鴉の濡れ羽のような髪、花崗岩のような白い肌。噂に聞く絶世の美貌を盲いた目に映すことが叶わずとも、どこか他人事でいながら柔らかく響く声は麗しく、手の届く範囲へ近寄れば、ふわりと甘い林檎の香りがした。
まだ幼く、人間の娘の名で呼ばれた頃。彼女は天使のことが大好きだった。父兄のように慕う英雄に対するものとも違う、甘酸っぱく淡く脆い恋情。知らぬ母に抱く思慕と、天上に住まう神への憧憬を掻き集めて、一つの型にはめ込んだ初恋は、少女の心を優しい気持ちで満たした。
良くも悪くも子供だった少女は好奇心旺盛で、知識に飢えていた。いつでも想い人の後を付いて回ろうとし、神出鬼没でそれが難しいことを悟ってからは、天使が常に見守っているという英雄と共に居ることにした。
英雄は口数が少なく、顔を強張らせていることが多い男だった。人々の口に義人として上る人物なので決して怖くはなかったが、子供の目から見ても、「英雄」という過酷な運命を背負わされて、永き生に倦み疲れているような印象があった。
それでも、英雄が旅を続けるのは、それだけ人類を想ってのことなのだろう。
天使と英雄のやり取りから聞きかじった知識を頼りに、少女はそう思っていた。
冥界での試練を終え、永遠にも思えた十年を過ごし、自らも「英雄」として開眼するまで。
細い頸に手をかける。剣を握るようになり節くれ立った指へ力を込めると、天使は憐れむような笑みを浮かべてその白い腕を伸ばした。
「そんなことでは、私は死なないよ。所詮、これは疑似エーテル組織体だ。私を殺したいなら、アストラル組織を破壊しなければ。」
「でも、貴方のお腹の子を殺すには十分だわ。」
「ふっへへ、そう思うか?本当に?」
「…ええっ。」
背を優しく撫で擦られ、殺意が鈍る。それでも、彼女は歯を食いしばり、親指を咽喉仏へ押し付けた。
人間との間に孕んだ子を産むため、疑似エーテル組織体を構築させた天使には、人間同様酸素が必要なはずだ。彼女は、現在の自分ではないいつかの自分から得た知識を頼りに、天使の首を締めあげた。
手の中で骨の折れる音がした。しかし、天使は未だ全てを許しながら見下すような、相反する、高位者としての美しく麗しいばかりの微笑を湛えている。
哀れみを浮かべた紅い眼に射抜かれて、彼女は声を詰まらせた。
「どうして、どうして彼なの?!…十年間、彼を待ち続ける貴方と一緒にいたのは、私よ!彼じゃないっ。」
涙が頬を伝い、天使の滑らかな頬へ伝い落ちる。
十年、彼女は天使と共に居た。
穢れを祓うためアストラル体を天へ召された英雄の抜け殻を前に、天使に寄り添って、十年を過ごした。
幼かった少女はやがて成熟した女へと姿を変え、今では、「英雄」として崇められるまでになった。天使を踏み躙った英雄と同じ高みへ上り、天使と神のため、堕天使を狩る者となった。
それも全て、天使を守りたいがためだ。
果てしない闇の中で無理矢理犯された天使の悲鳴を、彼女は今なお覚えている。穢れ堕ちた英雄に圧し掛かられ、乱暴に揺すり上げられる天使の無力感に溢れた悲痛な制止。うわ言のように繰り返される英雄の劣情の告白と、泣きじゃくる天使の断続的な嬌声。
頼る者もなく、すがるネフィリムも居らず、盲目ゆえ状況が理解出来ない少女は、ただ怯えて震えるしかなかった。
そのとき、痛切に天使を守りたいと思った。英雄からも、堕天使からも、神からも。
何者からも。
だから、剣を練習した。無垢だった手を血に染め、真紅の轍を築き、英雄と呼ばれるに至った。
「お前に私とあいつの何がわかる。数世紀に及ぶ長い時間を、たかが、十年で忘れろというのか?」
雨のように涙が零れ落ちていく。これまでの生を否定する行為を憂いた彼女は、力の抜けた指先を天使の咽喉から離した。
「守りたかっただけなの、天使さま。私、私…。」
眼下で微笑む天使が、背へ回していた腕で彼女の頭を引き寄せる。
「そう泣くな。折角だ、お前も喜んでくれないか?」
押し当てた頬の下、薄く柔い腹越しに蠢く感触がある。彼女は震え強張る唇を弓なりにして、笑みらしきものを形作り、瞼を閉じた。
疑似エーテル組織体が栄養を送り込むため模造された心臓の規則正しい鼓動、温かな表皮。
「でも、絶対、イーノックには渡さない。私が殺すわ。」
「ふっへへ、出来るものならな。あいつは強いぞ?まあ、楽しみにしているよ。」
初掲載 2011年5月4日