それは、麗らかな午後のこと。堕天使を討伐したばかりで、次の堕天使に移るのは少し億劫な週の出来事だった。
取り囲んだ昼食も、天使らしい母性スキルを発揮したルシフェルによって片付けられ、イーノックは手持無沙汰にうとうとしていた。その隣では、ナンナとネフィリムが堪え切れなくなり、眠りに身を任せている。本当に天気の良い午後のことだったので、襲いかかる眠気に抗うことは、神の命じた試練をこなすよりも難しかった。
そんなイーノックの眠気を吹き飛ばしたのは、一杯のコーヒーだった。寝がえりを打ったネフィリムの短い腕が、中身の注がれていたカップにぶつかり、ルシフェルの衣服にかかったのだ。コーヒーをカップに注いだのはずいぶん前なので、ルシフェルは火傷には至らなかった。だが、これを履くためにわざわざアストラル体の肉体を固定化してしまうほどお気に入りのEDWINを駄目にされたことは、当然気に入らない様子で、ルシフェルはじろりと、未だ夢の中に遊ぶネフィリムを一瞥した。もっとも、ネフィリムの短い射程範囲内に、中身の注がれたカップを置いていた非は、己にもあるし、何事もすぐに忘れてしまい、知性の欠片も持たない彼ら種族に何を言ったところで無駄と、早々に諦めた様子ではあった。
最初こそ、胆を冷やしたイーノックだったが、火傷の心配がないとわかると、ルシフェルの有能さを誰よりも知っているがために、胸をなでおろした。眠気は吹き飛び、再び、訪れる気配もない。そうなると、少し手持無沙汰ではあった。どうせ、ルシフェルは、イーノックには理解の及ばない人間の叡智を弄るのだろうし、旅の同行者が二名ほど眠る今、次の街へ向かうわけにもいかない。これが天界での出来事であったなら、イーノックも喜んで書物を手に取っただろうが、いかんせん、唯一彼に娯楽を与えることのできる人物は、不機嫌そうに眉根を寄せ、EDWINを見下ろしている。
さて、どうしたものか。思い悩むイーノックの視線は、自然、想い人の許へ向かった。完全な美があるとすれば、それは、ルシフェルのことだろう。神はそのようにルシフェルを造り上げたという。
そのとき、目の保養にいそしむイーノックは、ある事実に気がついた。
一つは、いっこうに、ルシフェルが指を鳴らす気配がないこと。いつもの調子であれば、あの不可解な力で被害をなかったことにするだろうに。何かルシフェルには思うところがあるのかもしれないが、どうしたことだろう、といぶかしむイーノックの眼は、濡れて張り付く衣服に覆われた、ルシフェルの身体へと向かった。
もう一つ、おかしなことがあるとすれば、それは些か不謹慎かもしれないが、際どいところまで下げられたEDWINにあった。元々股下の浅く作られているジーンズは、座り込んだことで、更にずり下がっている。辛うじて、薄手のシャツで覆い隠されているが、そうでなければ、おしりのえくぼまで丸見えだろう。だのに、ルシフェルがぽろりしてしまったことは一度もないのだ。仮にあれがイーノックの立場だったら、今頃、アーチがはみ出て戦闘どころではないはずである。
実際、イーノックは、一回やってしまったことがあった。まだ、ルシフェルと同じく股下の浅いものを履いていたときのことである。それは寝起き直後の朝のことで、ルシフェルはアセンションしたイーノックのアーチを興味深そうに一瞥した。言葉より実に雄弁な視線だった。そのとき、イーノックは、恥入って死ねるかと思ったものだ。
しかし、ルシフェルはそんな事態にならない。あれだけ下げているのだから、アーチはまだしも、体毛くらい見えても良いはずである。だが、まったく見えない。もしかすると、天使と人間は体の構造が違うのだろうか。一番美しく力ある創造物たる大天使への、神のご加護だろうか。わからない。
