昨夜は郷愁を煽るであった。止め処無く流れる天水は、あの方の頬を彩る落涙を俺に思い返させた。空知らぬ雨よ、俺は何という過ちを犯させてしまったことか。
何処かで雨音がする。昨夜の名残か。それとも、是は彼方へ押し遣られる時代の奏でる狂騒であろうか。あるいは、狂った俺の脳が生み出す幻聴やもしれぬ。轟々と尽きることを知らぬ音がする。
目の奥が熱い。盛る不遜に神経が焼き切れそうだ。俺は眼に手を押し当て、闇に身を任せた。無論、是は、幻肢痛である。心が失くしたものを思うて、悲鳴を上げているのだ。妄執という病に侵された己が心は、醜く歪み、正視に耐えぬ愚物と化した。狂うばかりで歯止めを知らぬ。幸か不幸か、俺は其の事を承知している。
乱世から織田が姿を消したのは、もう、随分前のことになる。第六天魔王と恐れられしかの傑物を、あの方と斃した時の興奮を如何にして忘れ去る事が出来よう。歓喜に打ち震えた胸を、如何して忘れ去る事が出来よう。是で漸く、あの方と果たし合いを行える。始末をつける事が出来る。
あの方と生死を分かつ瞬間こそが、俺の生で最も誇るべき輝かしき瞬間となるはずであった。其れがどうした事か、果たさぬ間に時代は卑しき豊臣のものとなった。
そして今、時代は移り行き、憎き徳川の手に堕ちようとしている。
「そろそろ来る。征くぞ。」
其の声に、俺は眼を開け、頭を上げた。眼前で虚ろに呟いた三成殿の目は、復讐に燃えている。まるで底知れぬ水底だ。轟々と逆巻く水音の元凶は是やもしれぬ。
三成殿を見ていると、時折、俺は驚嘆の念に打たれる。人は斯様までに、憎悪を深める事が出来るのか、と。此の者に比べれば、俺の怨嗟など児戯に過ぎぬ。おそらく、地獄の業火に焼かれたとて、斯様にどす黒く製炭は出来まい。佐助の影とて、褪せて見えよう。其の怨恨につられ、俺の心根まで底冷えするようだ。怨鬼とは、此の者を指して言うのであろう。其れほどまでに、三成殿は芯から狂うている。
先まで影で覆い尽くされていた陣内には、一条の光が射していた。尤も、光とはいえど、救いではない。この光は、蜘蛛の糸よりも覚束ない絶望への途である。
俺は乾いた笑みを漏らして、立ち上がった。
「…畏まった。」
己が声ながら、空言の如く味気ない。だが、三成殿は意に介さなかった。一瞥すらくれぬ。其れも其のはず、此の者は俺以上に狂うている。無上の虚だ。其れ故か、眼光銀糸至る箇所に白きを塗し、清廉たる者と見ゆる。口から零れ落ちる呪詛は、祝詞を思わせる。眩むほどの鮮烈な光を湛えるから、まこと性質が悪い。
一体、どれほどの者がこの擬態に惑わされ、盲いと成り果て、死に逝くことであろう。付き従って部屋を後にした俺は、三成殿の細頸へ目をくれた。約束された黄白に、口ばかりの勝利に、騙され付き従おうという蒙昧の輩は知るまい。しかし、俺は知っている。全く、何と言う笑い草か。大将首が浮世を厭い、冥土の土産よと徳川を道連れに朽ちようというのだ。是を、笑い草と言わずして何と言う。
一縷の光に縋ろうと、欺こうと、同じ事。所詮、笑い話にしかならぬ。
もう俺は、頼るに飽いた。悔いるに飽いた。怨むに飽いた。御膳立ては整えられた。然らば、最早我慢することも無い。
さすれば、死ね。
生憎の雨と成った。天より落つる雫は、織女の涙か。黒風白雨は、年に一度きりの逢瀬を邪魔され、恋慕を募らせる娘が泣きじゃくっている様を思わせる。
