無骨な指だった。触れた場所が熱を孕んだように疼く。病にかかったのかもしれない。女はその一つ目で、壊れ物を扱うかのように触れる男の手を見やる。きっと性質の悪い病だ。
ふと、男と目が合った。夏日のような光を宿す目を眇めて笑うさまが、女には眩しい。女は溜め息をこぼして、男のすんなりと美しい首に腕を回した。
ざわざわと病が苛む。もう、治ることはないのかもしれない。
女が男と見知りあったのは、戦場のことだった。女も男も、戦場を渡り歩く渡り鳥のような身分であったので、当然といえば当然のことであった。
硝煙、砂埃、そして、焔。戦時にあっては野を焼き尽くした焔が、男たちの手で改めて焚かれ、死者をあめつちへ返していく。戦場にはいつも、焔が燃え盛っている。そう、女は思う。焔によってもたらされ、焔によって幕切れる。女にとって戦とは焔であり、焔とは戦だった。
幼い頃、女は焔を炊く理由についてもっともらしい弁舌を耳にしたこともあった。幼かった女も、もっともらしいものだ、と相槌を打った。それでも、心のどこかで、回避するための手段でしかないと信じている。獣に喰い散らかされ、烏に啄ばまれるのを見ていられないから、そのまま捨て置けば疫病が流行るから、それ以上に、自分のなした後の祭りを見止めたくないから、男たちはすべて煙に巻いてしまうのだ。大義名分を掲げたところで、人殺しは所詮人殺しでしかないことを、女は知っている。理由がどうあれ、昨日あった戦も、今日あった戦も、明日ある戦も、何も変わらない。似たようなものだ。夜空を照らすほどの焔を見つめながら、女はそのようなことを思う。
男が女に声をかけたのは、そんなときのことだった。女の態度を訝ったのかもしれない。まだいくぶん輪郭にあどけなさを残しており、少年と呼ぶに相応しい年齢だったあの男は、見当違いの優しさを寄こした。今更、女だからと気遣われる必要はない。そんな思いやりは、本当に、今更のものだ。突き返そうという気こそ起こらなかったが、あまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず苦笑が漏れ出た。
それを見て、男が微笑んだ。先の顔などより、こちらの方がずっと良い。そう漏らしてから、本当に無自覚の言葉だったのだろう、慌てて取り成すものだから、それがなおさらおかしくて笑えた。笑う女に、男は顔を赤くして口をへの字に曲げた。ああ、あの表情の何と愛らしかったことか。共闘したのは、後にも先にも、このときだけだった。それなのに、何故か、この記憶が真っ先に呼び起こされる。
その後もたびたび、女は男と出会った。それらはほとんど、敵としての再会であった。刀を交えるのは楽しかった。槍で鍔迫り合うのも楽しかった。焔を孕んだ視線を一身に受けるのが楽しかった。それらも一時のことで、すぐ別れが来てしまうことは、悲しかった。
女にとって男は、焔のような存在だった。あまりに御館様がと口にするので、大義名分で人殺しを認める、男たちの代表格のような存在でもあった。陰では、男のことを、鬼、と呼ぶものもあった。戦場にあっては誰よりも死をもたらし、そのくせ、ことが終わればあっけらかんと笑う。身に染み付いた血は女と同等か、それ以上であろうに、まるで昼の世界しか知らぬ太陽のように振舞う。それが、鬼と呼ぶものたちには空恐ろしかったのだろう。奇妙なものとして映ったのかもしれない。
女もそれがわからないでもないから、そのものたちには好き勝手言わせていた。
男の頭を引き寄せ、耳の後ろに口付けた。仄かな体臭を感じる。そのことが、否応なしに女の身体を熱くする。男の日に焼けた肌に掌を這わすと引っかかる跡は、どれも、女には覚えるある創だった。女が口付けを強請ると、初めて、男は躊躇う素振りを見せた。それに気づかない振りで、唇を重ね、女は男の手を内へ招いた。
戦場にはいつも、焔が燃え盛っている。そう、女は思う。焔によってもたらされ、焔によって幕切れる。女にとって戦とは焔であり、焔とは戦だった。戦のない時代を夢に掲げながらも、その先を考えたことはなかった。
戦のない時代に、焔は存在しない。自明の理ではないか。
ならば最後くらい、焦がしたかった。冷めた目でその幕引きを見つめるのではなく、情欲の焔に身を任せたかった。
翌朝、何事もなかったかのように本陣に姿を見せた女に、同盟相手である少年は、それで良いのか、と訝って尋ねた。良いんだ。その自答を、己ははたして何処で聞いていたのか。耳障りの良い返答にますます疑念を募らせたのか、少年は、これで良いのか、と改めて尋ねた。掻き消えてしまえば、次はないのだぞ。
この戦を吹っかけた人間が、何を、今更。それでも、少年の女を気遣う心は嘘偽りないものと知っている。女は黙って視線を巡らし、ついと手を伸ばしてその花を手折った。次々と同じ姿かたちで生じては、一夜で枯れていく無邪気なほど白い花に、そのときばかりは痛ましさが募った。
大義名分を掲げたところで、人殺しは所詮人殺しでしかないことを、女は知っている。理由がどうあれ、昨日あった戦も、今日あった戦も、明日ある戦も、何も変わらない。似たようなものだ。そう思っていた。
似ているだけだ。一つとして、同じものなどない。
一夜限りだから、こんなにも鮮やかに胸焦がすのか。槿(むくげ)の恋よ、とおどけて笑った。
木槿(むくげ):もくげ。はちす。
夏から秋に、紅紫・白などの花が咲き、一日でしぼむ。
初掲載 2009年5月5日