手の内で、纏め上げたルシフェルの手首が跳ねた。頬は痛々しく腫れ、口端には血が滲み、いつもの澄まし顔は苦痛に歪んでいる。はっはっと間断なく為される浅い呼吸が、平坦な胸を上下させ、曝け出された乳首は散々嬲られ、紅く色づいていた。
イーノックはそれを何処か遠い場所の出来事のように感じながら、ルシフェルの首筋に吸いついた。現実味のない状況、処理能力の落ちた思考とは裏腹に、心は昏い喜悦に震えていた。至高とされる大天使を穢すことの歓びを、自分以外の誰が知っているのだろう。
柔く歯を立てると、びくり、と身体の下でルシフェルが震えた。目には、先程与えた苦痛への恐怖がまじまじと浮かんでいる。イーノックは宥めるように、真紅の雫が浮かび上がる噛み傷を舐め取り、掌を這わせた。
すっかり委縮した雄へ指を絡めると、ルシフェルが拒むように頭を振るので、その頬をもう一度張った。決して、暴力を振るいたいわけではない。イーノックとしても、ルシフェルを傷つけたいわけではないのだ。
「ルシフェル、泣かないでくれ。」
肩を震わせるルシフェルの眦へキスを落とし、舌を這わせる。聞きたくない言葉を紡ぎだそうとする唇を奪い、舌を絡めるキスをした。鼻から抜ける音が快感に滲むように、深く、激しく。
蕩けようとせず、いつまでもイーノックを拒むつれない花弁へ何度も腰を打ちつけ、激しく穿ち、人間であった頃は強く戒めていた欲情を吐露する。びくん、と手折れそうな細い腰が跳ねて、人間の汚濁を受け止めた。
アストラル体であるルシフェルに、妊娠の可能性はない。だが、イーノックの狂気が感染する可能性はある。恐怖に逃げを打つルシフェルの腰を押さえつけ、イーノックは禁じられた想いを奥まで長々と注ぎこんだ。
溢れ出た体液を胎へ塗り込めるように、もう一度、最初から。
「イーノッ、クゥ、やっ、やらぁ、」
舌足らずに泣きじゃくるルシフェルを殴りつける。聞き分けのない幼子のような態度に、溜め息が漏れ出た。
「聞き分けのない態度は止めてくれ、ルシフェル。」
何かが階層を駆け去る騒々しい音がする。狂信者たちの織り成す怒号、空間が拉げるような音も聞こえた。何者かが、イーノックの支配する階層へと辿り着こうとしている。
それを、やはり遠い場所での出来事のように感じながら、イーノックはルシフェルの肢体を貪欲にむさぼった。
空間を鎖す封が切断され、耳障りな悲鳴を上げる。暗い闇に、光が差し込んだ。イーノックは痛いほどの光に、目を眇める。そのひょうしに、涙がこぼれた。胸中は、混沌と渦巻く暗い感情で占められている。
思わず、イーノックの口端に笑みが浮かんだ。この手からは多くのものが零れ落ちてしまった。そのことは重々承知だ。だが、諌められたとしても、時を戻されたとしても、再び、イーノックはこの闇へと至る道を選び取るだろう。今のイーノックに、義人と敬われたかつての面影はない。
今のイーノックは知っている。これこそが地獄なのだ。地獄とは、かつて村の長老に語られた夢物語ではない。この隔離された冥界のことでもない。硫黄の匂い、火炙り台、焼き網など必要ない。阿鼻叫喚でもない。地獄は誰にも等しく、すぐ側にあるのだ。
光が空間を切裂き、影が近づいてくる。提げられた純白のアーチ。その光へ救いを求め、手を伸ばそうとするルシフェルに怒りを募らせながら、イーノックは、まるで他人事のような思いで光の来訪に目を眇め、立ち上がった。
ずるりと胎から抜け出る感覚に小さく喘ぐルシフェルを、他の空間に隔離し、闇より現出させた漆黒の鎧を身に纏う。
禁断の想いに震えて堕ちたイーノックは知っている。汝、隣人を愛せ。まったく、愚かしい。
イーノックは乾いた笑声を立てて、光へ斬りかかった。
地獄とは――他人のことだ。
初掲載 2011年5月14日
じゃ、これが地獄なのか。
こうだとは思わなかった…二人ともおぼえているだろう。
硫黄の匂い、火あぶり台、焼き網なんか要るものか。
地獄とは他人のことだ。
サルトル「出口なし」