっぽど良い人間さ。きみが気を張る必要はない。だから、この手を放してくれないか。私はもうちょっと、彼らとおしゃべりしてこようと思うんだ。」
 「…駄目よ、殺されてしまうわ。」
 強く恐れを滲ませ忠告する少女に、ルシフェルは頬を緩めた。シャツに絡められた少女の指を解きながら、くすりと笑う。
 「それはぞっとしないな。」
 少女が怪訝そうな面持ちで、眉をひそめた。どうやら、ルシフェルの傲慢とも取れる自信がどこからわいてくるものか、判断がつきかねるらしい。イーノックも、かつてのルシフェルを知らなければ、この余裕をどう受け止めれば良いものか、迷ったことだろう。だが、イーノックはルシフェルの実力のほどを知っている。だから、ルシフェルがブーツの具合を、その中に仕込まれているナイフを確かめたときも、嘆息するだけに留めた。ルシフェルはこうと決めたら、梃子でも動かない。イーノックは、それを知っている。
 「ちょっと行って来るよ。」
 「どこに?」
 イーノックの不満を感じ取ったのだろう。ルシフェルはもう一度、「きみは明け方までぐっすり眠るものだと思っていたのに。」と肩を竦めると、いまだベッドに散らばる羽毛を摘みあげた。ふっ、と息を吹きかけられ、舞い上がる羽が視界を遮った。
 「大丈夫、朝までには戻るから。」
 気付くと、ルシフェルがマントを勢い良く掴み、羽織る時間すら惜しむように窓を越えるところだった。ここは、三階だ。しかし、ルシフェルは意に介す様子など見せず、さっそうと向こう側へ飛び降りた。ばさばさとマントが風を打ち、音を立てた。だが、それすら微かなものだ。ルシフェルは、本気になったとき、驚くほど色々なものを殺してみせる。暑さも、音も、気配も、感情も。
 他者さえも。
 イーノックは再び溜め息をこぼすと、ベッドへ視線を落とした。そこには、身じろぎ一つせず、息を殺して萎縮している少女の姿があった。イーノックは思いあぐねた末、最初にすべき質問へと移った。
 「私はイーノック。きみの名は?」


 少女はナンナと名乗った。
 最初こそ手負いの獣のように警戒を見せていたナンナだったが、やがて、イーノックの気さくな態度に気を緩めたらしい。ぽつりぽつり、自らの置かれた状況を説明し始めた。それによれば、ナンナには砂の精ネフィリムと精神を同調させて、彼らを操る能力があるらしい。この国には百年に一度、このような子供が生まれるのだという。
 ナンナはこの能力を持つために、盲目の身ではあっても不便に思ったことは一度もなかった。ネフィリムの目を借りるからだ。四歳になる前に神官へ引き取られ、今日まで生かされてきた。明後日、一三になる日に、神へ贄として捧げられるためだけに。
 「みんな、私と同じ力を持つ子は一三で神に捧げられたわ。国中のみんなが、私の死を望んでいる。だから、これは運命で変えられないものだと諦めていたの。でも、ルシフェルが、一生籠の鳥で終わるつもりかって。」
 死にたくない。ナンナは初めて、本心を吐露した。死にたいはずがないじゃない。そう言うと、ルシフェルはふわりと笑った。だったら、どうしてこんなところに閉じこもっているんだ、私と一緒においで。
 「何が本当に自分のためになるかなんて、そのときになってみないと、わからないものね。」
 宗教学の一環で他国の語学も学ばされたため、こうしてイーノックと会話をすることも出来る。嬉しそうにはにかんだナンナは、今、浅い眠りについている。
 ルシフェルが帰るのは、宵のうちとはいえ、まだ先のことだろう。イーノックは、ルシフェルとの出会いに思いを巡らせていた。


 出会いは、十一年前の秋。
 イーノックは学者の家に生まれた。決して広くはないが狭くもない領地は、農作物や家畜で満たされ、税を納めてなお暮らしに困らないだけの収入があった。目に出来なくなって十三年になるが、イーノックは今でも覚えている。母や姉の編む暖色のタペストリーや、林檎とともに醸造させる自家製のエール。家の近くには小川があり、一番年の近い弟と鱒を釣るのに夢中になったものだ。