暗雨も斯様に強ければ、情緒の欠片も無い。俺は嘆息交じりに、眼前の男へと一瞥投げかけた。今宵は棚機である。俺が此の地で広めようと画策している五節句の一つだ。素直に興味を抱いた様子の慶次に、彼へ対抗した恰好の幸村。然様ならばと成り行きを愉しむこととした俺。願いを書き綴るよう言い付け五彩の短冊を与えたのは、もう先月の事になる。
出生故に文盲のいつきは、皆が笑って暮らせる泰平の世を、何枚も何十枚も書き損じながら思いの丈を込め願っていた。上杉に身を寄せるかすがは、耳まで赤く染めて、軍神との恋愛成就を真摯に祈っていた。真田子飼いの大道芸師が何を乞うたのかは知らぬ。然程興味も無い。小十郎と慶次は、秘密、だそうである。
幸村には遥々上田から足労させた形になるが、全くの無駄であった。雨天だからではない。眼前の男は、白紙に記すべき願いを持たぬのだ。一介の武家に過ぎぬ幸村は決して楽な暮らしをしていない。猿があれだけ愚痴るのだ、部外者の俺にとて分る。阿堵物の一つでも願えば良かろう。あるいは、甲斐の虎の天下でも、真田の繁栄でも何でも良い。だが、白地の短冊は黙して語らぬ。
「望みはないのか?」
問う俺に、幸村は曖昧な笑みを向ける。そも短冊を手に取ったのも、慶次への張り合いからであった。望みを書こうと書くまいと、其れは各人の自由である。強いるは俺の趣味ではない。俺は立ち上がり、幸村の目前へ移動した。蝋の火が瞬き、落とす影を揺らした。
神仏相手とて同じ事、所詮、余人の手を借りる行為に違いは無い。己の望みは己にのみ託する。幸村には他人の介入を良しとせぬ潔さがある。生き下手な幸村の事を、愚蒙と貶したくば貶すが良い。賢しらに世間を渡り歩いたところで、己に偽る行為であれば其処に如何程の価値が生じよう。俺が斯様に愚直な生き方しか知らぬ幸村に好感を覚えるのは、俺が賢しらな生き方を選び取った為だろう。
一体、どれほどの者が安楽を選び取り、自ら盲いと成り果て、死に逝く事であろう。蒙昧である事実に目を背け、逆しまな理性に従う事であろう。俺は膝を着き、幸村の頬に手を添えた。高まる欲望を感じる。
「…望みは?」
再度問う声が痴情に縺れた。俺が知らぬとでも思うたか。幸村が俺に渇する事実を、何故手出しせぬかも、俺は承知している。一時の激情に流されれば、俺もお前もきっと悔いるであろう。身体を重ねれば、負い目と成るであろう。
契りのもたらす安寧に、等閑の常しえに、欺かれ付き従おうという不敬の輩は知るまい。しかし、俺は知っている。成就することで喪失するものが在る事を。全く、何と言う笑い草か。だからこそ俺は、幸村に勝手を許す訳にはいかぬ。一度身を任せれば、俺と幸村との関係は根底から揺らぐであろう。好敵手たるを嫌い、永久の別離を恐れる羽目に陥よう。是を、滑稽と言わずして何と言う。嗤うに嗤えぬ。
一縷の情に縋ろうと、欺こうと、同じ事。所詮、笑い話にしかならぬ。
神仏に祈れば、叶うのか。縋れば、此の辛苦は癒されるのか。否、然様なはずがない。もう俺は、賺すに飽いた。焦れるに飽いた。耐えるに飽いた。ならば、一時の放埓に委ね、此の身を許そう。二目と見れぬ劣情に手向けの花を添え、棺の蓋を閉じよう。
幸村の手が肩に触れ、袂へと伸びる。他所事に思いを馳せる間も無く、距離が狭まった。掠れる吐息に、自然声が上擦り嬌声と成った。温もりを求め、腕を回す。忘我を望めど、境地は遠い。其処に在る広き背に、知らず、涙した。醒める一方の陶酔に、浸ることすら叶わぬ。
堕ちるならば、一度だけ。然様なら、死合える日まで。
