「さあ、今日はどうしたい?お望みに沿えるよう努力するよ。」
視界から、オレンジを盛った皿が消えた。かちゃんと陶器の鳴る音がして、ティーポットも姿を消した。フェタチーズは何処だ。ぎしりと軋む音がして、視界に黒が入り込んだ。テーブルクロスがしわを生み、程良く痛んだブーツはテーブルの脇で揺れている。パンだけでも死守しなければ、と手を伸ばす先から、攫われていった。
「きみの花嫁を探しに舞踏会へ顔を出すのも良いし、まだ独身を決め込みたいのなら女を買いに行っても良い。どちらも夜の話になるがね。私はあまり気乗りしないがハイドパークに散歩へ、それとも遠乗りに行こうか?ほら、先日落札した馬。あれの乗り心地を試す絶好の機会じゃないかな。シーズンだから、少し遠出して狩猟を決め込んでも良いと思うよ。まあ、今日の今日というのは中々に難しいだろうが、誰もきみの望みを妨げやしないさ。」
そこまで一息に言うと、敵は白魚のような指先でザジキのかかったパンを摘み、実に詰らなさそうに、一口齧った。僅かに眇められた紅い目が、不満を語っている。料理人はフランス人に限ると持論する彼は、私が故国から連れて来た料理人に不満があるのだ。彼に言わせれば、「そんなにオリーブオイルが摂取したければ、オリーブを主食にすれば良いじゃないか。」ということらしい。あまりに極論で、暴言だ。私は彼の郷土料理を馬鹿にしたりしない。だが、そんな対応に慣らされてしまった私は嘆息するに留めた。
「とりあえず、朝食を取らせてくれ。」
これでは腹が減ってしまう。
それに、涼やかな笑い声が応えて、奪い去った皿を手渡して来た。
「お気に召すまま。」
皿の上には御丁寧に、一口だけで飽きられたパンも残されていた。これ以上、うちが抱える料理人に心痛を与えるのは忍びない。私は食べかけのパンを選び取ると、口に放り込んだ。これで証拠隠滅は完璧だ。
実に顰め面らしく口を動かす私がおかしかったのだろう。行儀悪くテーブルの上に腰かけた敵が笑いながら、新聞を広げた。朝食が終わるまで待ってくれるようだ。有難い。テーブルから降りてくれれば、もっと、感謝するのだが。だが、言ったところで詮無きことと、私はテーブルの片隅へ追いやられたオレンジへと手を伸ばした。
その日は結局、友人の薦めで、遠乗りに出かけることになった。場所は私が指定させてもらった。ロンドンから半日ほどの距離にある保養所だ。私が世話になっている子爵家の領地である。泊りがけで良ければ狩猟もできるだろう、と持ちかけると、ルシアンは一も二もなく話に乗って来た。余程、第二案のハイドパークが嫌だったのだろう。我が友人は一般的な貴族が好む場所を厭う傾向にあった。
仮の住まいを出ると、曇天が広がっていた。相変わらずの天気だ。鼻歌交じりに足を進めるルシアンを追いかけて、私は歩き始めた。どうも、ルシアンは機嫌が良いようだ。私はその事実を嬉しく思う。機嫌が悪いとき、ルシアンは決して私の元へ顔を見せようとしない。それはルシアンとの断交を意味した。
横に並び立ちその様子を窺った私は、改めて、ルシアンの美貌に目を奪われた。北欧系の白肌に、スペイン人のような黒髪。国籍の読めない外見。
ルシアンと出逢ったのは、ウエストミンスター寺院だった。世話になっている子爵家の令嬢ナンナと彼女の母を伴い、ロンドン観光に勤しんでいたときのことだ。親切心からとはいえ、私はあちこち連れ回されることに疲れ始めていた。だが、天使のように無邪気な母子を無碍にできる訳もない。
それから、私が「天使」の認識を改めたのは、間もないことだった。
穏やかな声調の悪態が耳に届き、私は身を強張らせ、顔を赤らめた。ラテン語で為されるそれは、女性に聞かせるには忍びないほどの過激な言葉だった。幸いにも、私の他にラテン語がわかる者は、声の持ち主と彼の知人以外にいなかったらしい。だが、周囲が理解出来ないといっても、このように神聖な場所で口にすべき発言ではない。ウエストミンスター寺院といえば、この国において王が戴冠する神聖な場所のはずだ。私は嗜めるつもりで彼らの元へ向かった。
彼を一目見た瞬間、私は言葉を失った。私は彼を地上に遣わされた本物の天使だと思った。それほどまでに、彼は美しかった。とはいえ、常識に照らし合わせれば、私の発言は痛々しいものだった。天使呼ばわりされたルシアンは、驚きに目を瞬かせ、頬を綻ばせた。
そして、私と彼は友人になった。
「エノフ、ちょっと待っていてくれ。用事ができた。」
