神は言っている、「道のりは遠い」と。 (発売前)


 深夜、寝室にて。
 イーノックは非常に困っていた。


 先年、イーノックは堕天使を捕縛した誉れで、神に次ぐ大天使へと昇格し、褒美として宇宙一美しい元大天使現堕天使を娶ることとなった。それでなお困っている、と不平を洩らせば、周囲から贅沢な悩みだと非難を浴びそうな幸福な状況にあったのだが、イーノックはたいそう困っていた。なぜならば、愛する元大天使の周囲には、鉄壁の防御網が敷かれていたからである。これではおちおち、夜這いにも行けない。
 そう、イーノックは最愛のルシフェルを娶る行幸を得たものの、まだ、ちゃんと「そういう」間柄になることが出来ていなかった。二度繰り返すことになるが、なぜならば、愛する大天使の周囲には、鉄壁の防御網が敷かれていたからである。
 折角麗しい妻を得たにもかかわらず、夜は、自分でMOUSOUを膨らませて処理しなければならないなど、不幸にも程がある。だが、元々天使であるルシフェルには、肉欲に関する知識が欠落していた。蝶よ花よと育てられた、神最愛の元天使長だ。神は言っている、「全てを仕込め。」と。イーノックには聴こえた、「フリーダムにやれ。」と。ああ、新雪を好き勝手に踏み躙ることの幸いなるかな!固く握り締めた手に汗握り、イーノックは大きくガッツポーズをした。かつてないほど、神へ感謝を捧げた。それは、洪水計画を阻止できたときよりも大仰な感謝の念であった。
 だが、ここで問題があった。ルシフェルの防御が固すぎて、手を出せないのだ。神の褒美も何もあったものではない。というか、据え膳状況にある分、高根の花過ぎて手を出せなかった人間時代の方がマシだ。
 そういうわけで、イーノックは泣き暮れていたわけである。
 昼間、イーノックは執務の傍ら、この問題に対してどのように対処すべきか具体案を練ってみた。一心不乱に羽ペンを動かし、愚にもつかないらくがきで書類を駄目にしていくイーノックは、書類を上げた部下たちにとってさぞかし迷惑だったことだろう。しかし、あまりに鬼気迫る様子なので、口出しできなかったようだ。とは、フラストレーションのたまった天使たちに泣きつかれたラファエルの言である。
 問題その1。具体的には、誰が邪魔なのか。
 ルシフェルには多くの熱狂的親衛隊がいるが、その中でもとりわけ厄介なのは、四大天使と自称弟の堕天使、それに、なぜかナンナだった。
 イーノックには、ラファエルやガブリエルはまだ説得できる自信があった。彼らはブラコンであるミカエルに逆らえず、呆れまじりに、イーノックの邪魔をしている状況なのだ。イーノックが正式に彼らの上席として認められた暁には、きっと、その邪魔もなくなることだろう。ウリエルはといえば、イーノックには何を考えているのか見当もつかなかった。この大天使は単に、イーノックと戦うのが好きなようである。迷惑この上ない。だが、まだ、説得できる余地は残されていた。
 問題は、残る三者である。
 問題その2。具体的に、残る邪魔ものをどうやって片付けるか。
 問題その2の1。大天使ミカエル。
 兄に対して過剰な愛情を捧げるミカエルは、まさしく、ブラザー・コンプレックスだった。何もこれほど愛情深く作らずとも良かったろうに、とイーノックが落胆するほどに、ミカエルはルシフェルを愛していた。憧れていた。
 だが、逆手にとれば、ルシフェルを愛するからこそイーノックに譲歩してくれる可能性がなきにしもあらずではあった。
 ミカエルは、堕天して肉体を持ったルシフェルの偏食傾向をひどく気にしていた。やれ野菜を取れ、やれ甘味ばかり食うな、とその言動は口煩い母のそれである。最近では、若干、ルシフェルに疎ましがられている様子で、ミカエルは邪険にされるたびに落胆していた。
 だから代わりに、イーノックがルシフェルの偏食を治そうと申し出れば良いのだ。証拠として、ルシフェルが野菜を摂取しているところでも写メで送れば良い。ミカエルはイーノックへの態度を変えることだろう。そうであれば良いな、と思う。思いたい。が、思いたいだけで、ならないかもしれない。些か不安だ。
 大丈夫だ、問題ない。ともかく、次の問題へ取りかからねば。
 問題その2の2。堕天使ベリアル。
 この堕天使については、正直、良くわからない。ルシフェルの直近の弟である、などと公言している辺りからしていかにも怪しい。電波じみている。ベリアル曰く、「自分は閣下に次ぐ力の持ち主で、閣下の次に生み出された大天使なので、誰よりも閣下の傍にいる権利を持つのです。当然でしょう。」らしい。何が当然なのか、さっぱりわからない。というか、まったく言及されていないミカエルは、ベリアルの弟ということになるのだろうか。それもわからない。謎だらけだ。
