エンドレスリピートアフターミー (発売前)


 話をしよう。
 それはイーノックがまだ若く、背丈が私の胸元に届くか否かという愛らしい子供だったときの話だ。とはいえ、人間のこと。無限のときを生きる私たち天使にとって瞬き一つの時間でも、彼ら有限を生きるものにとっては十分すぎる時間が過ぎていたらしい。
 その朝、珍しくイーノックが起きて来ないので、私が様子を見に向かうと、イーノックが自分の身に起こった異変に顔を青くしていた。
 何せ、あの頃のイーノックは年若い分、今以上に人の話というものを聞かず、世の中のこと、自分の身体のことすらも良く理解出来ていない状況にあった。無論、私たち天使が説明の義務を怠っていたことは否めない。人間にはそういう生理現象があることくらい説明しておくべきだったのだが、生憎、何れ来る洪水計画のためにとイーノックの世話の統括を任されていた私は、時間を行き交う都合上、特定の時の流れというものに無頓着で、注意を払っていなかった。イーノックの背が少し高くなり、体重が増えたとしても、その過去も未来も知る私にとっては、「ああ、そういえばこんな時代の彼もいたなあ。」という感想を抱くに過ぎず、時折感慨を覚えたとしても、それは、彼が神の試練に耐えるべく成長している姿を目にしたときくらいのものだった。
 だから、その朝、イーノックが汚れた寝まきを前に狼狽しているのを見た私は、まざまざその成長を見せつけられ、普段抱くものとは別種の感慨を覚えた。イーノックの成長は全て、彼が何れ為す偉業へと繋がっていくものだ。人間として満ち、精力を具えることも、堕天使との戦いに明け暮れる未来を思えば、必要不可欠なスキルだった。
 しかし、イーノックはそう思わなかったらしい。人間の成長過程について知らされていないのだから、それも当然だろう。あからさまにうろたえ、目には涙すら浮かべていた。
 「ルシフェル…私は、病気なのだろうか?」
 今にもべそを掻きそうな彼の様子に、私は顎を撫でて思案した。それは喜ばしいことだし、ましてや病気ではない。さて、どうしたものか。そういえば、私はイーノックを、意図せずして、箱入りに育てたのだった。
 一瞥した限り、それほど悪い有様ではないように思えた。寝まきはそれほど汚れてしまったわけではないので、洗濯すれば済むだろう。だが、本当の問題は、イーノックの認識にあった。
 生理現象のない天使たちの間で生きる人間の彼にとって、生理現象というものは、どうしても違和感を覚えるらしく、以前から何故人間の身体はこのように不便なのかと頻りに問いかけて来ていた。加えて、膿のような代物が排泄器官から排出されたとなれば、イーノックの混乱や嫌悪は想像に難くない。まったく、神ももう少し彼が人間として出来上がってから召せば良かったものを。しかし、気に入った人間を召し上げるとき、僅かな穢れすら許せずわざわざリセットして幼少期からやり直させた神に何を言ったところで、無駄というものだ。
 私はしばし思案した末、結論を出して、眼下で鼻を赤くしているイーノックに笑いかけた。人間であるイーノックに生理現象を拒むなど、どだい無理な話だ。私としても、堕天使狩りに備えて、彼には体力をつけてもらわなければならない。食事や睡眠、時には持て余した性欲の処理とて、イーノックにはとても重要なことだ。だから、彼には少しでも生理現象に伴う快楽を知ってもらい、嫌悪感を薄れさせなければならない。そう、私は判断した。
 「大丈夫だ、問題ない。きみのソレは病気なんかじゃないさ。」
 私は片膝をついてイーノックに目線を合わせ、抱きしめて、その額に祝福を施してやった。
 具体的な説明こそしなかったが、私に全幅の信頼を置くイーノックはそれだけで十分安堵したらしい。それから、彼は不安を振り払いたいときや無謀にも固く確信しているとき、口癖のように「大丈夫だ、問題ない。」と言ってのけるようになった。真摯に慕われるのは嬉しいことだが、まったく、困ったものじゃないか。


 その日から、私は当代のイーノックを以前以上に気に掛けるようになり、結果、他の時代に足を向ける機会が減少した。少なくとも、この抑えがたい私の好奇心と面倒見が原因で、未来が変わってしまったという衝撃の事実を知らずに日々を送る程度には、当代のイーノックに掛かりきりの状況にあった。私にとって反復に過ぎなかった時間が、大いなる転換期を迎えていたなどと、どうして悟ることが出来ただろうか。