気儘で優しい友人はそう断ると、黒馬から飛び降りた。街角に花売りの姿を見つけると、ルシアンは使命感を覚えるようだ。彼はいつも、幼い花売りの花を買い占めることに多大興味を払っている。
少女に笑いかけたルシアンの赤褐色の瞳は、僅かな光に煌めいて真紅に映えた。それは私に、エーゲ海に沈む夕日の赤を彷彿させた。
郷愁の念に駆られて、私は嘆息する。この愛すべき友人を霧が立ち込めるこの国から連れ去って、陽光が燦々と降り注ぐ故国へと伴うことができればどれだけ良いだろう。一度ならずした提案は彼によって一蹴されたが、それほどまでに、赤く輝く目は美しい。
実を言うと、私は未だにこのルシアンという男を良く知らない。神出鬼没の彼は、「ルシアン」という界雷での呼び名しか私に教えなかった。住まいも知らされていない。ただ、一方的な訪問が在るだけだ。連絡を取る手段がないので、彼の気が向かなければ、半月放置されるようなことも間々ある。
ルシアンは意に介した様子もないが、幾ら鈍感な私でも、半月も素性を煙に撒かれればおかしいと思う。一体、彼は何を隠したがっているのだろう。まったく連絡がつかなかった時期に、ナンナの入れ知恵で、貴族名鑑も調べてみた。一介市民にしてはあまりに、ルシアンは洗練された物腰や話題を好む。ナンナの講義中、些か発音がおかしい女家庭教師の朗読に失笑を殺していたことからも、ラテン語のみならず、フランス文学にも精通していることは明らかだ。だから、ルシアンが貴族に違いないと見当をつけての行為だったが、生憎、該当がなかった。
「さ、待たせたな。行こう。」
そう言って、いつの間にか手綱を握っていたルシアンが、私へ目配せした。物思いに耽りすぎたようだ。それとも帰ろうか?からかう視線に憮然とした。
「大丈夫だ、問題ない。それより、コテージへ向かおう。」
今引き返せば、ルシアンは逃げ出すに決まっている。行方を眩まされてしまえば、正体すら掴めない私に、彼が捕まえられるとは思えない。私のいつになく険しい態度に幾らかいぶかしんだらしく、隣を行くルシアンが首をひねった。だが、彼は気に留めないことにしたようだ。まるで、きみの奇行には慣れているよ、とでも言いたそうに訳知り顔で片目を瞑ってみせた。奇行が目立つのはむしろ自分の方だとは、爪の先ほども思っていないらしい。
私は声を上げて笑った。これを可愛いと思ってしまうのだから、大概、私も来ている。
子爵家が提供してくれた場所は、文句のつけようもなかった。近くには、釣りのできそうな小川もあった。年に数回利用されるだけの屋敷は、子爵が事前に管理人に話をつけてくれていたこともあって、いかにも温かな雰囲気に満ちていた。
私以上に、ルシアンは興味をそそられたらしい。急に、ルシアンは愛馬へギャロップを指示した。予想しなかった行動についていけない私のことなどお構いなしに、どんどん先へと進んでいく。やがてトロットのまま馬から飛び降りると、ふらつく足で笑いながらくるくるターンした。両手を広げて二三度回ると、気が済んだらしく、今度は優雅にワルツのステップを踏み始めた。
まさかこれほど、喜んでくれるとは思わなかった。そこに他意が潜むだけに、私は罪悪感を禁じ得なかった。
私が追いつく頃には、ブーツが宙を飛んでいた。ルシアンは申し訳程度にキュロットの裾を捲ると、服が濡れることなど気にした様子もなく、川へと突き進んで行った。いかにも、楽しそうな笑い声が響いた。私は放り出されたブーツを回収し、私を道連れにしてやろうと手ぐすね引いて待っているルシアンに肩を竦めてみせた。残念だが、私まで無謀な行動をするつもりはない。今日くらい彼と気兼ねなく過ごそうと思ったので、私の従者が到着するのは明日のことだ。ルシアンは一体、着替えをどうするつもりなのだろう。
ちらりと一瞥投げかけた私は、ルシアンの惨状を目の当たりにして、心を奪われた。同性にこんな感情を抱くことは、間違っているのだろう。正教でも禁じられている。だが、私は目を外せなかった。
水遊びの邪魔になったのか、膝上まで無理矢理捲り上げられたキュロットからは、普段日に晒されることのない白い肌が覗いている。水気を含んで張り付くシャツが、彼の霰もないシルエットを表し、扇情的だった。私の視線の先で、ちろりと赤い舌が唇をなぞった。
それが危険の予兆である舌なめずりだと、気付いたときには遅かった。勢い良く伸ばされた腕にジャケットの端を掴まれた私は、ルシアンもろとも、体全部で小川へとダイブしていた。冷たい。あまりの勢いに、飛んだ帽子まで犠牲にならなかったのを良しとするべきだろうか。頭から水を滴らせた私は、眼下で腹を抱えて笑っているルシアンを睨みつけた。
