Rencontrons en Angleterre.


1423年5月21日。晴れ。

全てを記録するよう命じられたので、この日記を始めようと思う。
ブルゴーニュ公国へ派遣されることになった私は、馬車に揺られながら、公国の辺境に位置する村落へ向かっている。文字が歪んでいるのは、馬車の中で記しているせいだ。
わざわざ記す必要もないと思うが、戦争の発端となったフランドルを抜け、2日ほど行った先が、私の任地だ。羊毛織物で栄えたフランドルと異なり、葡萄の収穫によるワイン製造が盛んに行われている当地の民は、ひどく排他的で、頑迷に異教を妄信しているという。
彼らが今日まで改宗を迫られなかったのは、長きに亘る戦争のせいであると思われる。
私の任務は、彼らが異教徒であるならば改宗させ、正しい神の許へ導くことだ。
しかし、私は強硬手段でもって、彼らを改宗させるつもりはない。血はワインより濃いことで知られる排他的な土地において、流血を許そうものならば、血が血で雪がれる結末になることは火を見るより明らかである。
師は私に全てを救うよう命じられたが、若輩者である私にこの大任が務まるものか、はなはだ不安だ。


1423年6月1日。曇り。

ようやくフランドルへ辿り着いた。
イングランドとフランスの争いの焦点であるフランドルには、張り詰めた空気が漂っている。当然のことながら検問は厳しく、私は教会関係者ということで身分証を提示して免れたが、羊毛織物を取り扱う商人の間では、幾許かの賄賂を握らせる手段が流通しているようだ。身分証を提示した私たちでさえ2時間待たされたのだから、正規の手段で現地入りしようとした商人がどれほどの忍耐力を試させられるものか、想像に難くない。
表面を空滑りするような陽気さと拭いようのない重苦しさを併せ持つ街で、必要最低限の買い物を済ませ、足早に任地へと向かう。
農村部で生まれ育った私には、この街は好きになれそうにない。


1423年6月5日。雨。

この雨で、周りを囲むように流れる川が氾濫したらしく、任地の村は孤立している。
足止めを余儀なくされた私は、任地手前の小さな村の宿に寝泊まりしながら、片手間に、子供らに文字を教えている。
農村部における識字率は低く、大人でさえ、自分の名前すら記すことが困難な時代に、一概に読み書きが尊ばれないことは重々承知だ。中には、農村で農民として生まれ、農民として生きていく我が子に、不要な知識を与えないでくれと怒り出す親もいる。
この村で、私がそのような事態にならなかったのは、偏に、暮らしのための仕事を手伝ったからに他ならない。
あと2日もすれば、川の水は引く見込みだという。