棚引く硝煙に如何程の恐れがあろうか。俺は頬の血を拭い、何処までも蒼く澄み渡る空を見下げる。刃から滴る赤が池を為し、黒々と濁る天を、血染めの鬼を映し出している。俺の心に宿る闇、あの方と共に歩む道を違わせた渇望。其れこそは、眼下に居座る鬼である。
鬼は俺に気付き、口端を歪めて笑うてみせた。
渡された短冊に、望みを記さなかったは、迷うたからだ。果断に選ぶには、俺の望みは多過ぎた。其れを如何したものか、あの方は良しとしたようであった。夢は己が手で掴んでこそ、価値を見出すものぞ。天上の夫婦をなぞり、一夜限りの逢瀬よと、其の身を許された。
差し出されたるを取らぬはずがなかった。許されし愚行を犯さぬはずがなかった。俺はあの方を欲していた。あの方を、求めていた。
咽喉元に迫り上げる焦燥を煽られるまま、白き肌へ顔を埋めた。欲で滑る渇望を穿ち、己が渇する事実を突き付けられた。回された腕が碇を求め、爪が空しく背を掻く。痛みも今ばかりは甘露に過ぎず、闇夜を照らしながら散り逝く火の粉に似ている。初めて目にする嬌羞に、昂揚を覚えた。
そうして俺は、束の間の無上に我を忘れて浸った。感情の柔く灯る眼差し、骨の如く白い肌、血を思わせる唇、艶めかしく踊る肢体。己が口から意図せず滴る睦言に、此の耳は爛れ落ちそうだ。爪先へこびり付く己が肉片すら愛おしく思え、其の赤にさえ丹念に口付けた。強い眩暈に似た情愛に心傾き、促されるまま彼の方を抱き締めた。天より落つる雷に打たれし者の心を悟らされた。
かなぐり捨てたるは、理性か、本能か。
勝手とは承知している。俺は己の裡に闇が在った事を知り得た。繋ぎ止めようほどに、失われるものがある事を思い知らされた。彼の方が女であった事を解し、同時に己が男であった事を悟り、自明の理に我知らず大いに失望した。己が斯様な道を選び取り歩もうとすれば、決して、此の方と同等では在り得ぬ。妻に望めば、好敵手たる位置に留まる事なぞ出来ぬ。執着と恋着は似て非なる物であり、決して同一たり得ない。
必定を如何して、今ばかりは、失念していたのであろう。
知り得ながら手を伸べた徒花の始末に、痴れる間も無く、酔いは醒めていた。
以来、夢も見ぬ。夢を見る自由も持たぬ。御屋形様は、志の半ばにして逝去された。上洛の途での事であった。徳川との交戦が直接の原因ではない。病故の逝去だった。何もかもが果々しくなくなったのは、其れからであった。武田が瓦解し、上杉に身を寄せた。戯れる器量を持たず、貧困に喘いだ。九度山に封ぜられ、泡沫の名残に縋りて余生を明かしている。
だが、其れも最早先までの話だ。俺は、今一度、夢に耽溺せんと此処に居る。
俺を此の地に呼び寄せたのは、或る男の狂気であった。全てを失い、全てを奪われ、九度山にて世捨て人と成り果てていた俺を醜悪な鬼として返り咲かせたは、紛う事なく、三成殿の妄執であった。亡き武帝に固執する狂人と、俺とを繋ぐ糸は、ただ徳川憎しという一点のみである。否、亡霊を主と仰ぐ沙汰も同一であろうか。そして、彼も俺も違わず、芯から狂うている。
一握の義憤すら捩じ伏せて豊臣に下ったは、何の為か。無論、決まっておる。夏草と成りて死する為である。俺は夢を枕に死する腹を決めている。斯かる退転が、あの時、短冊に願いを記さなかったが故の責めとは思わぬ。神仏に縋らねばならぬ生き様ならば、俺は愚昧の輩にくれてやる。
夢は己で掴んでこそ価値ある物と、あの方も言うておられたではないか。
