そこは政宗の気に入りの店なのに、考え事でもあるのか、政宗は食欲がないようだった。アルデンテに茹で上げられたパスタはフォークに巻きつけられては解かれ、絡められることもない魚介たっぷりのトマトソースは皿の底にたまっていた。明らかに気がそぞろな様子だ。
向かいの席に座った佐助は、ちらちらと政宗へ視線を向けた。何か悩み事でもあるのか訊こうとするたび、政宗は佐助が口を開くのを制して何事か話題を無理矢理出すので、もう尋ねることは躊躇われていた。言いたいことがあるなら待とう、でも、それにしたって気になる。それが佐助の正直な気持ちだった。
カタリ、と政宗がフォークを置いた。パスタはまだまだ残ったままだ。
しばらく躊躇った後、政宗は固い口調で告げた。
「もうこんな関係は止めて、けじめをつけよう。」
それは初めて関係を結んだときからすでに予想していたものだった。しかし、実際に言われると案外堪えて、佐助は頭がまっさらになった。今の佐助の様子に効果音をつけるならば、ガーン、が相応しいものかもしれない。
それでも、忍という生業は皮肉なもので、佐助は、表面上はいっこう凹んだ様子も見せず、ただ困ったようにへらりと笑った。いつもそうだ、と佐助は思った。出会ったときから今に至るまで、現実から逃げてばかりだった。
走馬灯のように昔の思い出が脳裏を駆け抜けた。
佐助が出会った頃の政宗は、女であることを武器にする今とは違って、身体には女特有の丸みが皆無で、筋ばかり目立つ女だった。加えて背が高く、怖くなるくらい整った顔立ちも端麗そのもので、ぱっと見女には見えず、「政宗」という雄雄しい名の影響もあるのか、絶えず男に間違えられていた。政宗もそれを訂正しないまま、大学生活を過ごしていた。農学部で畜産を専攻していたので、何だかんだと優遇される女子生徒より動物実験などで苦境に立たされる男子生徒だと偽る方が、勉強をしやすかったのかもしれない。
政宗は本気で動物について勉強したがっていて、それを根気良くきちんと説明された同グループの女子生徒たちは、政宗の秘密を守り通した。その分、学校内外問わず、政宗は同性からひっきりなしに呼び出されては告白を受けたようでもあったが、それよりも、学友から色目を使われる方が煩わしいようで、最後まで性別は訂正しなかった。政宗らしいことだ、と佐助は思う。政宗は目的のためならば手段を選ばないところがあった。
そんな政宗の学生生活を打ち切ったのは、実父輝宗の逝去だった。政宗は取るものも取らず、慌てて実家へ帰った。厳戒態勢が効いたのか、表向きは葬儀も粛々と行われ、政宗も喪主を立派に務めあげた。その悲しみを気丈に堪える姿に、訪れた佐助は興味を惹かれた。
その日の佐助は、仕事だった。当地を治める古株伊達組の組長輝宗が、鉄砲玉を食らって病院に運ばれたという噂は瞬く間に広がり、佐助はその真偽を調べるためこの地に赴いたのだ。だが、一足遅かったようで、輝宗はすでに鬼籍に入っていた。追って弔問のため訪れた幸村の補佐として、佐助は新しい任についた。伊達の偵察、だ。
佐助の仕える幸村が与するのは山梨を拠点にした武田組という組織で、同盟を結んでいる上杉組を間に挟んで、伊達組とはそれなりの付き合いがあった。いずれも薬には厳しく、堅気に手を出すことを厭う体質で、地元の人間から支持を受けている点でも稀な暴力団であると言える。
ただ、それが祟って、輝宗は殺された。犯人はチャイニーズマフィアから薬を仕入れている新しいグループで、一般市民に薬を売っていることを伊達組に責められ、叩かれたことを怨んでの犯行だった。