 だが、内乱が起こり、全てが変わった。嫡男ではなかったために徴兵され、内乱で戦功を上げてしまい、武官として仕えざるをえなくなったのだ。同じく徴兵され、左足を失った弟のためにも、イーノックは仕官を決めた。だが、元々根が真面目で、政略に長けているわけではない。複雑を極める人間関係に疲弊し、膿み始めていた頃、イーノックを邪魔に思った大臣一派が射し向けた暗殺者が、ルシフェルだった。
 暗殺者として、ルシフェルはあまりに熟練しすぎていた。攻撃が急所を的確に狙ったものでなければ、イーノックはそのとき死んでいたことだろう。ルシフェルの武器が、小振りのナイフだったことも、イーノックにとっては幸いだった。鋼の厚い鎧を纏っていたので、大事に至らずに済んだ。怪我を恐れずに、ルシフェルへ突き進むことが出来た。
 もつれるようにして、二人で地面へ倒れ込んだ。石造りの床に背を打ちつけて、ルシフェルが息を詰まらせた。屈辱と怒りに、まるで紅い目は燃えるようだった。
 いつの間に、自分の中でそんな思いが膨れ上がっていたのか、解らない。気付けば、自分を殺しに来た相手に、生まれて初めてのキスをしていた。自分でも驚いた。慌てて飛び退き、平に謝ると、相手が怪訝な面持ちでイーノックを見詰めていた。どうするべきか、判断がつかなかったらしい。その唇にもう一度だけキスをしたいと思ったときには、すでに暗殺者は踵を返し、四階の窓から中庭へと飛び降りていた。
 その一週間後、大臣一派が葬り去られた。犯人の目星が立たず、一時、宮廷は騒然となった。イーノックには、何となくだが、誰の仕業か見当がついていた。殺されても良い。もう一度会いたいと願った。だが、季節は巡り、ルシフェルが再び姿を見せることはなく、イーノックは噂を頼りに宮廷を出た。隣国には、美貌の暗殺者がいるらしい。彼は、悪魔の名を取り、ルシファーと呼称されているのだという。ルシフェルに再会できるか、駄目元での旅だった。
 そのころには、イーノックの援助の甲斐あり、弟も実家の近くで牧師として暮らしていた。良い仲の娘もいるらしく、もはや、心配には及ばなかった。


 再会は、十年前の夏。
 悪徳の街ソドムでのことだった。そこは、湿地帯に造られた街で、あちこちに沼が広がっていた。厚い雲に覆われた空からは、滅多に陽光が射さず、黴に侵されていた。さしたる資源もなく、商業都市として栄えざるをえなかったその街の通りには、ギルドや酒場、売春宿が立ち並び、背を丸めて足早に歩く高慢な人々で埋め尽くされていた。一歩路地裏へ足を踏み入れば、表の華やかさとは打って変わって、薬に侵された者や孤児、物乞いで溢れていた。
 イーノックは、どうあがいても、その街が好きになれそうになかった。袖引く娼婦や金をせびる物乞いたちに困惑し、本当にここに意中の人はいるのだろうかと不安に駆られながら、手持無沙汰に歩いていると、空から声が降って来た。
 「きみは、何かをお探しのようだな。」
 また、娼婦だろうかという懸念はなかった。当然だ。イーノックが、ルシフェルを他の者と間違えるはずがない。その声は、淀み腐りきった水に一条射した光のように、イーノックの世界を浄化する力を持っていた。
 「あなたを探していたんだ。」
 目を輝かせて頭上を仰ぐイーノックに、ルシフェルは頬杖を吐き、呆れたように笑いかけた。まるで誘いをかける娼婦のように、婀娜っぽい笑みだった。
 「ふぅん。それで?」
 「こんなことを言うと、あなたは戸惑うかもしれない。だが、あなたが好きだ。」
 一瞬、間が空いた。イーノックは焦った。もしかすると、話の切り出し方を間違えたかもしれない。だが、牧歌的な家で生まれ育ち、口数も決して多いとは言えないイーノックには、直接愛の言葉を捧げる以外に手段が思いつかなかった。