1423年6月9日。晴れ。

結局、川の水が引くのに4日もかかってしまった。想像していたよりも、降雨が続いたせいだ。
この長い雨は、当地の特産であるワイン作りにとって致命的なのではないか、と懸念もあったのだが、宿の主によれば、この程度の雨ならば問題ないという。確かに、結果的に川は氾濫したが、雨は大体において小降りだった。
現地入りした私に、村民たちは胡乱な眼を向けた。身分証を携えていたとはいえ、たった一人で現地入りしたのが悪かったらしい。私が若輩者であったのも、原因の一端だろう。
しかし、戦争で揺れる最中に、教会がこのような辺境に目を向け、手間をかける余裕がないのは事実である。これが戦時でなかったならば、武力制圧されて終わり、という結果もありえた話だ。
私はまず、話が通してあるはずの村長の家へ挨拶に向かった。これから、私が滞在する家でもある。
屋敷は村の一番奥に位置した。周囲を林に、その外縁は氾濫した件の川で囲まれている。思いの外大きな屋敷は、歴史を感じさせる石造りの建物で、城と呼んでも差し支えない荘厳さを湛えている。城壁には丹念に苔を削り取り、蔦を剥がした後があり、この城の使用人の努力が窺える。
呼び輪は、獅子と思しき獣の頭を模した代物だった。
中から出て来た血色の悪い小太りの中年女性は、名をアスと名乗った。この家の女中頭だという。足元には、狩猟に用いるのだろうか、大型犬が纏わりついている。
アスは私の顔を見るなり、何かに酷く驚いた様子で眼を丸くしてみせたが、仮面のような無表情に戻ると億劫そうに要件を尋ねて来た。私が主に会いたいと申し出ると、何故か、彼女は口早に拒絶しようとした。しかし、私が重ねて、もう話は通してあるはずだと続けると、心の底から不承不承といった感じで中へ通してくれた。
主の部屋までの案内を買って出たのは、口数の少ない初老の執事だった。名は分からない。彼は、名乗らなかった。
警戒心で尾を膨らませた犬と、それを宥める女中頭に見送られて、老いた執事の後を追い、赤い絨毯の敷き詰められた廊下を進む。
一体どれほどの財があればこのような生活を続けることが出来るのだろう。
通り抜けた広間に吊り下げられたシャンデリアは幾分古びているとはいえ、十分、王城でも通用する代物だ。ベルベットのカーテンは金糸で彩られ、門外漢である私ですら知っている名画の数々が、無造作に飾られている。
異教徒を改宗させる。
そのために当地へ赴いた私の心に、悪魔信仰がもたらす邪な財なのではないかという疑念が過ぎったが、同時に、フランドルに程近い屋敷の主が、かの公主か誰かの血縁者なのではないかという考えも起こった。しかし、それにしては、あまりに華美すぎる。
そんな私の疑念を晴らしたのは、屋敷の主だという彼の姿だった。
美しいという言葉では、彼の美を表現しえない。だが、無知な私には、彼を美しいと呼び表す他ないようである。まるで天使のような美貌を持つ彼は、コワフを被っていないので、おそらく男性だと思われる。
想像していたよりも私が随分若年だったからだろう。ルーシェと名乗った彼は、私の姿を見て幾分驚いた様子ではあったが、ほっそりした美しい手を差し伸べて、握手を求めて来た。私より少し背が高いようだ。貴族女性のそれのように爪先まで美しい手はひんやりとしており、農具を手にし慣れた私の武骨なそれとは正反対である。初めて、私は神より与えられた己の身体を恥ずかしく思った。
年齢は、確認したわけではないが、今年数えで18になる私より幾らか上のようだ。
スペイン系の血でも引くのか、当地には珍しいブルネットの髪を項で括っている。胴着の釦は、真鍮ではなく本物の銀だろう。貂の毛皮で覆われた漆黒のガルナシュが、彼の肌の白さを際立たせていた。
ルーシェは私の緊張に汗ばんだ手を引き、屋敷内を案内してくれた。
彼の説明によれば、公国の中にありながらフランスの援助を受けるこの村落は、極めて特殊な立場にあるのだという。どういう経緯でフランス側に転じながらも、親イングランド側から攻撃されずに済んでいるのか、政治に疎い私には理解しかねる内容だったので、記せないのが大変心苦しいが、要は、そのためにこの屋敷は豪勢な暮らしを続けられているのだという。
北側には、執務室や書庫や寝室など家主のための部屋が位置し、南側には広間や宿泊室など来客用の部屋が、西側には使用人たちの部屋がある。
最後に、ルーシェに案内されたのは、屋敷の東に位置する大きな部屋だった。
書庫に入り切らない本を詰め込んだ物置と続き部屋になっているそこが、私の寝泊まりする部屋だという。私は身に余る部屋だと辞退したが、ルーシェは聞き入る様子も見せず、笑いながらに、私の申し出を却下した。客でもなく、使用人でもない私には、この部屋しか提供できないのだという。
必要なものがあれば気兼ねせず言うよう命じると、ルーシェは駆け寄って来た大型犬を伴い、出て行った。一度、自慢するように犬が私の方を振り向いた気がするが、気のせいだろう。暫く、私は呆然と立ち尽くしていたが、呆けていても仕方ないと思い、この日記を記している。
震える文字を見れば一目でばれることだろう。今、私は酷く動揺している。ルーシェの美しい顔が頭から離れない。
なるほど、一目惚れという現象は存在するのだ。