イーノックは少しだけ、前かがみになった。白磁の肌を持つルシフェルの、日の目を見ることのない場所を迂闊にも想像してしまったのだ。これでは、いたずらにアセンションしてしまう。イーノックは唇をきつく食いしばり、ルシフェルから顔を背けると、必死に脳内で堕天使を数え始めた。堕天使は7体しかいないはずなので、1から7までの堂々巡りだ。途中、邪悪そうな彼らのイメージも加え、多分に脚色を施して想像を巡らせていると、視界の端で黒いものが動いた。ルシフェルだろう。だが、こんな危険な状態では、またどんなあらぬ妄想を抱いてしまうかわかったものではない。
イーノックは、ぎゅっと固く目を瞑った。目を開けていれば、ルシフェルを見ないではいられなさそうだったし、うっかりルシフェルを見てしまったが最後、自分の衝動を抑えきれない自信があった。天界に召し上げられたとはいえ、イーノックも年相応の精力的な一個の雄である。しかも、以前から想いを寄せている美貌の大天使との二人旅だ。それは、幸か不幸か、途中から仲間が増えてまったが、これまでの枯れた生活に戻れるはずがない。
悶々とする日々が、すでに、2か月も続いていた。
「まったく、気に入っていたのにな。また買わないと駄目か。」
愚痴をこぼす声が聞こえた。身じろぐ音もする。イーノックは危機感を覚えて、真剣に、堕天使を数えた。もう何体の堕天使と使役獣を血祭りにあげたか、わからないほどだ。ガーレ、アーチ、ベイル。止めの打撃3連コンボで浄化浄化浄化。
眉間にしわを寄せてうんうん唸る旅の仲間を、ルシフェルは不思議そうに眺めた。人は睡眠時に夢を見てうなされることがあるそうだが、それは、起きている時でも起こることなのだろうか。今度、自分よりも人間に造詣の深いアークエンジェルたちに訊ねてみようと心にメモして、再び、EDWINへ視線を戻す。
ルシフェルは嘆息した。本当に、お気に入りの人類の叡智だったのだ。ビニール傘と同じくらい愛していたし、それは神への敬愛に勝るとも劣らないものだった。無論、ルシフェルは神を穢されれば、この比ではないほど怒るだろう。だが、赤ん坊より無垢で無知なるネフィリム相手に怒りを募らせたところで、無駄だ。ルシフェルは、無駄なことは一切しない主義だった。
「これは、シミ抜きも駄目そうだな。」
黒く汚れた表面を指でつつき、再び、嘆息する。もちろん、ルシフェルには時間を戻し、出来事をなかったことにすることも可能だった。しかし、こんなことのために、神から賜った時間を操る力を用いるのは躊躇われた。新しいEDWINを購入するにしても、何か未来へ赴く用事があったときに、ついでとして購入してくるしかなさそうだ。
とりあえず、濡れた部分が張り付き、気持ち悪くて仕方がない。表面上は、ほぼ人間の男性と同じ肉体をしているルシフェルが気を配るべき年頃の少女は、好都合なことに盲目で、しかも今は眠りの中だ。他には、眠りこける加害者のネフィリムと、目を固く閉ざしているイーノックしかいない。
「イーノック、すまないがしばらくきみのEDWINを借りるぞ。」
ルシフェルは3度目の溜め息をこぼすと、立ち上がり、イーノックの装備品を詰め込んだ荷物のもとへ向かった。アストラル体に戻れば、着替えなど不要になるが、そうすると愛用の傘を手放さなければならない。EDWINを取り上げられた今、傘まで手放すなど、ルシフェルには絶対に考えられないことだった。
次に、アークエンジェルと連絡を取るときまでは、暫定として、イーノックのEDWINを履くしかなさそうだ。ルシフェルが鞄を漁って見つけ出したEDWINは、ずいぶんと、大きかった。長さ自体はそれほどでもないのだが、薄い身体のルシフェルに、イーノックのジーンズは、腰回りはだいぶ余りそうだ。ぴっちりとしたタイプを履き慣れているルシフェルにとって、結果的に緩めになるジーンズは、いささかだらしないものに思えた。それでも、何とかなるだろうという楽観的判断のもと、ルシフェルは履いているEDWINに手をかけた。