俺は叶えよう。正気尽きようとも決して諦めまい。崩落しか待たぬとしても、決して臆すまい。残る命と引き換えに、此の地に阿鼻叫喚の地獄を在らせしめよう。あの方の泰平を天下にもたらそう。首掻っ切る序でだ。後世にまで残るような恐怖を、徳川へも与えてやろうではないか。御屋形様の足元にも及ばぬ青二才如きが、天下人を気取ろうなど片腹痛いわ。貴様の首級は、三成殿にはくれてやらぬ。屠るは俺ぞ。
轟々と音がする。俺は水音に命じられるまま、戦場へと歩き出した。心に降り頻るは氷雨よ。後背には、屍が一つ。俺には大将なぞ、不要ぞ。御屋形様の代わりなど、狂人に務まろうものか。亡き者の思想に靡き、生きる事を忘れた貴様如きに務まろうものか。
断末魔を引き連れ、いざ赴かん。うねり猛る、三途の水底へ。
戦場は混乱の極みであった。何事か遭ったらしい。だが、情報の入らぬ事態に、俺は焦れていた。悉く草は刈り取られ尽くした。既に、我が方の忍びは居らぬ。かの半蔵ですら、絶やされた。
流石に血相を変えた家康は、落ち着き無く幕内を歩き回っている。忠勝が居れば。御大将は繰り言を為すが、其の無双も死して久しい。上田にて、あいつが剪定したのだ。其れを、家康が覚えておらぬはずがない。斯かる咎で、あいつは九度山に封ぜられ、無常に向かう事となった。
「少し落ち着け。お前は大将なんだ、そんなに焦るなよ。You see?」
俺の窘めに、家康は未だ幼さの残る顔を不安に曇らせた。正直、青いと思う。俺にはもう二度と持ち得ぬ若さだ。羨望が胸に差し、俺は立ち上がった。背後から家康の声が追いかけて来る。だが、俺は待たなかった。待たねばならぬ必然性も感じられぬ。
最早、俺の望みは天下ではない。天下ではたり得ない。俺の望みはあいつとの決着、永劫の訣別だ。どうせ死に別たれる運命ならば、俺の手で其の命、摘み取ろう。摘み取らんが為に、今生を違えたのだ。
馬に跨り、駆ける。あいつの待つ、死地へ。
轟々と逆巻く音を立てて、時代が転がる。激動のうねりを感じる。
有らん限りを込めて、双槍を振るう。骨を拉げ、肉を抉り、屠る。屍の山を築きながら、敵本陣へと奔る。俺には最早、惜しむべきは決着しか残されておらぬ。精魂尽き果て枯れ果てよと、童(わっぱ)の首目指し奔る。
人は俺の事を愚かと嗤うかもしれぬ。確かに、狂いたる身一つで何が出来よう。時代の流れは渦巻く潮の如きで、兵一人抗ったところで塵芥が押し流されるような物である。だが、俺は時代に逆らい、此処まで辿り着いた。道理を捨て去り、夢に瀕した。是は決して、俺の傲岸ではない。歴然たる事実である。
絶えず左後方に控え何くれと加勢した佐助も、もう、居らぬ。徳川の手にかかって、死んだ。上田での事だった。墓すら作ってやれぬ己の不甲斐なさを、斯様な境遇に貶しめた徳川を呪うても飽き足りぬ。何より、御屋形様を前に尻尾を巻いて逃げ出した負け犬如きに、御屋形様の望んだ天下はくれてやれぬ。あの方の治世の末席を穢しはさせぬ。
防ぎ切れなんだ矢に射られ、馬は疾うに居らぬ。徒歩で何れまで征けるか、全て、己次第だ。だが、此処で為せずして、何が紅蓮の鬼か。どの面下げて、佐助の待つ地獄へと向かえよう。我知らず、笑みが零れた。枕で命落とすなど、実に無意味な行為よ。俺には、あの方との決着が待っている。あの方が待っておられるのだ。此処で死ぬる訳にはいかぬ。
刃を薙ぎ、衣を血に染め上げ、獣の如く咆哮する。血の轍を描きながら、終幕へと直走る。