1423年7月8日。晴れ。

私がこの土地へやって来てから、明日で1ヶ月が経とうとしている。
村民の大半はカブルーかコワフを被っており、髪を晒しているのは、8歳以上の男だけだ。褐色、赤毛、中には私のような金に近い髪色の者もいる。それらの中で、ルーシェのブルネットは異色を放っている。もっともルーシェの場合、存在自体が、凡百な人々の中では浮いており、まるでそこだけ光で照らされたように見える。
一ヵ月経ったことで、次第に、私も村へ溶け込んできたが、相も変わらず、狩猟犬のアモンは敵愾心に満ちているし、女中頭のアスは困惑した様子でルーシェの顔色を窺っている。屋敷における私は、未だに招かれざる客という立場を変えることが出来ないでいる現状だ。
収穫を2ヶ月後に控えた現在、葡萄の出来は上々だという。ワインの製法には詳しくないが、ルーシェがそう言うのならば、今年の葡萄は出来が良いのだろう。去年の赤ワインを傾けながら説明するルーシェは、いつになく得意そうだ。
9月末にワインの醸造を始め、11月半ばには、豊穣を祝って祭事を行うのだという。豊穣祭といえば、私などは9月か10月を想像してしまうが、この土地の祭りはワインの醸造に合わせて幾分遅くなっている。
「もしかしたら、お前は驚いて、口煩く説教を垂れるかもしれないな。」
ルーシェは笑いながら、ワインを飲み干した。アルコールで上気した頬がやけに色っぽい。
私が狼狽して視線を逸らすと、何もかも見透かしたような眼差しで、ルーシェが微笑みかけてきた。胸がざわついてならない。同性との交わりは禁じられているというのに。
ルーシェと出会えたことは私の至上の喜びだが、この地へ赴任したこと自体を悔やむときもある。


1423年9月27日。曇り。

生憎の曇りとなったが、当初から予定していたように、葡萄の収穫日だ。
今年の葡萄は、ルーシェが予期していた通り、大変良い出来栄えのようだ。誰もかれもが、収穫を祝って笑っている。子供が怖がるので、アモンは留守番だ。
男たちが収穫した葡萄を、大樽の上で、肩を組んだ女子供が笑いながらダンスして、果汁を絞り取っている。普段晒されることのない女たちの素足に、鼻の下を伸ばす男が多く、苦笑していた私だったが、それまで事態を静観していたルーシェが参加を表明した途端、彼らを笑っていられなくなった。
アスが大仰しく反対し、思い留まらせようとしたが、結局は無駄だった。ルーシェがこうと決めたら、それは何者にも覆せない。時折、私はそれが例え神であっても、ルーシェの決意を挫くことが出来ない気がしてならない。
腕捲りをしたルーシェがキュロットを見下ろし、邪魔だと呟くと、例の如く、執事のベルが主の望むものを手に持って現れた。
(余談だが、最近ようやく名の判明したこの老人は、ベルという女性名が恥ずかしいのではないだろうかと疑っている。)
ベルが差し出した、銀の釦を多く縫い付けた漆黒の胴着は、どう見ても女性のものだ。それに、紐締めの真紅のエプロンとシュミーズ。私はベルがどういうつもりでそれらを主へ差し出したのかいぶかしみ、正気を疑ったが、どういうわけか、私の他には誰もその事実を不思議に思わなかったらしい。
それを纏ったルーシェを見て、私の疑問は氷解した。女の恰好をしたルーシェは、彼が男なのか女なのかという無粋な疑問の余地を許さず、その姿は女神の如く美しかった。
思わず胸を熱して立ち尽くす私へ、コワフを被らせようと躍起になっているアスを後目に、ルーシェが悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
2時間もすると飽きたのか、ルーシェは肩で息吐きながら大樽から降りてきて、私の隣で不満そうに唇を尖らせてみせた。私はまるで少年のようにどぎまぎしたが、それを悟らせまいと冷静そうな顔を取り繕いつつ、一体何が不満なのか尋ねてみた。
「すっかり忘れていたが、この赤。中々落ちないんだ。」
促されて視線を落とせば、裾を持ち上げられたスカートから覗くルーシェの足は、葡萄の色素を吸って赤く染まっている。私はその肌の白さと、捲られたスカートという状況にすっかり狼狽してしまって、何と言えば良いのか言葉がさっぱり出て来なかった。
「もう帰りたいな。脚を洗いたいし…お前ももう十分収穫は堪能しただろう。私を家まで送ってくれ。」
先ほどまであれほどはしゃいでいたのが嘘のような、ワイン造りにすっかり興味を失った態度で、ルーシェが両手を差し出した。当然のように抱き上げて帰ることを命じられた私は、勿論逡巡しないではなかったが、汗ばむ掌をズボンで拭ってから、ルーシェの手を取った。
屋敷までの帰り道は、酷く長いようにも感じられたし、同時に、酷く短くも感じられた。
抜かりなく風呂を沸かして待ち受けていたベルへルーシェを引き渡したときは、安堵する一方で残念にも思え、私は足早に自分の部屋へと逃げ込み、こうして日記を記している。
冷静になって思うに、ルーシェは男女、いずれなのだろうか。
両性具有は、魔女の証だという。
少なくとも、私の信仰するカソリックではそう信じられている。
もしかしたら、私はそれを確認し、審判を下さざるを得ない状況に陥るかもしれないのだ。
あの魅力すらも邪悪な力によってもたらされているものかもしれない、と疑うのは大変心苦しいが、その可能性が無きにしも非ずである事実を、私は忘れないようにしなければならない。