ようやく理性を狂わせて仕方ない物音もおさまり、動悸息切れ眩暈興奮も落ち着いてきたころ。イーノックは最後にもう一度だけ堕天使たちを機械的に殴り倒してから、恐る恐る目を開けた。これまでの経験上、油断は大敵だとイーノックは知っている。それで、一体何回、ルシフェルにロードしてもらったことか。
だが、イーノックの認識は甘かった。
「イーノック、何かベルトのようなもの…紐でも良い、そんなものを持っていないか?」
確かに、一応断りを入れられてはいたが、ルシフェルが自分の服を着ていた。
「想像以上に腰回りが余って、ずり下がってしまうんだ。」
右手を添えて、EDWINが落ちるのを妨げているルシフェルの左半分は、十分すぎるほど肌が見えている。肉体を伴わないため関心が薄いのか、あるいは、もっとも美しい創造物だという自負が、羞恥心をなくすのか。前面も、3割ほど見えてしまっている。
生えてない。
どっちも。
「どうしたんだ、イーノック…?大丈夫か?」
ルシフェルの問いかけに促され、手をやると、ぬるりとしたものが指を汚した。
「まったく、敵に殴打されたわけでもないのに…どうして鼻血を出す機会があるんだ?」
労わるように伸ばされた慈愛の両手が、イーノックの頬を覆う。そのため、EDWINが完全にずり落ちたが、ルシフェルが意に介した様子はない。ルシフェルは見る間に顔を赤くしていくイーノックに、多少、いぶかった様子だったが、何か理由があるに違いないと一人納得したらしく、問うてはこなかった。
祝福を施すべく近づけられた白皙の美貌に、イーノックはぎょっとして、目を瞑った。先程鎮めたはずの欲望が、アーチを直撃している。当然、そんな状況下では、ルシフェルを直視できそうになかった。
その鼻下を、柔らかなものがくすぐった。濡れた温かな感触の正体は、見なくてもわかる。イーノックの唇から、呻き声が漏れ出た。ルシフェルの舌はイーノックの血を綺麗に舐め取った。唇へ垂れ落ちた血すらも、綺麗に。そして何度も、啄ばむように口付けを落とした。その祝福は性質が悪く、今のイーノックにはかえって逆効果なのだが、ルシフェルにはそれがわかっていない。イーノックは伸ばしかけた手を、必死で、静止した。ここで欲情に耽ったら、どれだけ、楽しいだろう。だが、駄目だ。イーノックには出来なかった。そばにはナンナたちがいるし、それ以前に、大前提として、大天使を穢すなど間違っている。
逃げを打つが、それをルシフェルが許さない。優しそうでありながら、ルシフェルの手はイーノックの顔を固定したきり揺るがない。歯を食いしばり必死に耐えるイーノックに、ルシフェルは首を傾げた。
「まだ、血の匂いがする…。本当に、きみはどうしたんだ?」
顎に手を添えられ、上向かされる。肉体の構造上開かされることになった唇に、ルシフェルは、善意から祝福を施した。
唇が届かないから、というだけの理由で差し込まれた舌が、口蓋をくすぐる。鼻下同様、食いしばりすぎて血の味がする口内を、綺麗に舐め取っていく。イーノックが自ら噛み切った舌も癒そうと追いかけて来るルシフェルから逃れれば、自然、祝福は深いものとなった。誰か、教えてやるべきだ。もはやこれは祝福ではなく、キスに他ならないと。だが、誰も大天使に、そのような情操教育をしてやる者はいなかったらしい。
やがて、痺れを切らした様子で、ルシフェルが唇を離した。
「…イーノック、逃げるな。それでは祝福が出来ない。」
つうと糸引く唾液を拭う姿を見てしまった瞬間、イーノックの中で、何かが大きく音を立ててブッツンと切れた。
頭で考えるより先に、本能で押し倒していた。
「…イーノック……?」
体の下の大天使は、自らの置かれた状況がわからず、困惑した様子でイーノックを見上げている。イーノックはにっこり笑うと、噛み付くようなキスをした。
初掲載 2011年1月11日