佐助が任務のため、米沢城に初めて忍び込んだのは一年前の春のことだった。伊達軍は奇を衒ったところが目立つ軍勢であるが、豊臣軍参謀の竹中半兵衛が欲するように、規律に厳しく統率も取れており、優れた武を有する優秀な軍である。しかし、そのような城にあっても、出入りの商人に注意を払うものは少なく、佐助は疑われることなく、城内への潜入を果たした。
だが、想定外だったのは、伊達が優秀な忍びも有していたことである。戦地にあっては武力を行使する真田忍隊と異なり、純粋に、諜報にのみ用いられる忍び集団黒はばきは、小間使いや兵の間にも深く入り込み、他国からの草を監視していたらしい。たちまちのうちに、佐助は己の不利を悟った。このまま長居すれば、己の命はあるまい。しかし、このまま何もせずすぐさま立ち去るというのも、違和が目立つ。佐助はこのような万が一の事態を考慮して持ち合わせていた本物の商品を敷布の上に広げた。余念のない目つきで、城主の側室のなりをしたくのいちが、佐助の差し出す商品を見ている。佐助は本物の商人がそうするように、薄っぺらい世辞を撒き散らして、どうにかその代物が売れるよう熱心に口説いた。結果、くのいちは佐助の世辞をか商品かはわからぬが気に入ったらしく、それらから二つ三つを選んで買い上げた。殿も気に入るであろう、というくのいちの満足げな笑みからみるに、本当に気に入ったのかもしれない。佐助はそのくのいちの姿に己の知る、星々の輝きを宿したくのいちの姿を見出し、胸が苦くなった。
今回、佐助が伊達に潜り込んだ理由は、かすが、かのくのいちこそが原因であった。足繁く米沢を訪れるかすがの姿が目撃されてから、かなりの月日が経っている。上杉と伊達が裏で内通しているのではないか。そのように憶測を並べるのも戦乱の世にあっては当然のことであり、それゆえ佐助は、事態を重く見た武田信玄にこうして派遣されたのだった。
「もう遅い、泊まってゆけ。」
突如かけられたくのいちの言葉に、佐助ははっとして他所事を断ち切った。見れば、外はもう日が暮れ始めている。これは罠だろうか。佐助は商人の装いの下で、にこにこと機嫌良く微笑んでいるくのいちの顔を伺った。豊満で肉感的な体つきといい、裾から覗く細く括れた足首といい、良く良くかすがと似ているくのいちである。苛烈そうな性格を伺わせる目元といい、主しか眼に入らなさそうなところいい、苦々しくなるほど瓜二つだ。眼の毒である、あまり見続けたいものではない。しかし、毒を喰らわば皿まで、とも言うではないか。ひとまず窮地を逃れた佐助は腹をくくって、くのいちの提案を受け入れた。
その晩、佐助は忍び装束を纏い、宛がわれた寝室を飛び出した。
米沢城は、佐助の見る限り恐ろしく妙な城だった。佐助の主の仕える武田同様、武を尊び、武を競う風潮のある伊達軍である。当主の稽古場と思われる大きく開かれた場所には、物見櫓ほどもありそうな高い木が立ち尽くしている。そこから突き抜けて、本来正室が滞在するはずである北の室へ向かうと、とても城の中にあるとは思えないような緑が広がっている。佐助は一瞬、城がそのまま裏手に広がる山と繋がっているのだろうかと目を見開いて驚いたが、そういうわけでもないらしい。そのような無用心であれば、どれほど、城攻めの際に役立つ情報となっただろうか。佐助は嘆息交じりに気の急いた己の短慮を叱り、緑で覆われた北の室跡地へと跳んだ。
つい最近、奥州筆頭は正室を迎えたという話である。奇抜なあの若者のこと、夫婦で別々に室を分ける必要などないと知らしめているのだろうか。
「…年相応の血気盛んぶりじゃない?旦那が見習ってくれれば、俺様も楽なんだけどねえ。」
