旬 / 鈴木有布子   義姉弟パラレル


 場所は鍛錬場脇の庭の井戸、時刻は八つ時の少し前。幸村は桶で水を汲み、頭から被っていた。つい先週まで冬の寒さが続いていたというのに、気付けば夏はすぐそこまで来ていたようで、井戸の水は思いの外温い。それでも、鍛錬によって火照った身体を少しでも鎮められればと思いながら、幸村は近くに置いておいた手拭へ手を延ばした。
 今日、幸村が江戸から帰ってきて早々仕合を申し込み、そして敗れた相手は政だった。当地を治める大大名の長女にして、幸村の義理の姉である。幸村との差は十、数えで二十七になる勘定だ。大奥において将軍の相手を辞退する年齢が三十であることを考えれば、年増と言われても仕方がない年齢である。しかし、齢五つにして現将軍家の六男忠輝と婚約し、十二に輿入れ、そして忠輝が改易され伊勢に流されたことで家へ戻ったのが五年前、二十二歳の折だ。その五年前のときから何ひとつ変わらぬ政を見るたびに、幸村は年齢など問題ではないと思い、そして同時に、その年齢こそが一番の問題でもあることも改めて思い知るのだった。
 幸村が奥州伊達家に養子入りしたのは、十五年前のこと、大阪夏の陣の最中である。昌幸の武功に感心した政の父輝宗が、昌幸の遺児である幸村を引き取った。無論、敵である西軍の将の遺児を将軍家の許可も取らず養子にしたと判明すれば、改易どころの騒ぎではない。しかし、輝宗が意図していたのか定かではないが、そのときちょうど政の輿入れを控えていた。何より、伊達家は最早徳川の治世になくてはならぬ大きな存在になっていた。
 あと十年早ければ、とそのことを考えるたびに幸村は思う。あと十年早ければ、幸村は政の婿として養子入りすることも可能だったのではないか。無論それは、政の輿入れ先が将軍家であったこと、その結果幸村の養子入りが見逃されたことを考えれば可能性は限りなくなきに等しいものである。しかし幸村は政に、弟としてではなく男として見てもらいたかった。
 愚鈍なまでに真っ直ぐ向かう幸村に対し、政は女である性か、真正面から刃を交えるような愚行はしなかった。捌ききれないと判じれば避け、あるいは流し、そして刺す。剣を振るうその姿は舞に似て美しいが、それだけではないことを証明するかのように幸村の手の甲にはじんとした痛みが走り、からんと木刀は軽い音を立てて床へ落ちた。その度、幸村はまた政に勝てなかった事実を思い知る羽目になるのだ。実際今日も強かに手の甲を打たれ、剣先を咽喉元に突きつけられてしまい、幸村は降参するより他なかった。そしてそんな風に降参を告げる幸村を見て、政はおかしそうに笑った。
 それは何処か幸村と政の関係に似ている、と幸村が真田姓の頃から付き従っている佐助などは言う。きっと忍の目には、幸村では到底見えぬことが多く見えているのだろう。飄々とした佐助の考えの読めない笑顔を、あれは喰えぬ顔だと思い出しながら幸村が顔を手拭で乱暴に拭っていると、ふっと慣れ親しんだ気配がした。
 「佐助、か。どうした。」
 粗方水気を拭き取った時点で顔を上げれば、佐助は呆れ顔で笑った。
 「ちょっと俺様、配置換えされそうなんで挨拶にね。旦那の江戸へのお供は、今回が最後かな。」
 「遠く?どこだそれは。」
 「明屋敷番に任命されるんじゃないかって。ここら辺だとどこだろな。経ヶ峰に何か出来そうな気がするし、そこの番とかかな?でも狩り屋敷とかでもない気がするんだよね。何が出来んだろ。」
 幸村は顔を顰めた。明屋敷番は空屋敷を管理する仕事である。江戸においては伊賀者が充てられる役職の一つで、閑職だった。そのような誰でもこなせる仕事に、有能な忍である佐助が宛がわれるのだという。その上、経ヶ峰に何か屋敷が立つなどと幸村は聞いていない。であるから、忍である佐助の耳が早いだけかもしれないとは思うものの、尚更不満が募った。
 「明屋敷番など、…閑職ではないか。佐助は忍であろう。忍が忍らしいことをせんでどうする。」
 幸村の非難に佐助が肩を竦めた。
 「忍らしいっつってもね。そんな時代は終わったんですよ、旦那。一応は太平の世なんだから。徳川だって、忍の地位が失墜して久しいじゃないですか。忍だけじゃなくて、武士自体、もだけど。」
