麗かな春の日。柄にもなく茶室に篭もって自前の忍と密談をしている幸村に、気付いた政宗は顔をしかめ、音を立てて入り口を開いた。
「よう。何を、こそこそと話してんだ?」
確かに、城の者の目を逃れるように、こそこそ密談している主従はたしなめられて当然である。
だが、了承も得ず勝手に部屋に踏み込んだ政宗の方こそ、非難される筋合いな気もする。しかし、政宗には天下人としての自負があった。俺ルール、と言っても過言ではない。
「ま、政宗!何かあったのか?」
動揺もあらわにあわあわと慌てふためく幸村を尻目に、政宗は佐助をきっと睨みつけた。どうも、この忍が幸村に要らぬ知恵をつけているようで気に喰わなかった。そうでなくとも、今は、忍の類を幸村に近づけたくないのだ。ついでに、成実も余計なお節介を働かせそうなので、どうにか遠ざけたいところではある。
へらり、と困ったように笑った佐助が目を逸らして頭を掻いた。やはり、あのことを告げ口するつもりだったらしい。視線で、ちくったらテメエ殺すぞ、と強く脅しつけ、政宗は幸村に顔を戻した。
「…別に何もねえよ。それより、人目のある場所では殿と呼べって言ってんだろ。」
伊達が天下統一を果した今、伊達当主である政宗が天下人であるのは周知の事実だ。例え、それは夫であっても変りはない。こればかりは、政宗の俺ルール以前のルールだ。
鼻を鳴らした政宗に、幸村が改まって「は、はい!殿!」と答えた。
これは昼間、そんなことがあったせいなのだろうか、と政宗は内心溜め息を吐いた。
場所は寝室、いわゆる閨だ。
その晩、寝室に引き揚げた政宗を待っていたのは、幸村の殿様発言だった。幸村はオンオフの切り替えが下手だ。戦場ではこれでもかというくらい人が変るというのに、それ以外はのほほんとお館様お館様ばかり口にする阿呆だ、と、政宗はつねづね思っている。
つねづね思っていることではあるが、流石に、閨で殿様は萎える。
そういう趣向が好きな者もいようが、政宗はオンオフをきっちり切り替える人種だ。俺ルールもある種それに該当するが、そもそも、権力を傘に着る人間ではない。部下を相手にするなど、範疇の埒外だ。
せめて政宗様と呼ばせれば良かった。
そう後悔しながら、政宗は幸村の首筋に口付けを落として、甘い声で囁いた。
「閨で殿は止めろよ。」
が、返ってきたのは。
「はい、殿!」
政宗は幸村を外へ投げ飛ばした。ぼちゃん、と庭の池から水柱が立ったが、政宗は気にせず乱れた袂を引き寄せて、寝た。
翌日の話である。
「某が猪突猛進で馬鹿で切り替えが下手なのは、政宗殿もつねづね言っていることであろう!政宗なのか、政宗殿なのか、殿なのか。一つに絞ってくだされ!」
春のこととはいえ、場所は奥州。考えなくとも、夜はけっこう冷える。
昨晩、不可抗力、というほどでもないが、何にせよ予期せぬ行水をすることになった幸村は、合間にくしゃみを挿みながら主張した。もう何が何やらわからないのだろう。混乱のあまり、思考を放棄したのかもしれない。幸村の口調は完全に、好敵手時代に戻っていた。
政宗はじとりと幸村を見やった。
確かに、幸村が意識の切り替えが下手くそなのは事実だ。馬鹿正直で真っ直ぐ突っ走っていくのも事実だ。それはつねづね政宗が指摘していることだった。
だから、一つに絞った方が幸村のためになるかもしれない。しかし、幸村だけ特別扱いにして自分のことを呼び捨てにさせては、部下たちに対して示しがつかない。かといって、閨で殿呼びは御免被る。
政宗はきっぱりはっきり言った。
「泣き言垂れてねえで、それくらい、きっちり使い分けろ。」
出奔された。
よほど、昨夜のお預けが身に堪えたらしい。
若さに身を預けすぎている気もするが、それを抜きにしても、政宗と幸村は仲睦まじい夫婦なのだ。あれな気になっているのに、庭の池に投げ飛ばされて、閨に戻ったら妻が寝ていた、では、正直夫として立つ瀬がない。夫以前の問題である。男として、あまりに無残すぎる。
ことの顛末を聞いた小十郎が、呆れ声で感想を述べた。
「久しぶりですな。あやつが無断で里帰りするなど。」
「ま、たまにゃあ良いんじゃねえの?帰省くらい、成実よりはよっぽどマシだろ。」
執務も今日はとんとん拍子だ。可もなく不可もなく、滞りなく進んでいる。
お八つと八つ当たりも兼ねた息抜きで、幸村が取っておいた団子を食べようとした政宗は、菓子棚を見て思わず唸り声を上げた。
「あいつ、団子持っていきやがった…。俺の団子!」
俺の、ではない。が、指摘するのも少々馬鹿らしい。
