甘く密やかな、   昭和パラレル


 毎朝6時。どれ程夜を徹しても、佐助は一分の狂いもなく、その時間に目が覚める。念のため時計で時刻を確認した佐助は、目覚め直後特有の緩慢な動きで起き上がった。奥州の冬は寒い。朝となれば尚更だ。隣にある温もりを惜しみながら、佐助はベッドから抜け出した。
 元侯爵家に仕えると身であるとはいえ、佐助の朝はそれほど早くない。佐助は当主である政の秘書を務めているので、朝に忙しく動き回る類の仕事は回されていないのだ。せいぜい、主がすんなりベッドから出るよう、予めストーブに火を入れ部屋を暖めておく程度のことをしておけばいい。ストーブに火を入れ、昨夜から椅子に放り出したままになっていたズボンを穿き、開襟シャツを纏い、ネクタイを締める。
 髭をあたりに行く前にふと覗き込んだ姿鏡には、髪型こそ未だ乱れているものの、いつも通りの秘書としての自分が疲れた顔で佐助を見ていた。


 元侯爵家における佐助の立ち位置は、戦争が終った今となっては酷く曖昧なものだった。佐助は妾の子である。とはいえ元侯爵の子というわけではなく、他人の子として家に入った。家柄が失墜し、個が尊重されるようになってきた時代の流れをいち早く察した元侯爵は、佐助を我が子として扱ったが、母は佐助を元侯爵の子ではないからとあくまで継子として扱い、自らもしがない妾であり続けた。身分の差に敏感な、古い価値観を持つ女だったのである。
 そういうわけで、皆が知っていることだが、佐助は政の血の繋がりのない戸籍上の兄となる。
 だがそれが過去形でなされるべき事実であることを、ただ一人佐助だけは知っていた。
 元々邸で使用人をしていた母は哀れなほど、元侯爵家での豪華な生活に馴染めなかった。前妻の子である政は別段、突然身分に差はあるにしろ家族の一員になった佐助たち母子を厭うでもなくむしろ懐いてくれていた。母を望んで妾にし、前妻が亡くなった後には籍を入れ後妻にまでしたただけあって、佐助の新しい父となった元侯爵は優しかった。しかし、母にはあまりにもその生活は眩しすぎた。以前に比べれば交通も発達し仙台も拓けてきたとはいえ、まだ当時は田舎にすぎなかった。現在でさえ田舎特有の頑迷な身分制の残る閉塞した寒村から、そこへ奉公に上がった母が、そのスタンスを変えられなかったのも無理はなかった、と佐助は思う。勿論、母は元侯爵に望まれるように振舞おうとした。そんな気疲れを見せまいと必死に努力する中、元侯爵の乗った貿易船が事故で沈んだと聞かされた母はどんな思いをしたのだろう。倒れた母は以来床に伏したまま、生涯を終えた。
 今際に母が告げた、その時には母以外知る者のない事実。あれは一つの呪いだった。
 佐助が身なりを整え戻ってきた部屋は、ストーブで暖められ既に十分なほど暖かかった。カーテンを開け放ち、窓についた結露を軽く拭い去り、佐助は未だベッドで眠る政を見やった。
 母のあの言葉が嘘ならばどれだけ良かっただろう。引き返すには疾うに遅すぎた。
 誰にも知られることのないよう慎重に一人で母や侯爵の遺品を調べ、母の語った物語が真実なのか検証し、結果、踏み固められてしまった真実を嘆いたところで全ては終わってしまっていた。


 「政、朝だよ。起きて。」
 朝日を受け白く光る頬から首元へ優しく指を滑らせ、佐助は目を細めた。
 いっそ、この細い首を絞めて時を止めてしまえば、苦しみは終るのだろうか。
 佐助が生まれる前から、妾になる前から母が侯爵と密かに関係を持っていたなど、佐助は知らなかった。当時未だ年若かった彼らの恋愛など、佐助には興味ない。ただ一つ。その結果、佐助が生まれた。佐助は政の血の繋がりのない戸籍上の兄ではなく、事実上の異母兄だった。それだけが、重要なことだった。
 首に当てた掌から伝わる脈は規則正しい。佐助は力なく瞼を伏せ、首元から手を離した。
 「政、もう朝だよ。」
 一度持ってしまった関係をなかったことに出来はしない。どれだけ悔やもうとも、過去は戻らない。魂すら絡め取るような深い繋がりを、今更絶つこともできない。佐助は政を愛しているのだ。まさかそれが許されないことだなんて、知らなかった。
 佐助は政の柔らかい髪に指を絡め、優しく梳いた。
 「政、」
 名を呼ぶ声は絶望的なほど甘い。
 佐助は引くことも進むことも出来ない現状に諦めの笑みを浮かべ、血の繋がりなど知らぬまま眠る妹の目覚めを、ただ一人静かに待った。











初掲載 2007年1月27日