眩いばかりの光に、心が戦いた。視界が緋に染まり、最早、何も解らぬ。眼に物見せてくれようぞ。是こそが、人心を失くしたる鬼の姿よ。
込み上げる愉悦に、嘲笑が止まらぬ。
斯様な穢れた俺には、名を口にすることも許せぬ高邁な人よ。俺は此度も、自らの手で、自らの望んだ夢を叶えよう。今一度、此処、動乱の地で諍おう。
そうして、そなたの絶対無二であった兵として、何れそなたの手に入る日ノ本の地に果つるのだ。
其れまで、戦場を骸で満たそうぞ。
我先にと急ぎ向かった先に求めた者は無く、現れた影武者に無駄足を知らされた。己が軽率を呪えと嘲弄する口に、其こそ災いの元よと命でもって購わせた。募る焦燥に、咽喉が渇いて仕方ない。濡れそぼる刀を払い、血脂を落として、俺は走り出した。其処に、永劫の訣別が待つ事を俺は知っていた。
戦場は、燦々たる有様だった。斯様な地獄を生み出したる者が、正気で居るはずがない。鼻を刺す臭気に、俺は顔を顰めた。手懸りは一路、徳川本陣へ向かっている。淋漓たる血で為された真紅の轍だ。如何程の兵が、身を削り取られ死に至ったか。五体満足で居る者の姿など、視界一面見る影も無い。屍、屍、屍。屍ばかり目につく。一体、どういう心積もりか。三成は、死人の王にでも成る積りなのか。ふと起こる疑念に答えを与える猶予も無く、俺は繰(く)る馬を急がせる。
肉片の入り混じる泥濘に怖気が走った。気ばかり急いて、狂うようだ。
其れは、あいつも同じであった。
「政宗殿、お久しぶりにござりまする。」
陣は一面血の海であった。其の只中に独りきり、立つ者が在る。男は此の再会がさぞ嬉しい物と見える。白い歯を覗かせ、屈託無い笑みを浮かべている。
「愚鈍ゆえ、この身は嫉妬の焔に妬け爛れそうでござる。」
其れは、豹変の前触れか。烈烈たる焔を燈す眼に、知らず、震えが走った。俺の好敵手は、斯様な昏い眼をする男であったろうか。俺には判らない。
「背ならば片倉殿に預けましょうぞ。」
そう、眼前の鬼は嘯く。地の底より這い出るが如き声調に、かつての夏日を思わせる快活は、何れを探しても見付からない。変わらぬのは、双槍と赤鉢巻だけだ。何処に置いてきたものか、あの六文銭すら身につけて居らぬ。
気が触れんばかりの面影の欠落に愕然させられると同時に、駆り立てられる己を自覚し、遣り切れぬ想いに吐き気を覚えた。結局、俺はこいつとの訣別を望んでいるのだ。
吐き捨てるが如く詛いを紡ぎ、鬼は首級を睥睨した。
「…しかし、そなたの傍らに立つは某であったはず!某は認めぬ、認められるものかッ!そなたと好手たり得るは、この俺だけだ!」
家康、と己の声に成らぬ息が首の名を呼んだ。骸を踏み躙り、狂える形相で男が恫喝する。
「誰が為の天下か、誰の為の戦か。物の道理も知らぬような、童ではないッ!」
正しく、戦装束を血で緋に染めた男には、紅蓮の鬼の名こそ相応しい。俺は其の傍若無人に陶然として聞き惚れた。あの時と同じだ。何れか取捨選択せねばならぬ状況に、頭が醒めていく。だのに、感情ばかり劈き高ぶっていく。こいつに切望される事で、無類の喜悦が形成されていく。笑みが濃くなる。俺は刀を抜き放ち、男に突き付けた。
嗚呼、愛しき者よ。然様なら、死合おう。
狂わされたは、眼前の男ばかりではない。己もまた、理性をかなぐり捨てていた。
腕が吹き飛ぶ。寄る辺を失くした槍が、紺青に呑まれる。舞い散る鮮血が焔に撒かれ、塵芥と化して逝く。
