久しぶりに降り立った街は賑わいを見せている。色鮮やかな幟、囃し声。恐らく、人間のように嗅覚が備わっていれば、美味しそうな匂いを嗅ぎ取ることも出来ただろう。
活気溢れるバザールに気を取られていたルシフェルは、手を引かれた瞬間、ようやく今回の目的を思い出した。今日は、功労としてイーノックにサプライズな贈物を、そして、ルシフェルの手を心細そうに握り締めている少女ナンナに服を買いに来たのだ。
頼りなく耳をそばだてて周囲の様子を窺っているナンナは、タワーの中で出会ったときと同じ衣装をまとっている。色褪せた紗のターバンに、サイズの大きすぎるシャツ。桃色のサルエルパンツから伸びる褐色の足は、靴を履くこともなく剥き出しのままだ。時折、ルシフェルが未来から持ち込んだサンダルを履くことはあったが、ビニール素材のそれは悪戯に娘を怯えさせただけのようだった。
ルシフェルの提供するもの全てを、無邪気に感心して受け入れるイーノックとは違う。自由の民出身のナンナには、未来の人類の叡智に怯える余地があった。同時に、天を信奉する人間らしく、ルシフェルの提供するものを拒みきれない迷いがあった。
そんな少女の迷いに付け込んだことは、決して、褒められるべきではないだろう。だが、未来から持ち込んだ果物やケア用品、そしてついに先日顕れた二次性徴は、少女に驚くべき恩恵を与えていた。日の光を浴びて艶めく銀髪、僅かに目尻の下がった大きな眼、色の薄いふっくらした唇、仄かな色気を湛える肢体。栄養失調と成長期前特有の不格好さで、ごつごつした膝や肘ばかり目立っていた子供の面影は消えつつある。
ルシフェルは少女の未来を知っている。彼女が、何を果たす人間なのかも。人々が進んで信愛するような、ナンナにはもっと然るべき「見かけ」が必要だった。無理に強いるつもりはなかったが、出来れば、改変したいとは思っていた。少なくとも、ルシフェルはこれから先の未来に違わないよう、自らを取り繕っている。
そんなときに、ナンナに二次性徴が訪れた。もう間もなく、この服は用を為さなくなるだろう。子供のそれではなく、女らしい衣服をまとうべきだ。再度、少女の弱みに付け込む形になることは、重々承知だった。だが、熟した機を逃す手はない。ルシフェルにはルシフェルの運命があるように、彼女にもまた辿るべき道筋が定められている。ルシフェルは神の徒として、その成り行きに添う努力を怠るつもりはなかった。
まるで、繋いだ手は無機物のようだった。ナンナは握り返された手に頬を淡く染めながら、どこか、冷たい頭の片隅で思う。火より生まれ出でし天使は、人間と異なり、土塊の肉体を持たない。温もりを感じないのは、そのためだろうか。
それでも、ナンナは彼の声が温かみを帯び、優しさに満ちる瞬間を知っている。天上に生きる高位者としての慈愛ではなく、すぐ傍にある者としての身近な愛情をルシフェルが示すとき、必ず、帰結にはイーノックがいた。それをサポーターだから当然だ、と彼は肩を竦めて笑うが、それだけではないことも、ナンナは察していた。
よく敏感だと言われ、それは盲目ゆえの他の知覚の発達によるものだと判断されるが、実のところ、違う。むしろ、サリエルの死を感じ取った寵愛者たちのそれに近い。女の勘、だ。
ルシフェルは、人間などどうでも良いと公言している。それは事実なのだろう。彼は、己の造り出す英雄以外には、あまりに無関心で無慈悲だ。ルシフェルは、未来の叡智であるサンダルを履かせ、絡まった髪を梳かし、色取り取りの果物を与えるが、それは愛情ゆえではない。穏やかに接するだけで、肝心の関心はまったく示さない。
恐らく、ピンチには救けてくれるだろう。死ねば、悔いてくれるだろう。だが、それだけだ。涙を流すことはないし、哀しむわけでもない。時間を巻き戻し、なかったことして、終わりにするだろう。
ルシフェルが英雄に心奪われていることを承知の上で、ナンナは恋をした。イーノックの名を呼ぶときの柔らかさ、硬質な眼に湛えられる慈愛。あれらがイーノックにしか向けられないことを知りながら、欲した。ナンナが愛したのは、イーノックを愛するルシフェルだった。愚かしいとは自覚がある。虚しいともわかっている。だが、惹かれ始めた心を食い止める術はなかった。どうしようもなかった。
だから人間は愚かしく哀れな存在なのだ。
そう言って、ルシフェルなら嗤うのだろうが。
ネフィリムの不在には、思いの外、精神が堪えていたようだ。そもそもこれほど大勢と接する機会自体が稀なのだから、ナンナが疲労するのも当然ではある。
