四ヵ月ぶりに訪れたロンドンは、霧が立ちこめ寒かった。
仕事の関係で愛妻がイギリスに渡ってから三年が経った。任期は五年ということなので、日本に帰ってくるまであと二年滞在中の予定だ。祖父や父に倣い日本で警察官になった幸村は、政宗が帰国してくる日を今か今かと待ち侘びている。国際電話や渡英にかかる費用がそれなりにするのが問題なのではない。連絡ツールが電話やメールのみで直接会えないのが嫌なのだ。自分的には小まめに通っているつもりだったが、前回実際に会えたのは四ヵ月前だった。政宗が渡英するから結婚したのもあるのだが、新婚生活を別々に過ごさねばならないのは結構苦痛だ。同僚にも散々からかわれている。
どこをどう歩いてもどうしてもロンドンの地理が覚えられない幸村を配慮してか、ヒースロー空港まで政宗が迎えに来ていた。ひらりと手を軽く振る仕草は、四ヶ月の重みをまるで感じさせない。嬉しさに小走りで寄ると、笑って迎えてくれる様子など、高校時代と全く変わらない。
幸村としては再会の喜びを力いっぱい示したかったが、人前では気恥ずかしい上に、霧の立ち込めるロンドンの冬は寒い。立ち話もそこそこに、二人で政宗のアパートに向かうことにした。
「…それは何でござろう?」
地下鉄に着いた時だ。政宗が直径4・5センチの丸いバッジを胸元に付けたので、幸村は小さく首を傾げた。紺のダッフルコートの上でも目立つ、白地に青文字のバッジだ。ロンドン地下鉄のロゴと共に何か記載されている。所轄の関係で、中国語や韓国語ならば最近たどたどしいながら多少操れるようになってきているのだが、未だ英語はさっぱりわからない。高校時代からどれだけ政宗にスパルタ教育されようと理解できなかったのだから、おそらく、これからも幸村が英語を身近に感じることはないだろう。
だから幸村がバッジに言及したのは、単純に英語の意味がわからなかったからだった。他意はない。
「これは、ロンドン市交通局が2004年2月から始めた取り組みで、無償で提供されるんだ。」
「交通局?無償といっても、特に誰がしている風にも見えませぬが。」
少なくとも、幸村の窺い知る範囲ではバッジをつけている人はいない。
「今日は幸村がいるから良いけど。バッジを見たら自発的に座席を譲ろうっつー試みで、結構好評なんだぜ。日本でもすりゃ良いのにな。」
「座席を譲る…?何か怪我でも、」
「最近は同僚が色々世話焼いてくれるけど、やっぱ地下鉄の移動中立ったままだと辛いしなあ。それに今後はもっとしんどくなるわけだし。」
「…政宗殿、」
「冬になると厚着やら何やらで余計周囲からはわからなくなるもんな。」
「政宗殿!」
とうとう小さく叫んだ幸村に、政宗はおかしそうに笑った。この笑みは絶対この瞬間を狙っていたに違いない。しかし興奮に赤くなった顔も、政宗の回答を期待する目も、幸村にはどうしようもなかった。
「Baby on board! お腹に赤ちゃん乗車中。宜しく、お父さん。」
そう言って、政宗は幸村の頬に掠めるだけのキスをした。
初掲載 2007年11月9日