 それから佐助はちらりと幸村に視線を投げかけた後、にんまり笑い、幸村の水滴を付いている髪をぽんぽんと叩いてから掻き混ぜた。
 「旦那の夢は、日の本一の兵、でしたっけ?まだそれは変わらないの?」
 「当たり前であろう!男児たるもの、一番を目指さずしてどうする。」
 そのための初めの一歩として、幸村は政に勝とうと日々鍛錬を積んでいるのだ。憮然とする幸村に佐助は小さく嘆息し、「それもいいかもね。」と小さく呟いた。
 「それも旦那らしくていいかもね、ゆくゆくは藩主さまだってのに。…でも、今どきの子が、ねえ。まあ、頑張ってくださいよ。経ヶ峰は近くだしさ、暇だったら顔出してよ。」
 「今どき」という言葉は幸村が一番嫌いな言葉だ。何故武芸に入れ込むのかと尋ねられる度、日の本一の兵になりたいからだと幸村が正直に答えれば、「今どきの者にしては…。」と感心される。何故遊技に行かないのかと義姉には言われ、赤面しつつ断る度に、これまた「今どきのやつがなあ。」と笑われる。太平の世だからなのか、武家の生まれだからなのか。「今どき」が何を指すのか、幸村には露たりともわからない。
 佐助はそんな幸村の心情を、知っているはずだった。
 「佐助っ!」
 揶揄に叱責の声を上げるが時既に遅し、佐助の姿は何処にも見えなかった。ただ小さな笑い声に似たさざめきが、わずかに梢を揺らしていた。


 「ふぅん、佐助がなあ。」
 その晩、自らも頬杖付いて信玄餅を食べつつ、幸村へも茶請けとして差し出しながら政が言った。場所は政の執務室、信玄餅は先日京から帰って来た幸村が土産にと持ち帰ってきたものだ。仙台藩は父輝宗の開拓事業が実を結び、今では並ぶところのないほどの全国屈指の米どころである。その米で作った餅や酒も良いが、たまには他藩の銘菓も食べてみてはどうかと幸村は言うのだった。亡父の知り合いから、京で贈られたのかもしれない。とはいえ、甘味をあまり好かない政を考慮してか、自分が生粋の甘党であることを熟知しているのか、土産には他に酒もあった。日本酒が持てはやされた時代ゆえに世間での評判は非常に悪かったが、密かに政が好んで方々から取り寄せては呑んでいる、焼酎だ。
 黄粉をたっぷり塗された餅に、瓶に入った黒蜜を大量にかけている幸村を目を眇めて見つめ、内心それだけで胸焼けしそうだと思いながら、政は己の分の皿も幸村へと差し出した。一応義理で無理をおして数個口に運んではみたものの、やはり、政に信玄餅は甘すぎた。第一、酒の肴にはあまり相応しいものではない。
 「あいつもどこで情報仕入れてくるんだかわかんねえが…、まあ、隠してるわけでもねえしな。」
 政は畳上に直置きしていた皿を卓に上げ、脇に退けていた箸を手に取りつつ言った。純白の小皿の上に、映えるようにして赤い花が幾つか載っている。藪椿だ。時期が終わるのでもうあまり見かけないが、八部咲きのものを選んで油でさっと揚げると、椿は時満ちたように花弁を開く。それに塩をつけて食べるのを、政は風流だといって好んだ。本来は柑橘類の汁などをかけて食すのだが、生憎、旬を外れている。もっとも信玄餅で口が馬鹿になっている今、食べたところで椿の繊細な味がわかるとも思えない。政は口直しに酒を呷り、これだったら椿より塩釜の方が良かったかもしれねえと思いながら、小さい声で呟いた。
 「経ヶ峰には、親父の墓所を建てる予定だ。」
 「親父殿の?!」
 「この前祖母の菩提寺の落慶式があったろう。お前は親父と入れ替わりで江戸に行ってたし、俺は俺で表立っていける立場でもなかったから行けなかったが。式の後、不如帰の声が聞きたいって経ヶ峰の方まで足を伸ばしたらしくてな。」
 信長が好んでよく舞った幸若舞の敦盛一節にあるように、「人生五十年」とされた時代であることを考えれば、輝宗ももう六十九歳。十分浮世を生きた計算になる。自身でいつ身罷っても不思議ではないと判断したのだろう。そうでなくとも、最近は体調があまり良くないと聞く。幸村の帰還と同時に江戸へ参勤してしまったが、はたして息災でいるだろうかと父に思いを馳せながら、政は考え込むように眉根を寄せている幸村を見た。
 「そういえば幸村。お前、向こうで好いた女の一人や二人できたのか?」