1423年11月11日。雨。

明後日13日は、待ちに待った豊穣祭だ。
9月の収穫日以降、女の恰好もするようになったルーシェは、この日は男の姿だったので、私は内心胸を撫で下ろした。
最近、ルーシェは私に思わしげな笑みを向けては、「お前が眦吊り上げて怒る様が、目に浮かぶようだ。」と、悦に入っている。一体、何がそれほどまでに彼を楽しませているのかは、わからない。
アスは何とかして、私をどこかへ遠ざけようと、あれこれ提案してくる。村人たちは一様に落ち着きを失くし、来る豊穣祭に備えているようだ。私が見るに、どうもそわそわしているのは、未婚の村人に限られているようである。
「水を差さないでくれよ。野暮は嫌われるぞ。」
何度もそう言って、ルーシェは楽しそうに笑う。完全に退け者にされている私は些か気分を害しつつも、ルーシェの笑顔に心奪われている。
「そう拗ねるな。」
ルーシェは笑うが、別に、拗ねてはいない。


1423年11月14日。晴れ。

昨日は、待ちに待った豊穣祭だった。
今、私は実に様々なことを反芻しながら、日記を記している。


村の中心部に篝火が焚かれ、精一杯めかしこんだ若者たちが輪になって踊っていた。年配者は今年のワインの出来を論じ合い、子供は供された御馳走に夢中だ。
祭司役のルーシェは、珍しいことに村の中であるにもかかわらずアモンを従え、村人たちへ慈愛の眼差しを向けている。
今日のルーシェは、男とも女ともつかない豪奢な衣服だった。儀礼服だからか、当地の民族衣装とは趣が異なり、どちらかといえばロシアのものに似ている。色も、この日ばかりは彼が好む漆黒ではなく、純白を基調としており、金糸で繊細な刺繍の施された白絹のドレスは、裾が長く、足首まで覆い隠している。黒貂の毛皮を裏地に使った純白のマントにも、金があしらわれ、ルーシェの有する財力を如実に表していた。
言葉を失くし呆ける私へ、ルーシェはいつになく大人びた表情で微笑んだきり、押し黙った。
私も黙り込んでその傍に控えていたのだが、ふと、ある事実に気付くと、とても黙っていられなくなり、ルーシェへ話しかけた。
年若い未婚の村人たちが、手に手を取って、暗がりへと姿を消しているのだ。
「やっぱり、お前は怒ったな。水は差すな、野暮は嫌われるぞ。」
意気込んで説明を求める私に、ルーシェは言って聞かせた。
この地では、豊穣祭に合わせて、翌年までのパートナー選びの儀式も催されているのだというのだ。彼らは1年で互いの相性を確認し、不満がなければ、3度同じ相手と番い、正式に結婚し、生涯を共にする。
「勿論、3年で結ばれる連中もいれば、3年のうちに心変わりする者もいるし、結婚より未婚を楽しむやつもいる。それは、各々の自由さ。お前も眦吊り上げてばかりいないで、参加してきたら良い。」
放埓を許す言葉に、私は空いた口が塞がらず絶句したが、ある事実に気付くと、ルーシェへ問わずにはいられなかった。
「貴方にパートナーはいないのか?」
どういうわけか、ルーシェはおかしそうに笑いながら、肩を竦めてみせた。
「お前は面白いことを思いつくな。ふっへへ、祭祀はいつも見てるだけだよ。今まで、祭りに参加したことはない。」
それから長い睫毛を瞬かせて、赤褐色の目が、私の本心を見透かすように真正面から見据え、紅い唇が物憂げに開かれた。
「お前はそれを望むのか、「イーノック」?」
当地に赴任して半年。ルーシェが私の名を呼んだのは、これが初めてのことだった。素直に頷くことも出来ず、表情を強張らせ、生唾を飲む私に、ルーシェは酷く詰らなさそうな、収穫日を思い出させる一瞥を村人たちへ向けてから、一転して、晴れやかな笑みを浮かべてみせた。
「良いんじゃないかな、お前がそれを望むなら。」
差し出された白い手を、震える手で握る。
篝火に照らされて、そっと重ねられた唇からは、ワインの香気がした。