思わず愚痴が口を吐いて出る。佐助は己の主のことを脳裏に浮かべながら、木々の間を擦り抜けていった。身分の差など気にも留めず、伊達政宗のことを生涯の好敵手と言って憚らない佐助の主真田幸村は、非常に残念なことに、潔癖なまでにそのようなことに疎かった。織田に仕える夫妻が揃って戦場に立っているのを見ただけで、破廉恥、と叫ぶ気質だ。そのような調子で嫁を勝ち取れるのか、甚だ不安である。真田家に仕える忍隊の一人としては、次代を設けてもらわねば話にならない。
次第に、あたりに漂う空気が深い山のものと似通ってきた。何処からか水のせせらぎもする。佐助は、やはりこれが罠で、己がくのいちの忍法に惑わされているのではないだろうか、と眉をひそめて周囲を見渡した。城の中にあるにはあまりに違和のある自然の中、ぽつねんと灯火の橙が見えた。何処からか灯りが漏れ出ているようである。扉を開けようとしているようだ。佐助は反射的に忍びとしての性で、そこから現われるであろう人物が良く伺える場所へと移動した。
木の枝の上でじっと息を止めて様子を窺う佐助の下で、扉が開かれた。そこから現われ、出て行こうとするものに、雪を思わせる白銀の髪を持つ愛らしい少女が約束を強請る。
「…また明日も来てくれんだべ?」
聞いた覚えのある声だった。あれは確か、と佐助が己の記憶を探れば、つい最近まで陸奥で一揆を起こしていた巫女ではないか。しかし、更に驚愕させるものが、佐助を待ち構えていた。佐助は目を見開き、あんぐりと口も開けたまま、眼下の出来事を無為に眺めていた。
袖を引いて懇願する巫女――佐助の記憶が確かならば、名をいつきといった――の頭を、大人が子にするようにくしゃりと撫でて、女が笑う。
「たまにはお前から来たらどうだ。そんな怖い奴らでもねえし、猫も綱元も、顔を見たがってるぜ?…どういうわけか、あいつらは、ここには来たがらないし。」
「…みんとやらかもみーるやら、政宗が変な草ばっか植えるからだべ。」
佐助には、いつきが萎縮しているのが見て取れた。どういう経緯でこのような場所にいるのか皆目見当つかないが、元々は一揆を扇動していた農村の娘である。奥州で一番力があるとされる国の中心部にいる、場違いな己の立場を痛いほど噛み締めているのだろう。もしかしたら、独眼竜に手を引かれてこの城にやって来た当初は、その小さな胸も希望で満ち溢れていたのかもしれないと思うと、尚更痛ましいものに見えた。女もそれがわかるからなのか、いつきに無理強いするでもなく、己の肩ほどまでしかない小柄な体を抱き寄せて、砂糖を思わせる白い頬に親愛の接吻を与えた。
佐助が正気に返り、やべ、と思ったときには既に遅かった。己の失態を悔いる時間もない。
「…oh!猿が木から落ちてきたぜ、どういう風の吹き回しだ?」
「ま、政宗、笑ってる場合じゃねえべ!」
心底おかしいという風に口笛を吹く女と、警戒心剥き出しで睨みつけてくるいつきに、背中から地面に落ちた佐助は右手を掲げてみせた。猿の名を持つ忍びが木から落ちるなど、本当に、間抜けである。しかし、佐助がそうなっても致し方ないような惨い現実が、無造作に転がっていた。
あの独眼竜が女。はたして、そんなことはあるのだろうか。
信じ難い現実を拒絶したいと眼で訴えて憚らない佐助の前では、何処をとっても極上の女でしかない政宗が花のような笑みを浮かべて、木から落ちた忍びに手を差し伸べていた。
以来、何が楽しいのか、政宗は佐助を箱庭に招くようになった。無論、いくら伊達勢が当主に甘いとはいえ、表立って敵国の忍びを招くことも出来ない。佐助は出入りの商人として、政宗の元に足を運ぶようになったものの、忍びとしての仕事が捗るわけでもなかった。佐助にのみ格別対処を練っているというわけでもないだろうが、伊達軍は念入りに、他国の忍びに与えるべき情報とそれ以外とを選り分けていた。その諜報作戦を展開しているのが、あちこちにばら撒かれた工作部隊、黒はばきである。
