300年の放浪の旅で、私は様々な土地を訪れた。西に赴くこともあれば、東へ足を向けることもあった。
今回は、私が経験した中でも特に記憶に残っている国を紹介しようと思う。
褐色の肌に、緩やかなウェーブをまとう黒髪。視力に優れ、手足が長く、驚くほど素早く動き、身体能力に長けた民族グンミアン。腰布一枚を帯びた男や、布切れ同然のドレスをまとった女達が闊歩する国、グンマ。銃刀法や覚醒剤とも無縁のまま、伸び伸びと繁栄を続ける辺境。
祭事のためとはいえ、人食いという野蛮な風習が残っていることもあり、危険なあの国に好き好んで足を向けようという者は少ない。下手をすれば、自分が生贄として捧げられてしまうかもしれないのだ。一時期、あの国の未開の地を利用して、サファリパークを建設しようという試みも設けられたそうだが、動物たちが狩られてしまったことで、計画は頓挫した。だから今でもあの国は変わらずあの場所にあるし、周辺諸国から完全に隔離された状態で孤立している。
気が向けば、私は今もルシフェルを伴って、あの国を訪れる。広大な時間の流れを感じさせず、一切変化しない国を、私は心から愛している。
ルシフェルがこの地へ向かうよう提案してみせたのは、私の不老の秘密を暴かんとする王に追われ、命からがら国を抜け出したときのことだった。
「堕天使もまさか、あそこには、いないと思うが。」
任務に忠実で回り道を嫌うルシフェルの言葉に、私はどれだけ己が疲弊しているのかを知った。天界で起こる出来事の他には、何ものにも、関心を示さないルシフェルが、見かねて言及するくらいだ。私はよほどひどい顔つきをしていたのだろう。
「本当は、あそこにはあまり行きたくないんだ。神の威光も届かない場所で、私も、堕天使のように物質化してしまうしね。だけど、少しでもお前の気が紛れるなら良いんじゃないかな。」
言葉を濁しながらも続けるルシフェルの提案に、私は当然のごとく頷いた。勿論、ルシフェルの気遣いは嬉しかった。だが、それ以上に、この長らくの旅の伴に触れられる機会を逃したくなかったのだ。
私は独りであることに疲れて、寂しくて、堪らなかった。傍らには常にルシフェルがいてくれたが、アストラル体である彼に触れることは不可能だったし、彼を見ることが出来るのは私だけだった。私は周囲から、奇妙な者を見るような目を向けられることに辟易していたのだ。ルシフェルが周囲にも判別できる状態になれば、そのような孤立もない。
強張っていた顔を綻ばせて喜ぶ私に、ルシフェルは肩を竦めてみせた。
「まあ、短期間だったら、寄り道をしたところで、神も咎めたりはしないと思うよ。」
入国する前、ルシフェルから私へなされた注意点は、以下の二つだった。
一つ、神の加護がない土地なので、他の土地と違い、死ねば後がないこと。
一つ、おかしな真似をしないこと。
おかしな真似、とは、随分信用がないものだ。思わず苦笑をこぼす私に、ルシフェルは空中から取り出したグンマ風の衣服――というより布切れに近いだろうか――を押し付けながら、嘆息した。
「異教の神に贄として捧げられたくはないだろう。」
それは、そうだ。私は重々しく頷きながら、ルシフェルの渡してくれた布切れをまとった。
幸運にもグンミアンは、他国の民と違い、肌や髪の色を気にかけるような人種ではなかったらしい。彼らは、時折興味深そうに私やルシフェルに目を向けたものの、所有する権力を示す多くの装飾品やピアスがないことを見て取ると、関心を失くした。眉を剃り落としていなかったのも、彼らにしてみれば、失点の原因であったらしい。
「グンマ…ここでは貨幣に何の重きも置かれていない。たとえ金貨を与えたところで、彼らは困惑するだけだろう。物々交換が主流だからね。ここの住人は、まるで烏のようにきらきら光るものを好むが、光り物であれば、それが金であろうと硝子であろうと気にかけやしない。」
ルシフェルが言いながら、首都とされる砂漠で開かれたバザールの品々を指さし、説明を加えていく。色鮮やかな布を売る者もいれば、この土地では欠かせない斧や槍を競りに欠ける者、土器を並べる者、春をひさぐ者もいる。開けっ広げに行われるそれに、私は頬を赤らめたが、要は価値観の違いだろう。