間もなく、私は、ルーシェが両性具有である事実を知った。
両性具有は魔女の証だというが、処女は魔女になりえないとも言う。
既に手折ってしまった後だが、私は、ルーシェが処女であったことも記しておこうと思う。
ルーシェの寝息を聴きながら、私はこの半年に記した日記を全て読み返してみた。報告のために記し始めたこの日記だが、あまりに私的な上、ルーシェのことばかり書き綴っていて、まったく報告にはならないようだ。提出を命じられたときは、頑として拒もうと思う。
混乱の只中にあって上手く言えないが、断言出来ることが一つだけあるとするならば、私はルーシェを愛している。これまでも愛していたし、これからも愛し続けるのだと思う。
ルーシェが愛しい。
ルーシェが恋しい。
ルーシェと添い遂げたい。
3年後が、早くも待ち遠しくてならない。


1424年1月1日。雷雨。

新年の幕開けは残念なことに季節外れの雷雨となったが、私にはルーシェがいるだけで毎日が晴々しく思える。
主君が一介の宣教師にすぎない私と番った事実に絶句したアスは、今日も些か怨みがましい目つきで、私を睨んでいた。アモンも尾を膨らませて、敵意を剥き出しにしている。出逢った当初から、彼らは私に敵愾心を露わにしていたが、一体どういう理由からなのか、未だに理解出来ず、私は困惑している。
当のルーシェは気にする必要はないと言い、私にしどけなく甘えて来る。そうすると、何もかもどうでも良くなってしまうから、私も現金なものだ。
昼間から愛し合うことも度々ある私たちだが、この日は、雨の中村人たちへの新年の挨拶を終えて、薄暗い部屋で晩餐を済ませてから、ベッドに潜り込み、ランプの明かりだけを頼りに明け方までじっくり愛し合った。
起きた時、腕の中にルーシェがいる喜びにいつも胸が詰まって、「おはよう。」が言葉に出来ず、鼻を摘まれてからかわれてしまう。
折角の新年。今後はそんなことがないように、心してかかりたいものだ。


ああ、今回もやっぱり駄目だったよ。

↑勝手に読んで書き込まないでくれ!