俺は高らかに笑った。此の浮世に、是ほど血湧き肉躍る刹那が在ったとは。是に比べれば、今迄の光など見せ掛けに過ぎぬ。眼が眩む、脳が焼ける。爛れて落ちる。光は其の青で以て此の身を苛み、刺し貫いていった。
絶対の光明よ。地獄ですら照らし出す鮮烈なる青よ。俺はそなたに出逢えて良かった。然様なら、愛した女(ひと)よ。そなたの許、眠ろう。満ちる光へ、骸を浸そう。
生命の残り火が、奔流に押し流され掻き消えた。
戦場のしじまに、掛け替え無き屍が一つ。譬え、幾つ屍を積まれ山としようと、腕の中の屍の代替など出来ぬ。三成も家康も、お前には代えられぬ。
黄昏ゆく天には、月が色を失くし、所在無げに立ち尽くしている。期待と切情に胸膨らませた望月は過ぎ去り、今、俺は独りきりだ。再び飛ぶ事を許されず、歩む事も叶わず、ただ屍を抱き締め自失している。
見よ。あの下弦を、細る月を。そして、嗤うが良い。何れ来る朔に為す術もなく震える俺を。
解り切っていた幕切れながら、俺は、屍に縋って咽び泣いた。今にして解る。全て虚勢だ、道化に過ぎぬ。俺はお前に望まれる存在を演じていたのだ。そうして、己の虚仮威しに賓(まろうど)を喪って、初めて、気付いた。其の眼に映った下弦を、更に満つる上弦と錯誤していたのだ。是で俺は充足される物と。結ばれた鏡像を叩き割りて、何とする。
だが、殺めたるは俺だ。
傲岸とは百も承知である。俺は、無二の焔を己で掻き消しながら、破鏡を嘆いた。張り詰めた弦が、音を立てて絶ち切れた。
一片の白紙が煤と化していく。
結局綴られる事のなかった白地からは、お前の願いを読み取る事は出来ぬ。然様なら、燃えてしまえ。愛しき愚か者の夢、兵が跡よ。
我を張ったところで何となる。所詮、お前の狷介は迷妄であった。死人に仕えて何となる。三成を出し抜きたるはお前だったと聞く。なれば、お前は知っていたはずだ。其の固執こそが死へと至る病であった。お前に付き纏う死臭の誘因であった。だが、お前は瞼を閉ざし、其れきりであった。全く、道理であった。今更違えた道を同一たり得るのであれば、そも、あれ程までに契りを渋ろうはずもない。お前は、俺たちは、一瞬がもたらす常しえの破綻を望んで、是までの長年を無為に費やして来たのだ。
だが、胸に差すは激越な絶望であった。お前を失くす事に対す、恐怖であった。
お前を亡くした事に対す、悄然であった。
天下人に其の身を乞われながらも拒んだ愚昧の徒ととして、いっそ、屍を晒し嘲笑すれば。さすれば、俺は斯様に独りきり、惨めたらしく涙せずに済んだのであろうか。お前の意思を踏み躙り、座敷牢に塞ぎ慰み者として囲えば。さすれば、俺は満足したであろうか。其れとも、お前の眼差しに気を揉まれ、結局血の幕切れを迎えたであろうか。俺には判らぬ。
一時の熱をもたらして、表面を舐める様に広がる茜は、西日を思わせる。お前の目に宿り、命を薪炭に生じた火群(ほむら)を彷彿させる。
一夏の西日よ、永劫の斜陽よ。斯うして灰にしたところで、お前のもたらす残照を、俺は手放す事など出来ぬだろう。
然様なら、燃えてしまえ。いと惜しき者の夢、兵が跡よ。其れこそが命を燃やし焦がして尽きたお前に相応しい。お前は、身内に流れる赤まで焔の如き男であった。過ぎる本懐に内から喰い殺され、死した鬼であった。其を手に掛けたるは、誉れよ。そう思わねば、やっておれぬ。
WILL――其は遺書、其は遺志。
言葉無き白地は、最初にして最後の恋文である。
初掲載 2010年7月19日