グンマには海がないため、山菜というには些か怪しすぎる原色の熱帯植物や、サボテンの果肉、麦を主食としているようだ。川魚も食べるが、どちらかというと、陸のものを好んで狩って食べるらしい。首都近郊には荒涼と広がる砂漠がありながら、広大な熱帯林も併せ持つこの土地は、まさしく、異境だった。
一切の叡智を厭い、原人のような暮らしを営むその国は、智慧に根差す人間の欲望に疲れ切った私の心を癒した。私はルシフェルに導かれるまま、グンミアンのバザールを見て回り、気になったものを、なけなしの所有物と交換していった。私にとっては価値のない硝子玉やリボンが、多くの物と交換できる事実には、実に、驚かされた。それらは他国ではあまりに価値を為さないものであったので、少しだけ、彼らを騙しているようで気が咎めた。
最終的に私は、紅く熟れた南国の果実と碧く香料で塗られた小さな石を手に入れた。
果実は、硝子玉と交換してほどなく私たちの胃袋に収まった。ルシフェルは果実それ自体の味か、あるいは味覚という感覚が気に入ったらしく、三つも平らげ、果汁で濡れた指を舐めた。紅く色付いた唇から覗く舌の動きがやけに扇情的で、目の毒だった。
カワセミと呼ばれる碧い石は、神事の際に用いられることもある価値あるものらしい。その小さな石を指先で摘みあげ、太陽に翳し、矯めつ眇めつ目を細めて観察するルシフェルがあまりにも美しいものだから、つい交換してしまった。ルシフェルが物質に触れられるという事実も、私の胸を打った。私は知らぬ間に、ルシフェルの存在を自分の妄想ではないかと疑っていたのだ。
「こんな石ころで神と交感できるはずもないのにな。」
石を差し出す私に、ルシフェルはグンミアンの純粋を嘲るように笑い声を洩らしながらも、嬉しそうに手を差し出した。私とルシフェルの手が触れようとした。ただそれだけのことに嬉しさのあまり動揺する私に、ルシフェルが呆れた風な笑みを浮かべた。
そのとき、バザールに、絹を裂くような悲鳴が響いた。
私はぎょっとして後方を振り仰いだ。何事かあったらしく、人々が我先にと逃げ出して来る。途中、人を掴まえて聞いてみたが、元々現地の言葉に疎い私には、泡を食う男が何と言っているのか理解できなかった。男は何事か身振り手振りを交えて説明すると、奇声を上げながら逃げ去った。
「おい、イーノック。私たちも行こう。」
ルシフェルが私の腕を引いて、促す。ルシフェルは、神の加護のないこの土地で死のうものなら、後がないと言っていた。ルシフェルにとって、私は神の命令を果たす上で必要不可欠な存在だから、こんなところで死なれてしまっては良い迷惑なのだろう。だが。
触れたルシフェルの体温に感動を覚える間も無く、私は首を振り、走り出していた。私は騒動が好きなわけではないと思う。出来れば、厄介事は避けたい方だ。しかし、人として、困っている者があれば見捨てたくないと思っている。
逃げまどう人々の向こうに、黄金の毛並みが見えた。ぐるぐるという唸り声。あの姿には見覚えがあった。獅子だ。何故、このような土地に異国の猛獣が、と私は驚きに目を見張りながら、バザールで売られている槍を手に取った。投擲用の竹槍ではなく、先端に刃物を括りつけた槍だ。神の加護が届かないこの地では、たとえルシフェルであっても、アーチを現出させることも、ましてや浄化することも出来ない。
私が到達したときには、すでに獅子は幾人かの犠牲者を生み出していた。どういう経緯でこの国へ辿り着き、このバザールへ連れられて来ることになったのかは知らないが、犠牲を出した時点で、獅子の末路は決まっている。
私は槍を構え、獅子に対峙した。血に塗れた口を歪め、歯を見せつけながら、獅子が唸り声を上げる。前足に体重がかかったのを見て取り、私は横に飛び退った。間を置かず襲い来る前足を槍先で払い除け、斬りつける。傷つけられたことで、獅子は怒り狂い、ますます獰猛さを増していった。
振り下ろされた一撃を受け止め、押し返した瞬間、槍がみしりと不吉な音を立てた。どうやら、獅子の体重に耐えきれなかったらしい。得物を選ぶならば、斧の方が良かったようだ。後悔しても、後の祭りだ。私は歯を食いしばり、二撃目に耐えしのんだ。ぱきり。今度こそ本当に嫌な音がした。
真っ赤な牙が眼前に迫っている。
「…イーノック、そこを退け!」