1424年1月2日。雨。

今日から、日記は隠した。ルーシェに見付からないように記したいと思う。
以前からルーシェは、私が隠れて何を毎日書いているのか、気になっていたようだ。私が泡食って日記を隠すと、忍び笑いを漏らしながら、首へ腕を絡めて鼻頭にキスをしてきた。完全にからかわれている。私は面白くなかったが、「私もお前がいてくれると、毎日輝いて見えるよ。」とうっとり眼前で眼を眇められ、胸が苦しくなって、勢い良くベッドへ押し倒してしまった。暫く、ルーシェは息苦しそうに手をばたつかせていたが、諦めたのか、最終的には腕を私の背へ回してきた。
今まで、ルーシェなしでどうやって生きて来れたのか、見当もつかない。ルーシェが愛おしくて堪らない。
気だるい甘さの漂う中、ルーシェを抱きすくめたまま子供の話をすると、「時期尚早だ、馬鹿。」と笑いながらに怒られた。少なくとも、正式に結婚するまで、ルーシェに子供を作るつもりはないようだ。早く3度目の豊穣祭が来ないものだろうか。心から、待ち遠しい。堕胎は罪だから、その前に孕んでしまったら、この土地の因習に添わないとしても結婚を申し込もうと思う。自分の子を非嫡出子にするのは、心苦しい。洗礼もちゃんとしてやりたい。
「お前は私に子供が産めると信じて疑わないんだな。」
呆れた風にそうこぼしながら、私の腕枕に頭を預けるルーシェは、口にこそ出して指摘しないが、自分には子を孕めると強い確信を抱いているように見える。小さなこの村の君主として、生まれ来る子を取り上げる仕事を担う彼には、直感的に生命の神秘が解っているのかもしれない。
幸いなことに、新年ということで日記帳は新しいものに変更していた。
決して職務を疎かにするつもりはないが、心無い言葉で愛しい人を傷つけたくはない。


1424年10月15日。晴れ。

毎年この時期にやって来る行商人から、先月シャンベリーで協定が結ばれたという噂が届けられた。ネーデルラントの一件が原因で、ブルゴーニュは同盟を結んでいたイングランドと距離を置くようになっていたが、この協定でフランスとの間に不可侵条約が結ばれたということは、この国がどちらにも加担しない方針を固めたということだ。
最近は、私が籍を置くフランスが戦時下ということもあって、情報が届きにくい。
日和見と言われる善良公の統治は、その政治的手腕でもっている。昨日の味方が今日も味方とは限らず、フランス側の立場を取るこの特異な村落がどのようになるのか、言葉には出さないが、内心不安に駆られている。事によっては、本国より帰還命令が出されるかもしれない。何よりも、ルーシェと離れるのが辛い。
小さなこの村の統治者であるルーシェは、その情報をどう捉えているのか億尾にも出さず、行商人から豊穣祭に必要な道具一式を新調していた。もしかすると、何も考えていないのかもしれない。私より遥かに聡明な彼のことだから、そんなことはないとは思うのだが、解らない。
最近、ルーシェが何を考えているのか理解出来なくて辛い。理解してやれない自分が何よりも不甲斐ない。
行商人が伴って来た劇団員たちがささやかな公演を開いた。彼らは荷馬車に必要なだけの衣装や道具を詰め、あちこち公演して回っているのだという。
パリの劇に比べれば比べるべくもないが、小さな村落の人々には心躍るイベントとなったようで、子供たちは手を打って喜んでいた。うち幾人かは、大きくなったら劇団員になると意気込み、親に叱責されていた。
ルーシェがどこか物憂げな、詰らなさそうな顔つきだったのが気になる。気晴らしにはならなかったようだ。
もうすぐ、2度目の豊穣祭がやって来る。


1424年11月16日。曇り。

2度目の豊穣祭がやって来た。ルーシェと肌を重ねるようになってから1年になるのかと思うと、感慨深い。
去年と変わらず司祭の役を司るルーシェの手を引き、先月観た劇の貴族役の真似事をして、大仰しくその滑らかな手の甲へ口付けた。
「野次られるから止めろ。」
久しぶりにルーシェの心底楽しそうな笑声を耳にしたような気がする。私は嬉しくなり、彼の細腰を引き寄せるとくるくる回った。アモンが鳴き喚いた。今度こそ周囲から野次が飛び、からかわれたが、ルーシェは酷く可笑しそうに笑い声を立てていた。
笑いすぎて咽喉が渇いたというルーシェのために私がワインを取りに行っている間に、今年3度目の番いを終えて結婚し、幸せの只中にある娘から、ルーシェはお産の約束を取りつけられていた。
彼女は、自分同様、自分の子もルーシェに取り上げてもらいたいのだと言っていたが、私の聴き間違いだろう。ルーシェが彼女を取り上げたのでは、年齢的に、説明がつかない。
ルーシェは娘へ二言三言返すと、私の腕へ自分の腕を絡め、「早くベッドへ行こう。」と悪戯っぽく微笑んだ。
「ふっへへ。中てられて、私も子供が欲しくなってきたみたいだ。」
勿論、私に否やはない。私はルーシェを横抱きにして、村人の歓声を背に、屋敷へと戻った。
二人で寝転がっても十分余る天蓋付きベッドに、ルーシェが膝立ちになり、促されるまま儀礼服を脱がせていく。沢山ある釦を外そうと焦り、かえってもたつく私とは対照的に、ルーシェの白魚の指は洗練された動きで私のシャツを剥いていく。
ルーシェは、白絹のドレスの下に何も纏っていなかった。
その日、私たちは夜を徹して愛し合った。