暴力団を取り締まる警察四課の方では、暴力団自体を許さなかった。しかし、実のところ、それなりに地域における伊達組の睨みをあてにしていたようで、伊達組に非常に協力的だった。伊達組という押さえがなくなることで巻き起こる抗争よりも、今のまま伊達組に統治させた方が幾らかマシだ、という計算をしたのかもしれない。何にせよ、警察内部に内応者がいることと、敵対組織内でも輝宗襲撃で内部分裂が起き、反旗を翻した者たちが密告したことで、首謀格は呆気なくお縄になった。襲撃犯はいくらか抵抗したが、それも、伊達組の直接的な報復を恐れてか、最終的には全て吐露した。男が服役後どうなるかは、定かではない。それは警察も、また伊達組も保証したりはしなかった。もっとも、伊達組が手を出さずとも、男が警察にばらした情報にチャイニーズマフィア関連もあったので、そちらから報復があるかもしれない。いずれにせよ、真相は闇に葬られるだろうことは想像に難くない。
そのような込み入る事情は抜きにしても、伊達の内情は探る必要があった。瓦解するようならば、傀儡でも意に染まる者でも上に据えて、一般市民のためにも、伊達組の地盤が揺るがないようにさせる必要があった。武田組を統べる信玄は、それこそが何より仁に篤い輝宗の弔いになるだろうと考えて、表向きは腹心の幸村を、そして裏では佐助を通夜に派遣した。
そういうわけで、佐助が政宗の後を追ったのには、伊達組を引き継ぐことになるかもしれない政宗の偵察という趣が強かった。
警察や組員が目を光らせる中、屋敷を抜けた政宗は喪服のまま勢い良く車に乗り込んだ。お世辞にも運転は安全なものではなかったが、お世辞抜きで、運転は巧いものだった。佐助はもう少しで撒かれるかと思いながら、必死にその後を追いかけていった。
それから間もなくして到着したのは、地元の寂れた動物園だった。
政宗は車から降りると、迷う素振りも見せず颯爽と進んでいった。兎や雛を相手にした動物触れ合いコーナーなるものや、親ばか自慢となっているドッグレース、そして日に3回行われる烏の見世物をことごとく無視して、政宗は園内の外れで止まった。餌でも期待したのか、柵の向こうから大きな哺乳類が首を乗り出している。現物を見たのは小学校以来のことになるが、それでも見紛う生き物でもない。麒麟だった。佐助は少し呆気に取られた。
政宗は真っ直ぐな瞳で、首を伸ばしてくる麒麟を見上げていた。
そしてそのとき、馬鹿な話だが、佐助は政宗に恋をしたのだ。
麒麟というものは、麒麟科の哺乳類だそうで、見てわかるとおり首が長い。足も長いため、頭頂までの身長は大体5.5Mにもなる。陸生哺乳類の中で一番身長が高いらしい。そのスレンダーなボディと悩ましげな目許は、何となく、政宗を髣髴とさせる。
それでいながら、時速50KM/Hの速さで走ることが可能だ。色も黄褐色で、角まで映えている。中国古代の想像上の生き物である麒麟と同名であるのも、ここら辺に由来があるのかもしれないが、詳しいことは佐助にはわからない。ためしに辞書で調べてみたところ、空想の麒麟は、「体は鹿、尾は牛、蹄は馬、額は狼。肉に包まれた角があり、体の毛は黄金、背には五彩の毛がある。翼をもってよく飛び、生草は踏まず、生物は食わないという。聖人が出て王道が行われた時に現れると伝えられる。一角獣。」そうなので、もしかしたら違うのかもしれない。
俊才のことを麒麟児というが、政宗はまさしくその麒麟児で、そして王道が行なわれたときに現れる聖人と麒麟を同一視して良いならば、政宗は麒麟に他ならなかった。
政宗は伊達組の組長に就任するや否や、組長暗殺で動揺している組をまとめあげ、整えた。故人の長子とはいえ、今まで組にはノータッチで、その上女である政宗が組長に就任することに、渋る重役も多かったと聞く。それを抑えたのが、政宗の守役で、すでに名を鳴らしていた小十郎だった。政宗は小十郎の期待に良く応え、渋っていた者たちもやがて杞憂だったと笑みをこぼした。本当は政宗が、動物園の飼育員になりたかったのだと知っている者はどれくらいいるのだろう、と、政宗自慢を耳にするたび佐助は思う。小十郎や従兄弟の成実はそれを知っていて、結局政宗の夢を壊したことに何某かの責任を感じているようだが、定かではない。