 だが考えてみれば、懲りる気配すら見せず同じ場所で死に続けるイーノックとて、何度も根気よく時を巻き戻し続ければ、死を打破し、遂にはメタトロンへ昇華することが可能なのである。それが少々行き過ぎ、神に成り変ったところで、不思議がることではないのかもしれない。しかし、驚天動地の展開に呆けて立ち尽くした私は、羽の先まで喜びに打ち震わせたイーノックに熱烈なキスでもって祝福させられてしまったが。
 まあ、それはまた別の話だ。
 私はイーノックのため、人間の三大欲求として知られる生理現象の充実を決意した。平和な時代であれば、イーノックは温和な菜食主義者であっても許されただろう。だが、時代は英雄を求めていた。理知的で神に従順な反面、必要に応じて暴力を振るうことの出来る人間を求めていたのだ。
 私はすぐさま、食事や睡眠を厭うているイーノックのため、人間の叡智であるネットの荒波に身を投じ、彼のためになりそうな諸々の智慧を獲得した。人間の智慧は、想像以上に為になった。とりわけ、食餌療法と、必然的に眠りをもたらすことになる性行為の分野では、勉強になった。もっとも、そのとき、天使らしく潔癖で貞淑な私は性行為を濫用するつもりなど毛頭なく、ただ、怖いもの見たさの好奇心から検索していたに過ぎなかった。
 最初、私は、食事や睡眠に関して知り得た情報を部下に伝え、イーノックに実践させていた。しかし、効果を知る上で、部下の目を通してものを見るより実際に自分で観察した方が早いという感想を抱き、それによって、理由は定かではないにしても、私が居ることでイーノックの食欲が増進されるという結果を目にする機会に恵まれた。その食事が、私による土産や手料理であると、尚更、効果を発揮するようだ。ただし、私が居ると、イーノックは常より就寝に気が進まない様子だった。眠りに落ちるまで傍に居てやるから、と約束しても、輾転反側として眠る気配がない。
 私が第三の段階に移ろうと決心したのは、それが原因でもあった。純粋に、イーノックに深く眠りに就いて欲しかったのだ。それには、程良い疲労が一番良い。勿論、他に幾らでも運動はあった。しかし、私の目的はイーノックに人間の生理現象を疎んじるのではなく、受け入れてもらうことにあったので、彼が一番嫌悪を強く示している性行為を取り入れるのが一石二鳥の良案に思えたのだ。


 その晩も、イーノックに眠りが訪れる気配はなかった。そわそわと落ち着き無く、繋いでやった手から伝わる脈拍も常通り忙しなかった。
 こうして一緒に過ごす時が増えたとはいえ、私の仕事が目減りしたわけではない。それどころか、来る洪水計画に向けて、私の仕事量は増加傾向にある。もっとも、天使長である私が、神より命じられし仕事を溜めることはまずない。神の命は、何にもまして重要視されるからだ。それに本当に困ったときは、神さえも持ち得ない時間を操作する能力が与えられているので、時空の狭間で仕事に打ち込むことにしている。我ながら、神に対するこの信愛はいじらしいほどだ。
 私は脳裏でどの仕事から取り掛かるべきか見当をつけながら、イーノックの手に目を落とした。布団から覗く手は、子供にしては大きい。まるで、未来の彼の姿を暗示しているようだ。二ヶ月前から剣の練習に取り組み始めたこともあり、指は節くれ立ち、皮も肉刺が出来て厚くなり始めている。
 私はふいに興味を持って、矯めつ眇めつ、イーノックの手を観察しだした。手を合わせてみる。イーノックの健康的な褐色の肌と私の不健康に白い肌のコントラストは、如何にも見物だった。ほっそりと美しいばかりで実用的でない私の白魚の如き指は、イーノックの人間らしい武骨なそれに比べれば、幾分見劣りして見えた。神によって私はこの世で一番美しい生き物と定められたことを承知しているが、それでもこうして、人間の浅ましいまでの生への適合能力を見せつけられると、神がアダムに示した愛情が何となく解る気がした。永劫不滅の美よりも、一瞬の儚い輝きの方が、目を楽しませる場合もある。
 私は面白くなって自分と彼の手を比べ始めた。子供にしては大きいとはいえ、まだ私に比べれば小さい。だが、指の長さは第一関節分余っているのに対し、横幅は殆んど同じなのが気になった。それに、イーノックの体温の高さときたら、驚くほどだった。子供体温なのだろうか。それとも、私が低温なだけか。人間であるイーノックに合わせて創り上げてもらったこの土塊の肉体も、検討する余地があるかもしれない。