その日、上田から持ち込まれた土産をもう一切れ食べようか否か、些細な女らしい悩みに気を取られている政宗を前に、佐助は思わず溜め息をこぼした。三日後からは、また戦である。戦乱の世の常とはいえ、空しさが募る心を気に留めぬよう努めて、佐助は平常を装った。同性ながらどういうわけか正室に迎えられた陸奥の巫女は、この日は珍しく城の方へと足を運んでいる。そのような隙を見て、政宗は、箱庭内に設けられた隠れ家に佐助を呼び寄せるのだった。それが今日であるのは、佐助にとっては都合が良いとはいえ、皮肉としか言いようがない。
「案外、忍びを用いるのが巧いんだね…正直俺様びっくりしちゃったよ。武田といい上杉といい、戦場で使うことが多いからさ。……考えてみりゃ、こうやって情報操作に使うのが普通なんだよな。」
小声で愚痴をこぼす佐助に、政宗が驚いた様子で目を瞬かせる。もしかして気づかれたかと思えば、何も夏のせいばかりではない汗が掌に浮かんだ。膝の上で拳を握る佐助の前で、結局もう一切れ、政宗が土産を口に放り込んだ。
「…何だ、もしかしてあんた、かすがのことが知りたかったのか?」
この軽い調子から察するに、秘密裏にするような事柄でもないらしい。佐助は不承不承、その問いかけに頷いた。
「ありゃ、薔薇とかherbとか貰いに来てるだけだぜ?謙信公に贈るとかっつって…そうか。そりゃ、無駄足だったな。」
政宗が外つ国の薬草や樹木に情熱を注いでいることは、佐助も、それまでの世間話から知っていた。料理も趣味らしく、呪いにまで凝り始めたら異教徒狩りにあっちゃうね、とふざけた自らの発言に心が冷えたことは未だ記憶に新しい。魔女、それが佐助の政宗に対する印象だった。
一秒、二秒。湧いた唾を飲み込み、佐助が嘆息する。
「そう…なんだ?…でも、」
言葉尻を濁らせる佐助に、政宗がいぶかしむように長い睫毛を瞬かせる。その肢体からくたりと力が抜けたかと思うと、政宗は糸の切られた操り人形のように床に転がった。
「ちょっとその情報は遅かったかな。怨むなら、優秀すぎる自分のとこの忍びを怨んでよ。」
「テメ…何しやがった!」
なまじ貌が整っている分、まるで、本当に人形のようだ。佐助は懐からくないを取り出すと、己を睨みつけてくる伊達当主の首筋に当てた。敵国の忍びに心を許すから、こんなことになるのだ。佐助は侮蔑を奮い立たせて、政宗を見下した。
「…上杉と武田の決戦が、明後日なんだ。手を結んでるようなら討て、っていうのが、大将の命令でね。邪魔者は欲しくないんだってさ。」
白く柔い首が呼吸に合わせて上下する。僅かに食い込ませた切っ先が、つぷりと真紅の珠を作り上げた。
だが、それだけだった。今、殺さなければきっと近い将来後悔する。今を逃せば、己はこの女を殺せないだろう。それがわかるのに、佐助は政宗に止めをさすことが出来なかった。いつか想いを寄せたくのいちの姿を脳裏に思い浮かべれば、この事態も少しは変わるだろうかと思うものの、巧くかすがの像が結べない。ならば、旦那のことを想え。佐助は叱咤してもびくともしない己の右手を睨みつけて、奥歯を噛み締めた。
この女は必ず敵として立ち塞がる。旦那に終わりをもたらすものとなる。
今、殺さなければ、きっと俺様は後悔する。
そうだと確信を持って言えるのに、何故、この手は動こうとしない。
「ねえ…あんた、何か盛った?」
媚薬とか、と口にしなかったのはせめてもの分別だろう。諦めたように壁にもたれ座り込む佐助の姿を目にして、政宗が怪訝そうに眉をひそめた。
「ha?盛ったのはあんたの方だろ。」
「…今回はね。」
思えば、会うたび少しずつ盛られていたのだ。しかし、今更気づいたところで遅い。佐助は溜め息をこぼして、こちらの様子をまんじりともせず窺う政宗の瞼を掌で閉ざした。
佐助が盛られたもの――それは愛情という名でもって敵意を鈍らにする、魔女の至高の猛毒である。毒を喰らわば皿まで、その言葉がどのような感傷を連れて佐助の胸に去来したのか、知るものはいない。
初掲載 2009年7月26日