小十郎はひっそり溜め息を吐いた。
一方その頃。
「それで、帰ってきちゃったわけ?竜の殿さんに会えない方が、旦那にはよっぽど堪えるんじゃないの?」
呆れ声で感想を洩らしたのは、幸村の無二の腹心の部下である佐助だった。佐助は団子を頬張る主に茶を差し入れ、雲の流れ行く空を見やった。
雲はあんなに気楽そうなのに、何で俺様ってばこんな役回りばっかなんだろう。
佐助は大きく溜め息をついたが、それはそういう星回りの下に生まれたからだろう。面倒臭くて割に合わなくて辛く厳しい痴話喧嘩の世話が相応しい「伝説の忍」などというのはかなり情けないが、そういう星回りなら致し方ない話だ。
「旦那。今回は絶対竜の殿さんは迎えに来てくれないから、自分からさっさと帰った方が良いよ。片倉さんも許さないだろうし。」
あれでいて中々、政宗も、飛び出した幸村を迎えに来てくれる優しい姉さん女房なのだ。
「佐助も俺が悪いと申すのか!お前だけは俺の味方だと思っていたのに!」
「違う違う。もお。…殿さんには口止めされてたけど、仕方ないか。」
ちなみに、仕方ない、と、佐助が判断した理由は、これ以上面倒臭いことにかかわりたくないから、という素朴な理由だった。素朴なだけにかなり率直だ。
「ほら、昨日さ。旦那に、そろそろ子供が欲しいけど、どうすれば子供が出来るのかって訊かれたじゃない?神詣でとか、まあ、夜の生活とか?」
それで下世話な話になりかけたのは、さておき。
「そ、それがどうした!」
昨日の怪しげな猥談と、そんな話をしていると気に限って、嗅覚鋭く部屋に踏み込んできた妻を思い出し、幸村が顔色をころころ変えた。こうしていると、良い男が台無しである。
佐助は長々と溜め息を吐いた。
「あれ、色々言ったけど、ぶっちゃけ意味ないからさ。さっさと帰って、竜の殿さんと安産祈願でもしてきなよ。片倉さんが許す許さない以前に、妊婦さんに上田までの遠路は絶対無理だって。」
「……………………………は?」
「だーかーらー、帰れっつってんの!はい、帰った帰った。」
腹心の部下に自分の城から締め出された幸村は、門の外で、しばらくぱちくりと瞬きをしていた。
佐助は一体何を言ったのか。
混乱のあまりぼんやり頭は白けたていたが、幸村も馬鹿ではない。結論に至り、幸村は慌ててとんぼ返りした。
それを門の上で見ていた佐助は、再び大きく溜め息を吐いた。
「阿呆らし。俺様も可愛い彼女欲しいなあ。」
だが、脳裏に浮かんだクールビューティーは近年変態街道まっしぐらな上に、謙信から心代わりしないだろうことを重々承知してもいた佐助は、涙を呑んで溜め息をこぼした。
笑う角には福来る、から程遠い男。それが佐助という忍だった。
笑えない職場が悪い、というのが、佐助の言い分である。確かに、痴話喧嘩の仲裁ばかりでは、笑うに笑えないのも事実ではあった。
「ままままま政む」
「うるせえ!寝てんのがわかんねえのかよ!」
がんっと重苦しい音が響いた。
奥州から上田に向かい、上田から奥州へ帰ったために、幸村の帰城は深夜のことだった。それでは、妻が寝ていても当然だ。
幸村は、侵入者に備えて寝所には常在の刀を勢い良くぶつけられた鼻頭を擦り、べそを掻きそうな顔で尋ねた。
「…子供ができたのでござるですか?」
混乱のあまり口調がかなりおかしくなっているが、その問いだけで、政宗はぴんと来た。
「あの馬鹿猿がばらしやがったのか…!」
「ということは、本当なのだな!」
抱きつかれ、そのまま勢いで押し倒された。
ぎゅうぎゅう抱きしめ、首筋に頭をぐいぐい押し付けてくる様子は、喜びに震える子供のままだ。これが親父ってざまかよ、と、政宗は呆れ顔で天井を仰ぎ、仕方なしに幸村の髪の背を梳いてやった。
上田に行っていた幸村の髪は、一足早い夏の香りがした。土ぼこりの臭いが、政宗にそう感じさせたのかもしれない。政宗にとって夏とは、戦の季節に他ならなかった。
天下人になったことよりも子供の時代には戦がないことが、政宗は素直に嬉しかった。
政宗は嘆息して、幸村の首筋に口付けを落として、甘い声で囁いた。
「お前も父親になるんだから、もう、家出は止めて、子供に示しのつく人間になれよ。口調ぐらい使い分けろ。家では政宗、城では殿。You see?」
そして、返ってきたのは。
「はい、殿!」
政宗は幸村を外へ投げ飛ばした。ぼちゃんと大きな水音が立った。
初掲載 2008年3月18日
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