 そこで、私ははたとある事実に気付いた。イーノックの頬が僅かに赤らんでいる。彼の体温の上昇に、私は知らずして貢献していたらしい。
 そのとき、予てから推敲していた計画が頭に兆して、私はちらりと時計へ一瞥くれた。二一時四六分。無論、今私が居る旧約の世界は、グリニッジはおろか、大陸が分け隔てられていない天動説の世界なので、時計も単なる目安に過ぎない。時計も、時間を操作する能力ゆえに日時感覚が欠けている私に、おおよそのところを示唆する程度のものでしかない。
 二二時か、成程。私はこれを良い機会と捉えて、口端に笑みを湛えた。電灯や蝋燭のない時代において、二二時といえば深夜かもしれないが、旧約より未来の人類に感覚の近い私にとっては、まだまだ序の口である。第一、肝心のイーノックに眠る気配がないのだから、これは睡眠妨害に値しない。朝、生理現象を前にして間誤付いているイーノック相手に、性行為を教授することも考慮してはいたが、その内容性から、朝より夜の方が適切な営みと思われた。
 「イーノック、まだ起きているつもりか?」
 そっと囁くと、イーノックは罪悪感を目に浮かべて、不安そうに私を見上げた。責められるとでも思ったのだろうか。いつもは人の話をまったく聞かない癖に、変なところで気を回し過ぎる彼のことだ。私の貴重な時間を浪費しているとでも思ったのかもしれない。事実その通りなのだが、人間の子供に気を遣われるほど私は落ちぶれていないつもりである。私は彼を安堵させるために柔らかい笑みを湛え、ベッドサイドの椅子からベッドへ腰を移すと、イーノックの額に祝福を施してやった。
 「眠れないきみに良く眠る術を教えてあげよう。」
 かつて原初の人間に仕えることを拒んだ私が、こうしてその子孫に性教育を施すことになろうとは、面白い展開じゃないか。私は思わず吹き出しかけた。いけない、これでは警戒されてしまう。
 「人間には三つの逃れられない欲求がある。これは神が原初の人間であるアダムの叛意に機嫌を損ねて与えた罰でもあるけれど、反面、アダムの子孫の繁栄を願って与えた祝福でもある。三つのうち、一つは食欲。これは、人間が生活するエネルギーを得るための欲求だ。アダムが智慧の実を食べた瞬間から、生じた苦労の種でもある。二つ目は、睡眠欲。これは、人間が疲労を溜め込まずに生活し続けるための欲求だ。神ですら、天地創造の折には休息したんだ。きみたち人間が休みなしで働けばどうなるか…、わざわざ説明しなくても解るだろう。」
 挙げ連ねながら、親指人差し指を折り畳んだ私は、イーノックに私の言葉が沁み渡るのを待ってから、最後の中指をゆっくり倒していった。
 「最後は、性欲だ。人間が自らの力で繁殖し繁栄するために神より与えられた、最大の罰にして最大の祝福、それが性欲だよ。」
 私の眼下では、イーノックが困惑した様子で頻りに瞬きを繰り返している。アプローチを間違えただろうか。僅かながら懸念を抱いた私は、誤魔化してしまおうと祝福を施すべく、イーノックの額に手を触れた。
 その瞬間、イーノックがびくりと肩を揺らした。あまりに過剰な反応だった。成程、彼は私を意識しているらしい。やはり、夜の雰囲気というものは良い。朝だったら、こうも上手くは事が進まなかっただろう。気を良くした私は祝福を施すと、そのまま、間近からイーノックの目を覗きこんだ。
 「きみはアレを病気だと思ったみたいだがね。残念ながら、きみが人間であり続けるためには、必要不可欠な事象なんだ。より良く眠るためにも、少しは楽しむ術を覚えた方が良い。」
 鼻先が擦り合いそうな距離に、イーノックは更に緊張を催した様子で固く目を瞑り、身を強張らせた。
 「大丈夫。適度に楽しむ分には、誰もきみを咎めたりしないさ。」
 膝の上で固く毛布を握り締める手が、心許なく震えている。そうか、これが加虐心というものか。私は小さく笑い声を漏らして、彼の指に己のそれを絡め、引き結ばされた唇に触れるだけの他愛ないキスをした。まさか、この私が祝福ではなく、人間の真似事をしてキスをする日が来ようとは。私は可笑しくて堪らなかった。
 「だからきみもやましさを覚えたりしないで、どうやるのか覚えなさい。大丈夫。どうすれば良いのか、私が最初から教えてあげるから。」