 ルシフェルは複雑な感情を湛えた眼で、イーノックを一瞥した。躊躇うそぶりを見せてから、唇が声を紡いだ。
 「…おいで、イーノック。」
 想い人に名を覚えてもらっていた、ただそれだけのことで、イーノックの心は喜びに満たされた。本当に嬉しかった。指示された裏口を開け、薄暗い階段を上った。入ってすぐに、戦士としての嗅覚で違和感を覚えたが、そういうこともあるだろうと気にしなかった。ただ、どういうつもりでルシフェルが招き入れたのか、それはさしものイーノックも気になった。
 戦場で嗅ぎ慣れた死臭がした。小さな武器で仕留めたのだろう。確実に急所を刺し貫かれた遺体からは、ほんの僅かしか血が流れていなかった。死体は驚くほど、沢山あった。その上、真新しかった。どうやらここは暗殺ギルドらしい、と気付いたのは、階上へ向かうためにいくつか部屋を通り抜けてからのことだった。
 ルシフェルは、イーノックが途中で怖気づいて引き返すものと思っていたらしい。自分で誘いをかけておきながら、どういうわけか、驚いた様子で僅かに目を見張った。
 「…きみの前では、失態を演じてばかりいるな。」
 自嘲の笑みをこぼし、ルシフェルがベッドへ腰かけた。大きく割り開かれたシャツから見える滑らかな肌に、薄く赤が走っている。反撃を受けたのだろう。
 「私は人殺しで、きみのような清い生き方はしてない。幻滅しただろう。わかったなら、もう、帰ってくれ。」
 これ以上、私が惹かれる前に。
 吐息交じりに囁くと、ルシフェルは眩暈を覚えたかのように瞼へ手をあてた。
 「きみに出逢うまで、私の人生はもっとシンプルなものだった。殺すか、殺した末に死ぬか。きみを愛するなんていう選択肢はなかった。わかるだろう?」
 「私もあなたを知るまで、こんなに人を恋しく思えるなど知らなかった。それでは、説明にならないか?」
 皮肉そうに、ルシフェルが口端を歪めた。
 「私はこの国が、この街が、このギルドが、この仕事が嫌いだ。だが、私は殺すことしか知らない。だから、私をこんな風にした彼らを殺した。」
 ルシフェルが屹然と顔を上げ、イーノックを真っ向から見詰めた。
 「きみをちゃんと愛せるかどうかなんて、わからないよ。」
 絶望に塗り潰され、微かな哀しみさえ湛える強い眼差しとは裏腹に、膝の上で握り締められた拳はか弱く震えている。イーノックはそれを手に取り、両手で包みこんだ。
 「大丈夫だ、問題ない。」
 「私を捨てたら、きみも地獄行きだ。」
 その言い草がおかしくて、イーノックは笑った。これほど望んだ者を、わざわざ捨てるはずがない。イーノックはルシフェルにキスをした。今回は初めてのときと異なり、衝動からではなく、深い思慕ゆえに。
 「どうせ死ぬんだったら、天国が良い。」
 呆気にとられたように目を大きくしているルシフェルへ、イーノックは締まりのない笑みを浮かべた。本当に好きで堪らなかった。理由を問われても解らない。説明など出来ない。だが、どうしてもルシフェルが欲しかった。優しくしたかった。恋しく、それ以上に、愛したかった。
 「…そう、だな。そっちの方が、断然良い。」
 束の間、意表を突かれた様子で瞬きを繰り返していたルシフェルは、やがて声を立てて笑いながら、イーノックの首へ空いている手を回し、後ろへ倒れ込んだ。
 「私が連れて行ってあげるよ、イーノック。」
 イーノックの眼下では、ルシフェルが面白がるように口端を緩めて、イーノックの出方を窺っている。その白い胸元を真紅の血が伝った。扇情的だった。
 イーノックは夢中になって、ルシフェルへキスをした。初めてだから勝手が解らず歯をぶつけたが、それは、ルシフェルも同じだったらしい。二人で笑いながらぎこちないキスを繰り返して、はしゃいで、身を繋げた。ルシファーと呼ぶとむずかって首を振るので、イーノックの母国で祝福を意味するエルをつけて、ルシフェルと呼んだ。新しい彼の生が喜びに満ち溢れることを願って、額にキスをした。