仕返しとばかりに、私はルシアンを川へ押し倒した。もっとも、すでにずぶ濡れの彼は、面白がることはあっても、迷惑だとは思わなかったようだ。歓声を上げながら、川へ倒れ込んだ。勿論、私を道連れにするのは忘れない。しばらくの間、二人で躍起になったように水をかけあっていた。
「こういう場所へ来ると、昔を思い出すよ。かつて、無二の友人と旅した頃を。」
ジャケットを絞り、水気を切りながら、ルシアンが言った。私は、彼の声にいまだ耳にしたことがないほどの苦渋を感じ取った。その友人とは、彼にとって誰よりも大切なものだったに違いない。私は胸を打たれて、その友人がどうなったのか尋ねた。
「…もう、いない。消えてしまったよ。」
肩を竦めて、ルシアンは笑う。彼に寂しい想いをさせたくない。友情と嫉妬が、予てから募らせていた恋情と立場を入れ替えるのは、一瞬の出来事だった。気付けば、私はルシアンの肩を引き寄せていた。
「あなたが欲しい、ルシアン。」
私は抱き寄せると、ありったけの愛情を込めてキスをした。
「愛しているんだ。」
ルシアンは驚きに目を瞬かせ、それから、肩を震わせて笑い出した。冗談だと固く信じているらしい。いつも彼はそうだ。私が真面目に振る舞うほど、虚仮下ろそうとする。衣服を脱がせれば、少しは危機感を覚えてくれるだろうか。賭けてみる価値はあるかもしれない。奮闘し始めた私に、ルシフェルの小癪な唇が弓なりに持ち上がった。
「馬の次は私の品評会か?さぞかし、良い値で買ってくれるんだろうな。」
ルシアンが笑いながら身を捩らせた。私がシャツを脱がす助けをしたとしか思えない。キュロットからシャツを引っ張り出し、ボタンを外していった。白い肌が露わになるにつれ、私は動揺していった。正教で、同性愛は禁じられている。だが、ルシアンを求める心に嘘をつけそうにない。私はルシアンの全てが欲しかった。形の良い耳を食み、舌を這わせる。ルシアンが身を震わせて、「止めてくれ。」と笑った。声に滲む、懸念。絶え間なくキスの雨を降らせ、熱い昂りを押し付ける。鼻持ちならない笑い声が止み、急に静かになった。
これで友情が終わってしまったらどうしよう。急に不安に駆られ、拘束を解こうとする私の耳元でルシアンがうそぶいた。はっと胸を突かれる、物憂げな表情。
「また、駄目だったな。」
ルシアンの白い指先が、私の唇を撫ぜた。質問を封じ込めるための仕草は、あまりにも慈愛に満ち満ちている。彼は長い睫毛を伏せて、口端を笑みめいた形へと歪めた。今にも泣き出しそうな、その貌。
「…ルシアンじゃない。」
一度伏せられた目が再び開けられる。その眼差しは真っ直ぐに私を射抜いた。甘い視線に腰が疼く。先程の不安など、頭から消し飛んでいた。強く掻き抱く私に、興奮に目を赤く色づかせて、ルシアンはそっと唇を重ねた。吐息の届く距離で、囁く。
「ルシフェルと、呼んでくれ。…イーノック。」
彼の唇からこぼれ落ちた名前は、単に、私の名をイギリス式に発音したものに過ぎない。だが、まるでそれだけではないような、強い感情に駆られて、私は彼に荒々しくキスをした。ルシフェル。自然と唇からこぼれ落ちる彼の告げた名前に、どういうわけか、心が痛んだ。
何度も何度も、愛していると伝えた。伝えるべきだと思った。
例え、自分が忘れてしまっても、彼が、覚えていてくれるように。
例え、それが彼にとって、残酷な仕打ちだとしても。
愛欲に溺れ疲れてまどろむ私の耳に、ルシフェルと誰かの会話が届く。起きなければ。だが、私の身体は泥のように重く、儘ならない。再び、ルシフェルがあの物憂げな声で呟いた。
「え?…ああ、うん。」
彼は迷いを断ち切るように頭を振り、続ける。
「いや、きみの言葉は断らないよ。神は絶対だからね。」
起きなければ。私は強く念じる。起きなければ、また彼は。私は、忘れてしまう。
あなたは信じてくれないかもしれないが、本当に、愛しているんだ。ルシフェル。あなたが何度時を戻そうと、転生させようと、その事実は変わらない。あなたに出逢う度、私は恋に落ち、あなたに堕ち行くだろう。博愛しか知らぬ天使になる道を拒むだろう。それがあなたの願いに反すると知りながらも、私はあなただけを。あなただけを、愛して。忘れたくない。愛している。あなたを、あなただけを愛しているんだ。
だからどうか、なかったことにしないでくれ。
結局今回も、私の願いは神に届かなかった。
彼の指が空に掲げられ、ぱちん、と虚しい音が響いた。
初掲載 2011年2月8日