 邪魔だった手を排除したお陰で、毛布はあっさりはぎ取ることが出来た。こちらを見詰めるイーノックの眼差しには、混乱と不安と期待が入り混じっている。まるでインプリンティング、あるいはパブロフの犬だ。私が太鼓判を押すだけで、イーノックは盲目な信頼を寄せて来る。あれほど生意気だったアダムの子孫が、これほど私に従順たり得るなど、一体誰に予想出来たことだろう。
 私は下着に手を掛けて、イーノックのものを引っ張り出した。ネットで見た人間たちのものにはモザイクと呼ばれるフィルターが厚くかけられていたので、比較対象がアダムくらいしかおらず判断が非常に難しいが、大きい方、なのではないだろうか。恐らく、私にも付いていれば、もっと判断を下しやすかったのだろう。しかし、神は私に、戦闘への欲望を掻きたてるそれを付け足さず、代わりに、サポート役として混乱の最中にも冷静に接することが出来るよう女のものを加えた。きっと私を地獄に追いやったとき、あまりに血気盛んに喧嘩を吹っ掛けられても困ると思ったのだろう。神が私に望むのは、自らの威光が届かぬ闇を統治してくれる影の支援者であって、神すらも倒せると思い込み傲慢ゆえに堕ちるような不敬の輩ではない。
 「自分で触ってみたことは?」
 「そ、そんなこと、あるはずないっ!」
 何か揶揄を含んでいたわけではない。
 しかし、イーノックは顔を赤くして全力で否定してきた。私は少しだけ気圧された。それは、イーノックが清廉過ぎると解っていなければ、何か裏があるのではないかと勘繰ってしまうレベルだった。やはり、性欲を病気や罪の類だと思っているのか。これでは、自分で触ってみせろと命じたところで、首を左右に振るだけだろう。仕方ない。私は触り方を実地で指導するためイーノックのものに手を伸ばしかけたところで、ある事実に気付き、小さく嘆息した。ベッドに腰を下ろす私が斜め後ろに横たわるイーノックを相手にすると、体勢的に、酷く触り辛かったのだ。
 イーノックは初心者だし、そこまで長期戦になることはないと思う。しかし、今回はいかせることが趣旨なのでなく、イーノックの性行為に対する嫌悪を薄れさせ、眠りに就く方法を教えることが最終目的なのである。こんな腰が痛くなるような中途半端な体勢で良いはずがない。
 私はしばし思案した末、イーノックの腰を掴むと、自分の膝の上に座らせた。うひゃあ、とは、随分可愛らしい悲鳴を挙げてくれるものじゃないか。子供とはいえ筋肉量もあるイーノックの身体は、美しいばかりで非実用的な私には、随分重く感じられた。だが、こうして膝抱き出来るのも、彼が小さいうちだけだ。人間はすぐ育ち切ってしまう。
 私はこれも今だけの楽しみだと我慢することにして、イーノックのものに指で触れてみた。ふにゃりという柔らかい感触を想像していたのだが、芯がある感じがした。それに、驚くほど熱いし、湿り気を帯びている。私は不思議になって、イーノックの肩越しにそれを見下ろしてみた。緩やかに立ち上がっているものからは、僅かながら体液が流れ始めている。どうも、それが私の指を濡らしたようだ。
 流石にちょっと速いんじゃないか。ネットの荒波で霰もないものばかり目にしてきた私は、イーノックの有様に眉をひそめた。しかし、箱入りで育てられ、免疫が皆無のイーノックに、そもそも私の予想を押しつけることが間違っているのだ。あれらの映像に登場してきた人間たちは、皆、玄人だ。
 「こうやって触るんだ。」
 私はそっと唇に笑みを乗せると、イーノックのものを下からなぞりあげ、頂で円を描くように親指の腹を擦りつけた。いや増すぬるつきに、私は砂糖で煮詰めたフルーツを思い出した。明日はそれをイーノックに食べさせてみよう。自分でも手軽に作れそうだが、やはり、専門店で購入してきた方が間違いないだろうか。ともあれ、ネットで調理方法を検索するところから始めてみるとしよう。
 そんなことを思いながら単調に擦っているうちに、イーノックのものは硬度を増していく。本心ではどう思っているのか定かではないが、私に盲目の信頼を捧げるイーノックは、為されるがままだ。それどころか喜んで追従するように、私が一方的に与える快感に身を震わせていた。忙しない呼吸の合間に鼻にかかった喘ぎ声が漏れ出るのを、私は感慨深い思いで耳にしていた。