1425年3月2日。雨。

命じられるまま多くの薪をくべた室内は暑く、沸騰させた薬缶が耳障りな音を立てている。
私が若き父親を宥めている間に、今回もルーシェは完璧に仕事を全うしたようだ。赤く汚れた手を布で拭きながら、妻子共に無事であることを伝えた。子供は五体満足で、父親似の赤毛に母親譲りのはしばみ色の目だという。若き父親は、誇らしさにはちきれんばかりになっていた。
洗礼を上げるのは、私の役目だ。
最近では、まだ見ぬ我が子の洗礼名ばかり検討していて、ルーシェに呆れられている。その前に名を決めろというのがルーシェの文句で、成程、尤もだと思う。
今年で、私たちの豊穣祭も3回目を迎える。ルーシェと正式な夫婦になる日も近い。
イングランドの攻勢の前に、フランスは劣勢らしい。ブルゴーニュが静観を決め込んでいることもあり、未だ帰還命令は出ていないが、いつ命令が下されるとも解らない。
ルーシェをパリへ連れていけたらと思う。
農村育ちの私はあまり好きではないが、パリの洗練された空気はルーシェにこそ似つかわしいのではないか。




1425年7月9日。

実に、1ヵ月ぶりの日記になる。
何から書けば良いのか、考えがまとまらない。
彼が消えた。
何をすれば良いのか、何をすべきなのか、私には解らない。




1425年11月13日。

半年ぶりの日記だ。
3度目の豊穣祭を迎え、久しぶりに筆を取ってみようと思った。
彼は姿を消したが、私は今もこの屋敷に居る。
村人たちは一様に彼の行方を楽観視している。最後に彼が書き残した「心配はいらない。戻って来る。」という言葉を信じているのだ。
私も一縷の望みを託して、この地に留まっている。彼は私に待たなくて良いと記したが、これだけ待ったのだ、もう少し夢を見続けたところで大差ないだろう。
彼が消えたときは、大混乱だった。老いた執事は黙して語らず、女中頭は半狂乱で髪を掻き毟り、犬は落ち着かぬげに歩き回りながら遠吠えを繰り返した。
彼らは三日と待たず、彼の後を追って姿を消してしまった。
私も、彼の後を追うべきだったのだろうか。








1428年7月8日。

ドムレミーの農家の娘が、御使いの声を聴く聖女を名乗り、オルレアンの包囲を解くよう願い出たという噂は瞬く間に広がりをみせた。彼女はジャンヌという、未だ17に満たぬ娘らしい。
3年前から聖ミカエルや聖女カトリーヌの声を聴くようになった彼女は、声に導かれるまま、ヴォークルールの守備兵長に面会したというのだが、真偽のほどは定かではない。しかし、彼女がどういう理由でか、要請を拒まれこそしたものの守備兵長へ面会を取りつけたばかりでなく、偶然にも、王太子と親交を深めたことは事実である。
民衆には、その幸運は聖ミカエルによってもたらされたものだと信じられつつある。
彼の行方は未だに解らない。
私もそろそろこの地を立つべきか、判断がつかない。








1431年3月22日。

やはり、ジャンヌが聴いた声は聖ミカエルのものではなかった。では、誰のものだったのだろうか。異端審問裁判では、その声は森の精霊のものだと決定されたようだが、私にはそうは思えない。彼が己の家庭として築き上げたこの村が、親フランスである事実が、私にある種の確信を抱かせる。
もしかすると、ドムレミーの地を訪れば何か得られるのではないかと希望的観測を持つ一方で、今更訪れたところで何も得られるものなどないのではないかという諦念も覚えている。
彼が私の許を離れてから、もうすぐ6年になる。