僅かに顔を白くして座り込んでいる娘に、ルシフェルは一瞥投げかけた。買い与えたジュースや甘味を口に運ぶでもなく、黙り込んでいる。ネフィリムの代わりに、今日は、私はお前をサポートしよう。そう切り出して、人混みに連れ出したルシフェルとしては、己の不甲斐なさを責められているようで居た堪れなかった。
頬杖をついて、喧騒の醒めやらないバザールを見やる。ルシフェルは人間が嫌いではなかった。個人的な嗜好から言えば、むしろ、気に入っていると言っても過言ではない。だが、それは人間が自然を愛でる気持に似て、人間特有の執着めいたものではない。絶対たる神が洪水を起こすと言うのであれば、仕方ないと思う。
しかし最近では、その認識に変調を来たしつつあった。別に、その他大勢の人間が生きようと、死のうと、ルシフェルの関知するところではない。だが、イーノックの幾多の死と努力が水泡と帰すことは、許せそうになかった。
ルシフェルはナンナのもの同様、己の未来も知っている。これが切欠で堕ちるのだろう。そう思えば、空恐ろしくもあり、誇らしくもなる。
後のメタトロンの功績を、堕天使の揺るぎない決断がサポートしていたなど、知っているのは己だけで良い。そう思っていた。己しか知るべきではないとも、承知していた。
だが、イーノックがサリエルを斃したあの日。どういう理由か、敏い娘は勘付いたようだった。大きな眼を恐怖と憐憫に慄かせて、ルシフェルを見詰めた。盲目であるにもかかわらず射るような眼差しに、イーノックの戦闘を見守っていたルシフェルは、娘を振り仰いだ。娘の唇が震えた。
「天使さま、あなたは自分すらイーノックのサポートのために犠牲にするつもりなの?」
ルシフェルは片眉を上げた。ナンナの言う、犠牲という概念が理解出来なかったのだ。ルシフェルに、神の定めた未来に背くつもりはなかった。神に疑念を持つ余地もなかった。天使とはそういうものだ。拠り所たる神を疑うこと、それは、堕天を意味する。盲目に信奉してこそ、神ではないか。自由の民であるナンナも、だからこそ、ルシフェルが差し出す人類の叡智を拒みきれず、用いているのではないか。
人間の娘如きに行動原理を悟られ、自嘲の笑みが口端にのぼったが、ルシフェルは肩を竦めてそのように答えた。
「天使さま、あなたは…、あなたは…。」
言い淀む娘が、面を俯かせた。か細い肩が震えている。この娘は寒いのだろうか。ルシフェルは首を傾げた。知覚の備わっていない仮初の肉体では、寒暖の差など判断できない。
「自分自身すらも関心の対象外なのね。」
可哀そう。そう呟く娘の眼から、ぽろりと涙があふれ出た。なぜ憐れまれるのかわからず眉をひそめれば、首に腕を回され、抱き締められた。首元へ顔を埋め、娘が啜り泣いている。
「イーノックも私も、あなたを愛しているわ。…愛しているの。」
不可解な娘の言動に、ルシフェルは右手を宙へ翳した。煩わしいことは嫌いだった。そういうときは、事実を消去するに限る。だが、それにもかかわらず鳴らす前に思い留まったのは、娘を思い遣っての行為ではない。イーノックがサリエルを撃破したばかりだと思い出したのだ。
あのとき、ナンナは鼻を赤くして笑った。なぜ、笑いかけたのか、ルシフェルには理解出来なかった。
愛しているの。頭の中の少女はそう言って泣きながら、笑いかけてくる。
「なあ、ナンナ。」
ふっと唇を吐いて出た言葉に、ルシフェルは苦笑した。物思いに耽り、何を話すべきか念頭に置かず話しかけるなど愚の骨頂だ。ナンナが長い睫毛を瞬かせて、こちらを見詰めている。細く長い指を絡めて思案する間も、その視線が逸れる気配はない。
しばしの躊躇の末、ルシフェルは口を開いた。
「…疲れただろう。もう帰ろう。」
そう言って、手を引くと、ナンナが嬉しそうに眼を眇めて微笑んだ。
言ってやれれば良かった。
(いけないよ、そんな顔をしては。お前は幸せな、イーノックの花嫁なのだから。偉大なる戦績の褒賞なのだから。涙なんて似つかわしくない。)
ルシフェルはナンナの手を強く握り締めると、戦利品をもう片方の手に引っ掛けて歩き出した。自分は堕ちる。それは確定された未来だ。その先に、ナンナが介在する余地はない。イーノックすらも、遠い。メタトロンの力をもってなお救うことの困難な永久凍土の王となるのが、ルシフェルの運命なのだ。そこに何らかの感情を差し挟む術も、理由も、見当もつかない。全て凍てつかせ、捨て去り、終焉へ邁進するのがルシフェルの与えられた役割だ。
ルシフェルは小さな笑みを湛えて、繋がれた手を一瞥した。
だがどういうわけか、「愛しているの。」、あの言葉の響きが今もルシフェルの心に温かな感情を思い起こさせるのだった。
初掲載 2011年2月19日