 時間を渡る私は、イーノックの生涯を知っている。純粋な人間に過ぎなかった前世も、赤子から堕天使討伐までの成長過程も、メタトロンとして昇華し、地獄に任務地を移した私に代わって神の右に坐す姿も。何もかもを知り尽くしているつもりで、今更ながら、こんな色欲に翻弄される彼の姿を終ぞ目にする機会に恵まれなかったことに気付いた。とはいえ、こんな醜態をよりによって私に晒したことを、後々、メタトロンと成ったときにイーノックは深く悔いるだろうが、それすら可笑しくて堪らなかった。端から意図していたわけではないにしても、これは、未来のイーノックに対するとんだ意趣返しだ。
 私が余所事に考えを巡らしている間にも、イーノックは快楽の頂へと昇り詰めていたらしい。手の中で熱が弾け、虚をつかれた私は思わず目を丸くした。書物などで智慧を得るのと、実際に体験してみるのとでは、随分勝手が違うようだ。手を開いてみると思いの外べとついていて、白い体液が糸を引いてシーツの上へ滴り落ちた。眼下では、羞恥と興奮と後ろめたさに耳まで赤くしたイーノックが、荒い息を吐いて、私の汚れた手を見詰めていた。
 「ル、ルシフェル、すまない…あなたを汚してしまったっ。」
 今にも泣きだしそうに目を赤くするイーノックに、私は笑いかけて祝福を施した。ひくつくこめかみ、それから、紅潮した眦や鼻先へ、順番に一つずつ。
 「まあ、涙ほど綺麗ではないかもしれないが、一概に汚いものでもないと思うよ。泣くよりずっと気持ち良いし、実用的だろう?」
 「だ、だが、私は、」
 明らかに狼狽しているイーノックを黙らせるため、最後の祝福は唇に。予想通り黙り込んだイーノックに、私は不思議がる眼差しで意地悪な質問をした。
 「何だ、気持ち良くなかったのか?」
 見る間に、イーノックの顔が赤くなっていく。元々紅潮させていた頬が、罪の果実ほどに赤く色づいた頃、彼は小さな声で恥ずかしげに呟いた。
 「きっ、気持ち、良かった。」
 私は気を良くして、汚れていない方の手で正直者の頭を撫でてやった。
 これで何故、私が一度ならず何度も、イーノックへの教育に身を乗り出したか、説明がつくだろう。予想外に、気分が良かったのだ。何せ、この時代のイーノックは私に従順で、真摯な愛情を注いでくれる。メタトロンとは大違いだった。
 勿論、私はメタトロンのことを嫌っているわけではない。それどころか、言わせてもらえれば、個人的に気に入っている。しかし、メタトロンになったイーノックは、地獄の王たる私につれない態度ばかり取るので、たまにはこんな展開も良いんじゃないかな、と私の心の中の悪魔が囁いたのだった。後で無碍なくされることが判明しているのだから、今の内にその分まで楽しんでも問題ないだろう。
 こうして、私は目的を見失った。
 本来の私の目的は、イーノックに人間の生理現象に対する嫌悪感を薄れさせ、より良く休息を取らせることにあったのだが、あっさり道を逸れたわけだ。


 弁明させてもらうと、神により堕ちることが義務付けられているとはいえ、私もそこまで零落れてはいない。人間の子供相手に、性的な気持ちで接していたわけではないのだ。
 元々、生理現象が欠落している天使に、土塊の肉体を与えたところで、自主的にそのような痴情に走ることはまずないと言って良い。堕天使にしても、大半は、生涯の短い人間だからこそ放つことの出来る一瞬の輝きに目が眩んで、地上へ向かうのだ。今は多くの寵愛者を抱えるサリエルにしても、当初は、人間の愛に惹かれ堕ちたのが切欠だった。
 だから、単なる愛情と少しの悪戯心が、私を脇道へ走らせていたに過ぎなかった。しかし、施す側の心理状態と、施される側のそれとは重ならないものである。
 二年もしないうちに、イーノックはささやかな不満を覗かせるようになった。その頃には、私もイーノックを満足させられるよう、手だけでなく口も用いるようになっていたから、まさか不満が出るなどとは思いもよらない。不本意だった。
 ある晩、あまりに何か言いたそうに口を半開きにしているので、私はいぶかしんで、イーノックに尋ねてみた。イーノックのものは腹につきそうなほど反り返り、私の舌が施す愛撫に夢中になっている。それは、大量の先走りからも容易く見て取ることが出来た。この状況下で不満など、出ようはずもない。
 だが、イーノックは幾らか後ろめたそうに目を落とした後、ようやく、意を決した様子で口を開いた。
 「ルシフェル、前々から思っていたのだが、私だけ気持ち良いのは嫌なんだ。あなたも気持ち良くなれるような、何か別の良い方法はないだろうか?」