 大体、この堕天使については、恰好からして付いていけない。ルシフェルが女性体を取ったら、こんなふしだらな恰好をするのかもしれないが、そういう恰好のルシフェルも見てみたいものだが、まったくけしからん恰好をするのだ。いやいや、これがルシフェルだったら、けしからんもっとやれというのだが。
 いかんいかん、イーノックは首を振った。
 議題が逸れたようだ。戻すとしよう。
 イーノックは明らかに脱線したメモ(という名の書類)を、丸めて捨てた。気分は、ああでもないこうでもないとネタを練る作家である。
 問題その2の2。堕天使ベリアル。
 ルシフェルとベリアルの接点は何だろう。イーノックはあまり知らないし知りたくもない堕天使について悩みながら、「人類の叡智マニア」と記してみた。書いた途端に、それっぽい気がしてきた。
 「網タイツとピンヒールは人類の叡智です!」
 これはベリアルの格言である。迷言と呼ぶべきだろうか。
 ベリアルは、いわゆる女王様スタイルを取っている。なぜか。そんな理由、イーノックは知らない。知っているのは、ベリアルが「ああ、閣下のおみ足に踏まれたい…!」と身悶える事実だけだ。いや、恰好からしてむしろ踏む側だろう。軍帽被って、鞭持ってるし。そう思っていたら、実際に普段は踏む側のどSだというのだから、困ったものである。
 こうして見ると、何だか、ルシフェルと被って見えて来るから不思議だ。平常はどちらかといえばS気質なルシフェルも、イーノックとそういうことになるとMの気が出て来る…というのが、イーノックのMOUSOUの結論である。正直、実態はわからない。だが、DMBで構わない。どんと来い。
 明らかに議題が脱線しているが、イーノックは気付かないまま、「ルシフェルに踏まれたい。」と結論を書類に記した。
 「要、全裸待機」。
 テンションがウナギのぼりで、二重下線にはなまるまで付けて強調する始末である。この男も、たいがい、手に負えない。
 だが、イーノックは鼻歌まじりで、最後の難関に取りかかることにした。
 問題その2の3。ナンナ。
 ナンナに他意はないのかもしれない、とイーノックは思った。いや、やっぱりあるのかもしれない。イーノックにはわからない。
 出逢った当初、ナンナはイーノックに憧れていたのではないか。それがどうして、気付けば、ルシフェルに鞍替えしている。一緒に寝ている。おかしいではないか。そんな調子で寝られていては、おちおち、夜這いもできない。
 夫の募る肉欲がさっぱり理解できない妻は、「川の字になって寝たら良いじゃないか。」などと提言してくる。
 「…きみがいないと、寂しいんだ。」
 発言は大変愛らしいが、抱きしめてやりたいくらいだったが、あまりにも残酷な仕打ちだった。ナンナの隣でいやんあはんを始めても良いのであれば、イーノックはいっこうに構わない。一緒に寝るとしよう。だが、そうであるはずがない。イーノックは神の助言により、ルシフェルの無知を知っていた。今以上の据え膳を与えようというのか、それはまずもって無理だ。イーノックは激しく首を左右に振って否定した。勘弁してくれ。ルシフェルはきょとんとしていた。まったくもって愛らしい。
 ナンナ、ナンナ、ナンナ。
 考え込むイーノックの手元には、星の数ほどのナンナの名が刻まれ、横線で消されていった。あれも駄目、これも駄目。一体どの手を打てば、ナンナは夫婦の寝室から立ち去ってくれるのだろう。
 そのとき、イーノックの頭に天啓が下った。後に神は言っている、「そんなの、下してない。」と。だが、そのときのイーノックには確かに聴こえたのだった。神は言っている、「夜這いが無理だったら、攫っちゃえば良いじゃん。」と。明らかに神の言動でも、口調ではない。
 試しに、イーノックは声に出して呼んでみた。
 「夜這いが無理だったら、攫っちゃえば良いじゃん。」
 誰を?もちろん、ルシフェルをである。なるほど、すごい、良い気がする。最高だ。俄然、イーノックはヤる気が、もとい、ヤレる気が出てきた。
 がりがりがりがり。再び、イーノックは作家の心境で計画を詳細にわたって著し始めた。とはいえ、脳みそまで筋肉なごりのっくに立てられるプランなど、お粗末な出来だ。だが、頭と体が直結しているイーノックには、無駄に、行動力があった。
 そういうわけで、その晩、イーノックは早速計画を決行してみたわけである。


