365年に及ぶ旅が終り、長い反抗期を経て、新たな神メタトロンとなったイーノックと二人きりでゆっくり過ごす時間が増えるようになってから、私は日々新しい発見に驚いていた。
アストラル体となった今では、その必要性がないにもかかわらず、寝食を重要視すること。
実はロマンチストで、ふとした瞬間に、こちらの耳が首まで赤くなるような賛美をもらすこと。
どこか一部分、腕でも足でも背と腹でも、私と身体を触れ合わせていなければ気が済まないこと。
意外と亭主関白で、いつもはどんな奔放な我儘でも受け入れるわりに、一線は越えさせないこと。
それでも、やっぱり、私至上主義であること。
それから――この点に私は非常に辟易しているわけだが――釣りが好きなこと。
元々、山村部の狩猟民族であったイーノックは、山に生息する獣を狩る技術に長けていた。神に寵愛されただけのことあって、身心ともに常人より余程長けているし、動体視力も優れている。当時は、先端を尖らせた槍で魚を突く手法が主流であったから、イーノックも川をたゆたう陰影で判断し、そういった方法で川魚を狩っていたようだ。
当然、狩猟は生きるための手段であったから、趣味などにはなりえようはずがない。
しかし、寝食を必ずしも必要としないメタトロンとなり、生活が落ち着き、余裕が生まれたことで、イーノックは予てから気にかかっていた釣りという行為にいそいそ取り掛かり始めた。
私はさっぱり覚えていないが、どうも、あの旅の最中に「そんな原始的な狩猟方法じゃなくて、釣りでもしたら良いんじゃないかな。」と、漏らしてしまったらしい。
失言である。
私も最初こそ、神に殉じることと私を愛すること以外、まるで気にかけなかったイーノックが初めて興味を抱いた行為、ということで手放しに喜んでいた。
だが、地上の視察旅行とは名ばかりの夫婦水入らずの旅先で、水場を見つけるたびにそわそわされると、あまりに度を超えているように思えるのが実情だ。最近では、心から辟易している。
別に、趣味を持つなと言いたいわけではない。
無趣味なイーノックが趣味を得たことに関しては、飽き性で多趣味な私も大賛成なのだ。
では、何が大いに不満なのかと言えば…。
この日も、私はイーノックと地上へ降りて来ていた。
「…なあ、イーノック。まだ粘るのか?」
私は膝を抱え、背をイーノックの背へもたれかけた状態で、背後を振り仰いだ。
イーノックが眼下の海に固執し始めてから、もう、2時間が経っている。携帯を弄って時間を潰すとしても、そろそろ、限度がある。
暇を持て余して声をかけても、イーノックから気もそぞろな応答しかないとあれば、尚更である。
「ああ。」
海を見据え、こちらを見ようともしないイーノックの反応に、私は嘆息した。釣りのときは、いつもこれだ。私は不満で仕方ない。
これ以上話しかければ、気が散るからと窘められることも、今までの経験からわかりきっていることだ。
魚なんて、私が指を鳴らせば、いくらだって釣ることができるというのに、ましてや神たるメタトロンが命じれば、世界中の魚がその身許へ馳せ参じるだろうというのに、どうしてこんなまだるっこしい作業に興じなければいけないのだろう。理解に苦しむ。
更に1時間を経て、元々辛抱強いとは言いかねる私の我慢もあっさり限界に到達した。
だが、これで一人だけ先に帰れるようならば、そもそも私はここまで付いてきたりしない。神であるイーノックが傍にあることを望む限り、天使でしかない私は、その意向に沿わないわけにはいかないのだ。
それに、長かった反抗期のせいで、どうもイーノックの信頼に欠けているようである。
不貞腐れた私は頬を膨らませ、イーノックの腰へ腕を回した。
「なあ、まだやるのか?」
「ああ。」
「…私は、退屈なんだが。」
頬を押し付けた広い背が、少しだけ、おかしそうに笑い声を湛えて震えた。だが、視線はいまだ海から離そうともしない。
本格的に腹立たしくなった私は、するりとイーノックから身を離すと、小さく、聞き咎められない程度に指を鳴らした。
途端、天使らしく無性だった私の肉体は、平坦な胸は柔らかな曲線を帯び、引き締まった腹部はくびれを持ち、誰もがむしゃぶりつきたくような美女のものへと変貌を遂げた。