 成程、それでこの真面目な人間は、ここ暫く快楽に没頭することも出来ず、頭を悩ませ続けていたらしい。私は可笑しくて、小さく噴き出した。
 「天使である私にそんな気遣いは無用だよ。これは人間に属する欲であって、私たちのものではないからね。」
 そう言って、再びイーノックのものを口に含もうとすると、彼に制された。どうやら、イーノックには不満が残る返答だったようだ。内心、私は面倒臭いと思わないでもなかった。幾ら私が堕ちる運命にあるとはいえ、こんな世の中のことも良く解っていない思春期の只中にある若造を手篭めにしたいと思うほど酔狂でもない。加えて、仮初の肉体しか持たない私には、欲情に対する熱意も欠けている。
 それゆえ、私はイーノックに否定の言葉を投げつけるつもりで唇を開きかけ、はたと、ある事実に気付いて黙り込んだ。考えてみれば、イーノックは思春期の只中にある若造なのだ。しかも、雄である。彼の提案は私を思い遣っているように聞こえるが、もしかすると、その実、ちゃんとした性交がしてみたいだけなのではないか。
 それならば、付き合うのも吝かではない。幸い、私の下半身は女のものを具えているし、どうせ堕ちる身だ、イーノックの懇願を拒む理由がない。
 「人の話を聞かないきみにちゃんと出来るか、不安だが…。」
 「大丈夫だ、問題ない!」
 私は潔くサポートに回るつもりで、期待に目を輝かせているイーノックへ笑いかけた。
 「なら、試してみようじゃないか。」
 既にイーノックは万全の状態にあるので、今度は、私の準備をしなければならない。私はいきり立つイーノックをそのまま放置することに僅かながら憐憫の情を抱いたが、それもこれも全ての元凶は、イーノックの余計な一言である。自業自得だと判断して、愛用するシャツを脱ぎ捨てた。肉塊をまとった今の状態の私には、夜気は酷く冷たく感じられた。早いとこ終わらせてしまおう。そう思い、EDWINのファスナーに手を掛けたところで、イーノックがこちらを凝視していることに気が付いた。あまりに熱っぽく見詰めるので、穴が空いてしまいそうだ。恐らく、他者の身体が物珍しいのだろう。実態を持たず、それゆえ入浴の必要に駆られることもない天使の住む天上において、肌を見せ合う機会はまずないと言って良い。私にしても、肝心の部分が伏せられているネットを除けば、アダムとイーノック以外の肌はあまり見たことがない。
 人間の思春期という時期は、必要以上の好奇心に駆られて大変なときだと良く耳にする。それは、イーノックにしても当て嵌まる事例だったようだ。私はイーノックに微笑みかけると、ゆっくりファスナーを下ろしていった。
 「ルシフェルのものは、私のものと違うのだな。」
 「ああ、きみのそれは男特有のものだ。土の肉体に種を蒔く目的で、そう作られている。それに対して、私のこれは女特有のものでね。ちゃんと種を受けることが出来るよう、こういう形になっているんだ。」
 片膝を立てて良く見えるようにしてやると、イーノックは興奮した様子で私のものを注視した。まさか神が私に変なものを付けるとも思えないが、こうしてまじまじ見られると些か恥ずかしい。妙な気分になりそうだ。名状し難い感覚に襲われた私は、肩を竦めてみせた。
 「中途半端で悪いな。上半身も女だったら、きみを完全に満足させられたんだが。」
 いつもの口癖が返ってくるものと思っていた私の予想に反し、イーノックは酷く驚いた様子で私の顔を覗き込んだ。
 「あなたは本気でそんなことを言っているのか?」
 一体何がそんなにイーノックを困惑させるのか分からず、私は、どちらとも取れる曖昧な頷きを返した。イーノックは、それがまた不可解だったらしい。
 「あなた以上に美しい者を私は知らない。どうして、不満に思うことがあるんだ?」
 そう臆面もなく告げるなり、私の腰を抱き寄せ膝の上に乗せると、あちこちに祝福を施した。性欲に駆られてのことだから、キスと呼ぶ方が似つかわしいかもしれない。熱すぎる彼の体温のせいか、触れられた場所は火がついたように疼いた。私は酷く混乱した。こんな感覚、私は知らない。募る不安から時を撒き戻して逃げそうになる自分を制し、私は必死に余裕を取り繕っていた。大天使にして後の地獄の王である私が、人間の子供如きに翻弄されるわけにはいかない。