 そして、今。深夜、寝室にて。
 イーノックは非常に困っていた。
 なぜならば、ルシフェルがナンナと一緒に眠っているはずの布団に、なぜか、ミカエルがいたからである。イーノックが布団を捲るなり、ミカエルは果敢にも攻撃を仕掛けてきた。傘を武器とする兄と異なり、得物はラッパだ。ラッパのくせに、渾身の一撃で壁が抉れている。すさまじい破壊力だ。
 「兄さんの寝込みを襲おうなんて、このミカエルが許さない!」
 許すも許さないも、イーノックとルシフェルは夫婦だ。神の認可だって得ているのだ。夫婦の営みくらい認めてもらいたい。
 初めて実体験することとなるいやんあはんに期待を膨らませ過ぎていたため、イーノックの動きはもどかしい。股間のアーチが邪魔で、素早く動けないのだ。だが、そんなイーノックの生理現象などミカエルは知ったことではない。本気で殴りかかって来る。
 「…ルシフェルはどうしたんだ!」
 「どうもこうも、安全なところに避難させたに決まっている!」
 ぶんっ、とラッパが唸りを上げて耳元を掠めた。イーノックは吹き荒ぶ風に、己の髪が束となって舞い上がるのを目にした。すさまじいラッパ圧(?)で、衝撃波が生じたらしい。一体何だ、このピンチ。
 ミカエルとは犬猿の仲なのでないとは思うが、万が一、これでベリアルが合流してきたら大変まずいことになる。ルシフェルの弟を自称するだけあって、ベリアルは力が強い。ルシフェルの一番良い装備のない、しかも武器じゃない「アーチ」が動きを邪魔して仕方ない今のイーノックには、勝てる気がしなかった。
 イーノックは呻いた。
 「なぜ、私の計画を知っているんだ!」
 これに、ミカエルが血相を変えて返した。
 「声に出して読めば、当然だろう!あんないかがわしい台詞!夜這いも拉致も、私は、認めない!」
 その言葉で、イーノックは全てを悟った。なるほど、道理である。まったく、すこぶる良い作戦だと思ったのだが。とはいえ、未来では、「失敗は成功の母」ともいうらしい。いずれ来る性交、違った、成功を夢見て、イーノックは今の困った状況を処理するため、手近な武器と成りえるもの――枕を手に取るのだった。


 翌朝、めちゃくちゃに破壊された寝室を見て、ルシフェルは言った。
 「親睦を深めるのも良いが、まくら投げなら余所でやれ、余所で。」
 その腕には、いつも通り無感動な様子ながらちゃっかり一番良いポジションをせしめている、ナンナの姿があったという。











初掲載 2011年2月7日