 周囲には死体が転がっていたが、まるで気にならなかった。そのときのイーノックには、ルシフェルしか目に入らなかったから。
 今にして思えば、若さゆえの過ちではあると思う。


 「ちょっと、おしゃべりを楽しんできただけさ。」
 帰って来たルシフェルは、イーノックの責める視線に肩をすくめてみせた。ルシフェルが何か悪事を誤魔化そうとしていることは明白だ。
 「ここは砂地だから平気かと思ったが、室内だと案外、足跡が残るものだね。私の愛用しているブーツは、この国では珍しいからなあ。」
 このルシフェルの一言で、出国が決まった。わざわざ面倒に巻き込まれる必要はない。
 ナンナはメイクを落とし、長い髪も切った。白いシャツと膝丈のズボンを纏った姿は、少年のようだ。一体どこからその衣服を持って来たのか、もはやイーノックにはルシフェルを詮索するつもりもなかった。どこからか、盗んで来たのだろう。
 ナンナとは反対に、ルシフェルは手早く化粧を施すと、どこかからかドレスを引っ張り出して来た。市中での一件があってから、あまり人前に姿を見せなかったのは、こうしてあわただしく出国するのが解っていたかららしい。憲兵を送り込まれてごたごたするよりは、ルシフェルが外出を控える方が、展開も楽で良い。
 真っ白な日傘を差し、クリーム色のドレスをまとったルシフェルは、美しかった。帽子に押し込めているため、髪の短さなど周囲には解らない。イーノックは感嘆のため息をついた。ルシフェルとは出逢って十年来の仲になるが、いまだに、イーノックは恋人の美しさに感動してしまう。
 恋人の反応にルシフェルは気を良くしたらしい。イーノックの腕へ己のそれを絡めると、楽しそうに囁いた。
 「イーノック、今度は北へ行こう。雪が見てみたいんだ。知ってるか?雪は、ナンナの髪みたいに白銀で綺麗らしいぞ。」
 「雪なら知っている。ナンナの髪というより、あなたの肌だ。白く美しくて…、…。」
 そこで、ルシフェルの肌を雪のように白く美しいと眩暈を覚えた瞬間を思い出し、イーノックは顔をしかめた。
 「………、…何でもない。」
 ルシフェルが他人に興味を持ってくれたことは喜ばしいことだ。ナンナも、新しい家族の一員として素晴らしい少女だと思う。だが、他の未来を想像していただけに、イーノックは落胆を抑えきれなかった。ルシフェルにそういう目で見てもらえないことが、男として、残念でならなかった。
 急に機嫌を損ねた様子で憮然と返すイーノックに、ルシフェルは、いぶかしむように長い睫毛を瞬かせた。様々な考えがその目を過ぎり、最終的に合点がいったらしい。ルシフェルは困惑して眉尻を下げた。
 「…気を悪くしたなら、謝るよ。まさかきみが、私との間に子供を欲しいなんて思わなかったんだ。」
 イーノックの顔に熱が集まって来た。こういう話題は、図星を指されると恥ずかしいものだ。
 「もう、その話は良い。」
 だが、ルシフェルが話を聞く気配はない。それとも、わざと聴いていない振りをしているのだろうか。ルシフェルはナンナへ一瞥投げかけ、こちらの会話を聞いていないことを確認すると、そっとイーノックへ身を寄り添わせた。
 「次の周期は、半月後、だ。丁度、北の国へ着くころだよ。私にも孕めるか解らないが、きみが欲しいなら、やってみる価値はあるんじゃないかな。」
 眼下のルシフェルの唇は、微かに笑みを湛えている。イーノックはキスしてやりたいと思った。そんなことをすれば、ルシフェルはますますつけあがるだろう。それがわかるからこそ、イーノックはジレンマに陥った。もっとも、その熱すぎる視線だけで、ルシフェルには十分だったようだ。
 「芯まで冷えるようなところで、きみの温もりだけ感じていたいな。」
 そう言って、ルシフェルは花のような笑みを浮かべ、今回も自分の要求をイーノックへ呑ませるのだった。











初掲載 2011年1月16日