 足の付け根に、イーノックの猛るものが押し付けられた。本能的にどうすべきなのか、イーノックは知っているようだった。それが、肉を持たない天使との決定的な違いだろう。身の置き場に困っている私とは、あまりに異なっている。私は慌てて、イーノックに提言した。
 「女には、男のものを受け入れるための準備が必要だ。あまり急いてくれるなよ。痛いのは私なんだ。」
 我ながらしどろもどろだったように思う。しかし、興奮に頭が上手く働かないイーノックは、気付かなかったらしい。助かった。とはいえ、普段から人の話を聞かない彼に、今回だけ雰囲気を読めと言っても無理な話だろう。
 「…痛いのか?」
 イーノックは眉根を寄せ、戸惑いも顕に私の下腹部へ眼差しを向けた。つられて、私も目を向ける。白い柔肌の間に、てらてら濡れた赤黒いものが見えた。中々に、グロテスクだ。私は内心呻いた。どうやってこんなのを受け入れろと言うのだ。あっさりイーノックの懇願に折れた自分の無謀さに顔を青くしても、後悔先に立たずというものだ。私はぎこちなく笑みを浮かべた。
 「慣らさないでやると、そういう場合もあると聞くがね。あと、不慣れでも良くないみたいだ。」
 言葉を濁して、誤魔化すため祝福を施す。
 「イヴの子は、アダムの子と違って色々面倒なんだよ。」
 まさか、彼に言えるはずがない。女は初めてのとき、痛みを味わわねばならないと聞く。そして、私にとっての初回は、今回だった。彼のものを受け入れる痛みに身構えているのだと言えば、イーノックは、止めようと言い始めるかもしれない。だが、私の臆病が原因で彼の探求を断念させるなど、私のプライドが許すはずもない。
 進退窮まるとは、このような状況を指すに違いない。
 さて、どうしたものか。迷走する思考を必死に宥めて、私は、空中から人間の叡智を出現させた。コンドーム。それは人間の叡智の一つである。本来ならば、私のような者が目にする機会すらない代物だが、堕天使捕縛の前にうっかりネフィリムなど出来てみろ、洪水計画を失敗させた咎で、神の寵愛を失ってしまう。それだけは、何としても避けたい。
 「きみはこれを装着してくれ。良いか、これはきみの体液を私の中に侵入させない目的で装着させるものだ。ちゃんと根元まできっちり覆うんだぞ。わかったか?その間に、私も自分の準備をするから。」
 何か言いたい素振りを見せるイーノックを無理矢理追い払うと、私は再び指を鳴らして、未来の叡智を出現させた。ローション。これもまた、人間の叡智の一つである。要は、ちゃんと濡らして粘性摩擦力を上昇させ、静止摩擦力を減らせば良いのだろう。簡単な問題ではないか。
 私は困惑から生じる憤慨に鼻を鳴らして、とろみある液体を掌に垂らした。冷たい。滑るそれを塗り込もうとするのだが、どうも垂れるばかりで巧くいかない。私は内心舌打ちしながら、ローションを消費した。傍らでは、イーノックがコンドーム相手に悪戦苦闘している。そもそも、箱の開け方が解らないようだ。だが、教えたところで、何ら私のためにはならない。貴重な時間をイーノックのために短縮してどうする。私は身勝手な理由で、イーノックを放置した。次はきっと袋で手間取るだろうから、それまで、幾分猶予が残されていることになる。
 五分ほど経ったろうか。シーツはべたつく滲みでてらてら光っていた。だが、私のものはイーノックのものを受け入れられるほど濡らせた感じがしなかった。中身を殆んどシーツの上にこぼしているのだから、それも当然の結果だ。それでも、指を容易く呑み込む程度にはなったので、私は覚悟を決めて、イーノックを振り仰いだ。
 「イーノック、待たせたな。」
 未だ萎える気配を見せない彼の猛々しいものに内心怖じ気づきながら、私はイーノックにベッドへ横たわるよう命じた。
 「良いか?私が良いと言うまで動くんじゃないぞ。」
 そそり立つそれにローションをたっぷり塗し、手を添え、腰を支えてもらいながらゆっくり落としていった。先端がめり込むようにして、入った。痛いのは最初だけだ、そのはずだ。胸中で繰り返し呟きながら、私は更に身を落としていった。
 全ては順調に行くかに思われた。正直きつくてならない点を除けば、そこまで痛いわけでもない。胸を撫で下ろしながら先を急ぐ私の前に、壁が立ちはだかった。一際太い部分が入らず、詰まってしまったのだ。しかし、ここで音を上げる訳にはいかない。正直全部なかったことにしてしまいたいくらいだが、そんなこと出来るはずもない。期待に目を輝かせたイーノックが、肘をついて、こちらの様子を窺っているのだ。私は深呼吸をして腹を括ると、無理矢理、貫通させた。