ついでに、服も邪魔なだけなので、取り払った。
私はイーノックの首へ腕を絡め、その耳元へ、寝所であればすぐさま赤らんで勢い込むような熱い吐息を吹き込んだ。そのまましなだれかかり、というよりは、あからさまに乳房をその背中へ押し付け、私はイーノックの反応を待った。
……反応なし。
せめてこちらを見ろ、とイーノックの頬を張ってやりたくなった私だった。
もういっそ、下半身だけ魚にして、「うっふん、釣られちゃったわ☆」と、やれば良いのだろうか。…駄目だ。魚が散ると苦言を呈されて終わるに違いない。
私の不埒な視線が、イーノックの股間へと向かった。
もういっそ、あれに跨ってしまうとか、どうだろう。そうすれば、さしものイーノックとて、平常心ではいられないだろう。しかし、手を伸ばした瞬間、気が散るからと手を払われそうで非常に不安ではある。
私はあれでもないこれでもないと頭を悩ませた挙句に、後で考えてみれば明らかに常軌を逸している判断を下し、愉快になって指を鳴らした。
イーノックが異常に気付いたのは、とうとう耐え切れず、私が甲高い声を漏らした瞬間だった。
大概、鈍い。
とはいえ、極力身体が揺れるのを抑えての行為だったので、背中合わせという状況下でも、イーノックは今の今まで気付かなかったのだろう。くちゅくちゅと水音はしていたはずだが、釣りに夢中なあまり聴こえなかったようだ。
さて今の声は何であろう、といぶかしんで後ろを振り仰いだイーノックは、欲情に潤ませた目を眇めて、シリコン製の肉棒を身内に咥え込んでいる私の様子に呆気にとられたようだった。
背中合わせという体勢で相手にばれないように自慰に耽るというのは、中々に興奮して、気持ち良い。
しかし、相手にばれた瞬間が、一番どきっとして、気持ち良かった。
甘ったるい嬌声を漏らしてイッた私は、ぶるぶると身を震わせて、イーノックにキスを強請った。あまりに驚いて判断力が追いつかないのか、呆然とするイーノックは私に応えてくれなかったが、まあ、良い。
ひとしきり舌先を吸って満足した私は、にっこりと場違いな笑みを浮かべて、濡れた指先で釣竿を指し示した。
「すまない、続けてくれ。私は…一人で楽しんでいるから。」
「ル、ルシフェル…?あなたは、そ、それは…。」
初めてディルドーというものを目にしたイーノックが、顔を青褪めさせて戦慄いた。イーノックの時代には、過剰にサイズを強調させた男根が豊穣の証として尊ばれたが、考えるまでもなく、こういう意味で用いる代物ではない。
仕方ない、説明してやろう。
私は男根を模したそれを身内から引き抜いた。ずるりと抜き出す感覚に、ぴくんと足が跳ねてしまう。
イーノックが食い入るように見詰めていることを意識した上で、私はまだ上気したままの頬へ白く濁った体液で汚れたそれを、うっとりと、わざとらしいほど愛おしそうに擦りつけた。
「これはディルドー。男性器を模した大人の玩具だ。イーノック、お前だって一人で、ルアー釣りで楽しんでいるんだ。私が同じように疑似餌で遊んだところで、構わないだろう?だって、お前が構ってくれないのが悪いんだから。」
ふへへ、とまるで白痴のような笑声をあげて、一人遊びを再開しようとする私の手を、イーノックが引き留めた。些か強張り引き攣った顔には、鬼気迫るものがある。
「ん…?何だ、イーノック。」
「あ、あなたはそんなもので満足なのか?」
どうやら、男としての矜持が傷付いたようだ。内心、私は鼻を鳴らした。
「いや?でも、肝心のお前が構ってくれないんだ。これで我慢するしかないだろう。」
「ルシフェル、私は…!」
イーノックの顔が近付く。どうやら危機的状況に、釣りのことなど頭から吹き飛んだらしい。だが、このままキスされて抱かれて、問題を有耶無耶にしてしまうのは癪だ。
にべもなく、私は言った。
「触らないでくれないか、魚臭くなる。」
ぺしと叩き落した手を抱え込んで、項垂れたイーノックはまるで犬だ。
おかしくなった私は笑い声を上げてから、再び一人遊びに耽り始めた。
ぱちんと指を鳴らして魚臭さを取り除いたイーノックが、自慰に熱中して注意が疎かになっている私に襲いかかるのは、そう間もないことだった。
初掲載 2011年10月16日