それでも、それだからこそ、周囲からしてみれば掌中の玉よと愛でても愛で足りない、敬愛しても敬愛し足りない、自慢の主なのだろう。伊達組はかつてないほど一致団結した。それもそのはずで、母親譲りの、整いすぎ冷たくなりがちな類稀なる美貌を利用し、今まで頓着もしなかった女であることを武器にした政宗の姿は、神々しいばかりに美しかった。笑んで綻ぶと花開いたようで、それを見た者は喜びに胸を弾ませた。それは女に対する恋情ではなく、女神に対する恋に等しい慕情の一種で、伊達組員が抱くのももっともだ、などと佐助は思った。そう思わせる政宗のカリスマは実力で、守りたいと思わせる魅力もあった。同病相哀れむ、あるいは、同じ穴の狢とでもいうのかもしれない。ただ、佐助の想いは紛れもなく恋心だったから、そう言うのは間違いでもあり、佐助は女神に恋した己を不遜だと思っては自嘲に笑った。
それが高じて、双眼鏡越しでは物足りなくて対象に接触を図り、こういう関係に陥ってしまったが、勿論、ルール違反だ。偵察の道理に反する。それでも佐助は政宗と直に話して、触れて、愛したかった。しかし、佐助も恋に現ばかり抜かしているわけでもなく、無駄に頭の回る政宗が、自分の正体に気付いていないわけがないことにも勘付いていた。それは端からの話なのかもしれない。身辺に気を配っている片腕たちが佐助のような怪しい存在を見逃すわけがないし、政宗自身、父親を暗殺されたこともあり、身辺整理には気を配っていた。
それは重々、佐助も承知していた。だから、ルールを破る前に、ばれたら事だ、と一応主に断りを入れておいたのだ。若者特有の潔癖な傾向が強い幸村は、色恋沙汰に現を抜かす佐助のことをなじった。それは想定の範囲内だったので、佐助は面目ないと神妙な態度で拝聴したのだが、「そういうのは、今どき、ストーカーというのだぞ、佐助!ストーカーをするなど、俺は見損なった!」と趣旨を挿げ替えられ、言葉を失った。確かに、佐助の仕事は見方を変えればストーカーである。だが、それを、命じた当人に言われたくはない。
最終的には信玄が幸村を取り成したものの、その言葉は佐助の心にトラウマとなって深く突き刺さった。ストーカー。実は、前の彼女にも言われた台詞なのだ。かすがはそのまま消息を絶ち、ある日、上杉組の屋敷で再会した。かすがに再会するまでの半年の間、佐助は自分のストーカー行為のせいでかすがをよほど追いつめたのかと思い、しばらくへこたれて立ち直れなかった。
そんな経緯があって、ストーカーという言葉には過敏になっていた佐助は、それでも、沸き起こる恋心を抑えきれずに、政宗に近付き、恋を成就した。佐助は幸せだった。しかしそれは、背後に迫る不安を無理に思考から外しての幸せでもあった。佐助はそのことも承知していた。どうせ最後通牒を突きつけられるならば、せめて、佐助が忍であることが原因ならば良いとすら願った。ストーカーだから、と言われたら、それこそ立ち直れないだろう。
いずれにせよ、佐助は、終わりは避けられないと思っていた。
だから今日、久しぶりに休みが重なったこともあり、二人で連れたって来たレストランで、政宗が「もうこんな関係は止めて、けじめをつけよう。」と口にしたときも、立ち直れなくなりそうなほどショックを受けたが、一方で、納得してもいた。佐助は、いつかはこんな日が来るだろうと知りながら、目を逸らしていたのだ。
にへら、といつもの笑みをこぼしたものの、とうとう堪えきれなくなって、佐助は俯いた。泣きそうだった。つんと痛む鼻に四苦八苦していると、政宗が言った。
「佐助、泣くなよ。お前、恥ずかしいだろ。」
「…って、言ったって。」
ずび、と鼻を啜る佐助の様子に眉根を寄せ、動揺を押し隠すような平坦で少し怒りっぽい声で、政宗は佐助の両手を掴んだ。
「結婚するぞ。俺は独占欲が強いんだ。」
泣くことも忘れて、佐助は瞬きした。視線の先で政宗が笑った。
初掲載 2008年3月8日