 「そっ、そのような!男児たるもの武芸に切磋琢磨し、己を磨き終わるまではそのようなことに現を抜かすわけには…!」
 「そうも言ってられねえだろ。お前は親父が死んだら当主になるんだ。お家騒動起こさねえためにも、跡取りはちゃんと作ってくれよ。」
 「そんな、親父殿が亡くなったらなどと、いかに仮定とはいえ不謹慎なっ。」
 「人間いつかは死ぬ。第六天魔王だって、東照大権現だって死んだんだ。人間の親父が死なねえわけねえだろ。」
 生き残る自分たちは、父よりも、結局は藩を存続させる道を模索しなければならないのだ。そう続けようとした言葉は辛うじて飲み込み、箸で突きまわしてからようやく口に運んだ椿は、どことなく苦かった。それでも無理矢理咀嚼し、酒で咽喉を潤してから、政は幸村に提案した。
 「明日辺り、成実と一緒に遊技にでも行ってきたらどうだ?それも嫌だってんなら、小十郎に言って分家から相応しい相手でも探しとくが。じゃなきゃ、」
 政はわざとらしいまでににっこり微笑み、言った。
 「俺が色々教えてやろうか。」
 江戸へ出払っていた幸村は知らないだろうが、内部には、伊達本家の血筋を残すため政を幸村に娶わせようとする動きもあった。その筆頭が、父輝宗だ。そもそも忠輝との婚姻話さえなければ、輝宗は己の認めた男の遺児に娘を預けていただろうと常々言われてきていたのである。その夢が、政が出戻るという形で実現可能になってから五年、政は絶えず輝宗からそれとなく匂わせた形で幸村との再婚を勧められてきた。無論、親馬鹿である輝宗のこと、娘が嫌がれば強く勧めることも出来ない。だが、父の体調が良いとは言い難い今、そのような道もあるのだろうかと政は思った。
 しかし、思いはしても、相手は十五年もの間姉弟という間柄でいた幸村である。そのような気になることなど政には到底出来ず、すぐさま冗談だと打ち明けて笑うつもりだった。念頭には常に、輝宗の腕の中でうとうとまどろむ幼時の幸村の姿があった。
 「なーんつっ、」
 手を振ってけらけら笑い否定しながら面を上げた政は、幸村の様子に思わず固まった。幸村はそれまで見たことがないくらい、顔を赤く染めていた。生娘でもここまで赤くはなるまい。水をかければ湯気でも立ち上りそうだ。
 「て…な、…なーんて。…信じたか?」
 純情な幸村のこと、似たような反応は返されるだろうとは予想していたものの、予想以上の反応に流石の政も言葉に詰まった。真面目に受け取られたのかと思えば少し申し訳ない気持ちもわいてくる。眉尻を若干下げて顔を覗き込んできた政に、正気に返った幸村が卓の上で拳を握り締め、呟いた。
 「…某は、政殿と姉弟でありたいと思ったことなど、一度たりともありませぬ。」
 なんと返せば良いのか政が言いあぐねていると、真正面から見つめられた。丸みを失って精悍さを纏いつつある頬に、卓上に置かれた骨太の大きな手。いつの間に、幸村はこんなに成長していたのだろう。いつまでも幼いとばかり思っていた「弟」と目の前の現実の齟齬に、政は信じられない心地で幸村を見つめ返した。
 政の気付かぬうちに、幸村は男としての旬を迎えようとしていた。
 唖然としている政の唇にふっと、真面目な顔つきの幸村のそれが重ねられた。鼻先を掠める甘い黄粉と黒蜜の香り。政が非難する間もなかった。唇を離して、幸村が破顔した。
 「政殿、こういうとき目は閉じていてくだされ。」
 「はい…。」
 頬が焼けるように熱い。どうしてこのようなときばかり幸村は素知らぬ顔で大胆なことをしでかすのだろう、平素は赤面してばかりのおぼこのくせに。そんな考えが頭を過ぎったが、嬉しそうに部屋を後にする幸村の背を眺めながら口から出たのはまるで違う言葉だった。
 「……処女か、俺は。」
 顔を右腕で覆い隠し、政は畳に勢い良く倒れこんだ。生娘でもあるまいに、どうしてこんなにも政の胸は高鳴るのだろう。相手は「弟」だというのに、そう、相手は「弟」なのだ。そう思えば尚更恥ずかしくなり、政は高まる感情のまま足をばたばた動かした。混乱のあまり、頭が巧く働かない。
 それともそれは政の思い違いで、本当は、違ったのだろうか。











初掲載 2007年10月1日