1431年6月18日。

5月30日、ジャンヌは火刑に処されたという。
手掛かりは失われてしまった。




1431年11月15日。

 9度目の豊穣祭になる。
 戦時にもかかわらず、ワインの出来は良かったようだ。
 徴兵されることもなく、閉鎖された村落での平和を享受する人々に背を向け、私は一人屋敷に籠っていた。書き綴りたいことは沢山あった。今は義務からではなく、欲求から日記を記している。彼の居ない日々は色彩に欠け、特に記すべき事柄もないが、永い生におけるささやかな気晴らしにはなる。
 村人に乞われ、彼がしていた仕事を請け負う機会も増えてきた。今は収穫した葡萄から取れたワインをどれほどの値で卸し、来る冬に備えるべきか、どれほどの食料を村に蓄えるべきか、書記官の真似事もしている。
 ここ数年で、視力は悪くなったようだ。ランプの明かりだけを頼りに、物を綴って夜を過ごすことが多いせいだろう。
 アンクルがずれるのを直し、再び計算へ向き直ろうとした私の背へ、あの呆れた風な声がかけられたのは、そのときだった。
 「こんな日まで仕事か、少しくらいはめを外したらどうだ?」
 驚きに目を見張り、後ろを振り返ると、彼が物憂げに立っていた。時間の流れを感じさせず、変わらず美しい彼の顔は、慈愛に満ちている。
 私は何と声をかけるべきか解らなかった。これほど待たせたことを謝罪すれば良いのか、気付いてやれなかった己の酷薄さを詰れば良いのか、何故何も言わずに去ったのかと激昂すれば良いのか。
 結局、私はいずれも選択しなかった。ただ黙って、彼を引き寄せ、抱き締めた。
 「ふへっ、子供の名前は決まったのか?」
 椅子に座ったままの私へ腹部を預け、彼が笑い交じりに囁く。そこには、私に対する責めを一切感じられず、私はいっそう胸が痛くなった。
 「メトシェラだろう。」
 「何だ、会ったのか?」
 ずるした子供を咎めるような口調で問うてから、彼は己の胸元へ顔を押し当てたまま、面を上げる気配のない私の髪を優しく梳いた。
 「自分を責めるな。またどうせ忘れて、思い出しては鬱に浸るんだから。呪うなら神を呪え。」


 人間を軽んじた罪で堕天したルシフェルが、人間と同じ不毛の地を歩まされる罰を科されたのは、気が遠くなるほど昔のことだ。ただびとから神の代理人たる大天使へ昇格した私が、神の意に背き、ルシフェルに追従したのは、私が彼を貶しめた事実を知ったためだ。
 メタトロンとなった私が己のエゴから過去の彼へ手を出し、その胎へ種を蒔いたことこそが、彼の堕天の原因だった。
 ルシフェルを孕ませ、天へ繋ぎ止めれば、彼が地上へ向かうことはないと思っていたのに。
 私は最善を尽くしたつもりだったのに。


 「そうそう、アダモ、だったか?お前の真似をして、泥人形でもこしらえようかと思っているんだ。あの娘に瓜二つの泥人形をね。利用した私が言うのもなんだが、異端者として葬られるんじゃあまりに哀れだ。」
 ルシフェルは軽い調子でそう言って、ぐずる私をあやした。柔らかな冷たい唇が首筋をなぞり、頬を伝う涙を拭った。
 「そう気に病むなよ。私はお前と愛し合えてこれ以上ないくらい幸せなんだ。」
 差し出された肢体を焦燥のままに掻き抱き、貪った。どれだけ抱いても、心の虚が埋まらない。あと何度、こんな人生を繰り返せば良いのだろう。
 解らない。
 解らない。
 解らない。
 寝物語に、ルシフェルが語って聞かせる。
 「そうそう、お前、作家の才能があるんじゃないか?次は作家にでもなったら良い。私は、そうだな、栗毛でお前の隣に立っていてもおかしくないような、普通の娘にでもなろうかな。でも、普通の娘じゃお前は気付かないかもしれない。オッドアイ辺りに調節して…今度は口煩い奴らは傍に控えないでおくよ。次の舞台は――、」


Rencontrons en Angleterre.
(イングランドで会いましょう。)











初掲載 2011年2月22日