ルシフェルの叱責と同時に、白い物が、獅子に突き刺さった。大きく咆哮を上げのたうつ獅子に、次々にそれは突き刺さっていく。十分な距離を取ってから後ろを仰ぐと、ルシフェルが弓を構え、矢をつがえていた。目には、私に対する大人げない殺意が浮かんでいる。
「お前と来たら、おかしな真似をするなと言っただろう!人の話は聞け!」
放たれた矢が、獅子の咽喉を貫く。痛みに前後不覚に陥った獅子が、前脚を振り回し、屋台や、周囲に散らかるバザールの品を踏み荒らした。無造作に、獅子に仕留められた死体が放り出される。鮮血が舞った。
「この私に、生き物を傷付けさせるなんて…!」
悲鳴じみた嘆きと共にルシフェルが投げて寄越した斧を受け取り、私は駈け出した。吹き上げる血飛沫の中、斧を獅子の首元に打ちつける。石斧は骨の部分で止まり、断ち切る代わりに圧し折ることで、獅子の命を絶った。切れた動脈から、血が雨となって降り注ぐ。予期せぬ交戦の結果、全身は血塗れで、滑り、気持ち悪かった。
「何をしている、逃げるぞ!目立つような真似は寄せと言っただろう!お前は、喰われたいのか!」
ルシフェルの真っ白い手が、何気なしに、私の血で染まった腕を掴んだ。腕を引かれるままに、走り出す。私が、前を行く白い背に目を奪われているとも知らずに、ルシフェルが舌打ちをこぼした。
「この国には、まだ、食人の悪習が残っていると言っただろう!異人の英雄なんて、恰好の的だ!」
どおりで、ルシフェルが不慣れな身体を必死に動かして、奔走するわけだ。
私は納得するなり、ルシフェルの細い肢体を抱き上げて、走り出した。急に引き寄せられたことに驚いたルシフェルが、腕の中で目を白黒させている。その様子があまりにも愛らしくて、私は頬を緩め、腕の中にしかと存在する温かな身体を抱き締めていた。
それから、ルシフェルに命じられ、随分長い距離を走った。陽は落ちかけていた。辿り着いた先は、この国を流れる河川トネガワだった。先程まで砂嵐に辟易させられていたが、この辺りから、急に緑が増えたように思う。この川のせいだろうか。
私は肩で息吐きながら、ルシフェルを解放した。当然のような顔つきで抱擁から抜け出すルシフェルの傲慢さが、少しだけ、憎らしかった。黄砂に汚れた真っ白い足が、橙色に色付く水面に吸い込まれた。
「お前も早く血を落とせ。臭気がひどくて堪らない。」
そう言って、ルシフェルが血で汚れた衣類をかなぐり捨てた。本来であれば肉体を持ち得ないルシフェルにとって、羞恥という感情は無縁だ。白く艶めかしい肢体を晒して、ルシフェルが私へと手を伸べた。
「さあ、早く…イーノック。」
果実を食べたせいで、未だ紅い唇が妖しく誘いをかける。私は誘われるまま手を取り、その身体を掻き抱いた。無遠慮に体重をかけすぎ水面に倒れ込んだ拍子に、ばしゃんと波が立ち、二人してずぶ濡れになった。間抜けだ。濡れた前髪を掻きあげたルシフェルが、恥じらい顔を赤らめる私の頬に指を添え、私の身体の下で笑った。
「お前がそれを選択するんだったら、神も咎めないんじゃないかな。人間の雄は、命の危機に瀕したとき、そういう現象に見舞われるのだろう?」
唇から、紅く色付いた舌先が覗いた。許しを得た私は、祝福と呼ぶには些か乱暴すぎる口付けをした。くらくらした。奪った唇は仄かに甘く、果汁の残り香がした。
私には言えなかった。血の香りが性的興奮を招いたのだとするには、あまりにも、ルシフェルが愛おしすぎた。それに、こんな風になる前から、常々触れたいと思っていたのだ。
「ルシフェル、また地上に降りないか?」
「…お前ときたら、物好きだな。あんな辺境のどこが良いんだか。」
そう言って、ルシフェルは肩を竦めるが、私の提案を、私の抱擁を拒むことはない。私はそれを承知の上で、ルシフェルを地上へと誘う。
私はルシフェルを愛していた。いつからのことか。出逢った瞬間からかもしれないし、地上での300年が育んだのかもしれない。あの日、私がルシフェルを抱いたのは、決して、肉欲に駆られての行為ではない。抱き続けるのも、そうだ。天使に、肉欲などあるものか。
愛しているよ。
その秘密の一言を、メタトロンとして天上に昇った今もなお、私はルシフェルに伝えられないでいる。
初掲載 2011年5月29日