 「ふぁっ!」
 強い痛みと共に、言いようのない衝撃が背筋を走った。一体何だ、これは。私は言葉を失くして、自分の身に起こった反応を反芻した。だが、思案する時間があまりなかった。その大きなものを入る部分まで全て収めきった私が、頼りなく、しなだれかかっているのだ。ひくつく肉が、きゅうきゅうイーノックを締め付けていた。事が始まる前から限界だった彼にしてみたら、堪ったものじゃないだろう。もう好き勝手しても良い、と解釈することにしたらしいイーノックは、私に腰を打ちつけ始めた。
 「ルシフェル、ルシフェル。」
 緩やかなその律動に、不可解な痺れが私を支配し始めた。それはやがて覆すことの出来ない衝撃となって、私に襲いかかった。イーノックの嵩ばった部分がある一点を擦り上げるたびに、強烈な光が脳裏で瞬いて、高い声が漏れ出た。それが、人間が快感と呼ぶものであることに気付いたときには、もう全てが遅かった。
 「あっ、イーノッ、ああ!だ、駄目、そ、こっ。」
 「わかった、ここが良いんだな。」
 むしろ我を失くしそうで怖いから触るなと言いたいのだが、イーノックは聞く耳持たない。いっそ清々しい満面の笑みで、そこばかり突いてくる。これが、堕天使討伐の時代のイーノックだったら、私は容赦なく頬を張っていただろう。だが、相手は思春期の只中にいる子供である。私は天使らしからぬ暴力に訴えることも出来ず、無理矢理供給される快楽を流そうと堪えていた。
 しかし、私の決死の努力も、イーノックの前には水泡に帰さざるを得なかった。
 彼の武骨な指が、私の意味をなさない小さな排泄器官へ伸びた。摘まれた瞬間、我ながら驚くほど感じて、びくりと体が跳ねた。意図せず、彼のものを強く締め付けてしまい、羞恥に唇を慄かせると、興奮したらしいイーノックが、原始的な欲求に駆られて、私にキスをしてきた。これだから人間は侮れない。その存在を知らされていたわけでもないのに、勝手に見つけ出してしまったらしく、彼は私に、深く舌を絡める欲情のキスをした。
 口蓋をくすぐられ、歯列をなぞられると、腰がさざめいた。目に涙が浮かび、零れ落ちるそれをイーノックの舌が掬い取った。
 後は、怒涛の展開だった。詳細は不明である。過ぎた快楽は私からその数時間の記憶を奪ったのだ。
 目覚めたとき、私の視界には、大量に消費されたコンドームとぐちゃぐちゃのシーツがあり、寝心地の悪さに後ろを仰ぐと、酷く満足した様子で寝息を立てる元凶が抱き込むようにして腕枕をしていた。道理で寝辛いわけだ。まだ、足の付け根に異物感があった。意識を飛ばすほどやったからだろう。
 そう思いながら、力の抜けた両手を使って上半身を起こそうとした私は、自らの判断の誤りに気付かされた。この糞ガキが、まだ入れたままか。私はとうとう耐えきれなくなって、大人げないと知りながらも、イーノックの頬を抓った。それでも、イーノックが起きる気配はない。成程、ある意味で、私は当初の目的を達成したらしい。これで生理現象にまだ嫌悪感を抱いていると彼に打ち明けられたら、私は明らかなその虚言をせせら笑うことだろう。
 「んっ、」
 抜くだけの行為に思わず感じてしまい、鼻から抜ける声が出た。
 結合を解いたことでとろりと溢れる体液に眩暈を覚えながら、私は嘆息した。反応が可愛いからという理由で、つい、当代のイーノックを甘やかし過ぎたように思う。私は天を振り仰ぎ、我らが神に問いかけた。
 私は一体、どこで間違えた。
 無論、答はなかった。


 それから十年ばかりが過ぎ、イーノックは堕天使捕縛の命を受けて、地上へ赴くこととなった。無論、サポートは私の役目である。イーノックは、今となっては慣れ親しんだコンドームの袋を口で開けながら、私を解すのに熱意を見せている。やれやれ。堕天使討伐と、性の探求と。これではどちらに熱心か、解ったものではない。私は苦笑を浮かべて、イーノックのサポートに回った。
 本当に困ってしまった。私は一体、どこで間違えたのだろう。どうも私はイーノックを気に入りすぎたように思う。智慧の実を一度口にしてしまったら、もう戻れないと、解るだけの分別が私にもあれば良かったのだが、今更の後悔というものだ。
 このまま地獄まで連れ攫ってしまおうか。気付けば、私はそんなことばかり考えている。











初掲載 2011年1月29日