くちなしの日々   ※死にネタ


 「先ほど、忍が連れて参りました。」
 片倉に手を引かれやって来た少年は、まだ年端も行かない童であった。年のころ4,5つといったところだろうか。政宗はその子を極力視界に入れぬよう努めながら、片倉に視線を向けた。子に関して、思い当たる節なら嫌になるほどあった。否、政宗にはそれしか、思い当たる節などなかった。
 「それで、猿飛は?」
 「あやつも、忍とはいえ股肱の臣。感ずるところがあるのでしょう。この童を預けるとすぐさま去ってゆきました。…おそらく、もう二度と生きた姿を目にすることはないかと。」
 「…そうか。」
 政宗は強く目を閉じ、観念して子へと視線を向けた。子は親譲りであろう、明るい柔らかそうな髪の毛に、丸く大きな瞳をしていた。どこにもその事実を髣髴とさせる要因などなかったが、それだけで政宗には、そして事情を全て知っている片倉にも十分であった。
 「政宗様、」
 政宗の物思う瞳に気後れしたようにではあるが、子は一歩前へと踏み出した。恐れるのも無理はないだろう。相手は敵方の武将、それも高い地位を占める者なのである。加えて佐助も立ち去った今となっては、子を庇護する者は誰もいないようにも思われた。
 子はしばし躊躇し、それから、ここに来た当初から握り締めていた花を一輪、政宗へと差し出した。白さが眩しい花弁の、目にせずともわかる強い香りのする花であった。くちなしである。
 その花を認識して、政宗はこの子が何も知らされていない事実を悟った。そして、死人に口無しとは、これが幸村の、裏切った己に対する最大の皮肉なのだろうかと思いもした。
 豊臣の世が傾き始めたことに気付いた政宗は、迷うことなく徳川と手を組んだ。豊臣に忠ずるだけの理由もなかった。そして、政宗の望みは伊達の衰退ではなく、繁栄であった。徳川と親交を深めるその一方で政宗は、ただでさえ徳川の心証が悪くまた誰よりも義に篤い幸村が徳川に下るなど思いもしなかった。豊臣に与して滅ぶのだろうと思い、ゆえにどれだけ首を捻ろうとも、政宗は幸村の隣にいる未来を描くことができなかった。此度徳川に反すれば、幸村は当然首を切られるのは間違いない。前回と違い、幸村の命を嘆願する者もいない。仮に乞う者が居たとしても、前回の助命が聞き届けられただけでも奇跡だったのである。聞き届けられる可能性は、たとえその嘆願者が政宗であったとしても、万に一つもなかった。
 だから、現状は必然であった。
 何が正解で何が不正解だったかなど、政宗にわかるべくもない。もっとも、歴史にもしもがないように、正解も不正解もまた人生にはないのだ。それでも込み上げる嘲りの笑みを堪えることができず浮かべた政宗に、子は未だ政宗の方へ花を差し出したまま告げた。
 「父上…真田源次郎幸村が、伊達政宗様に渡せと申しておりました。」
 花の香が漂った。香りの強いくちなしは、すぐ近くに生けるものではない。遠くに配して愛でるものである。政宗はすぐさまこの花を手に取り、この場所から放り出してしまいたい気持ちに駆られた。伊達の陣を少し出れば、すぐ前は崖である。その下に真田が陣を敷いていることを知っていた政宗は、ここに陣取ってからというもの極力その方へと近付かないようにしていたが、今はそれ以上に、この花がいとわしくてならなかった。崖の方へと走り寄り、この花を落としてしまいたいと思った。ただ、この花を視界から消したかった。
 政宗は衝動に駆られるまま、指先をくちなしへと伸ばした。
 「伝えて欲しいと頼まれたのです。」
 それは、指先が花へ触れる寸前の言葉であった。思わず止まる政宗に、子は告げた。
 「某は幸せだった。ただただ幸せだった、と。」


 脳裏に浮かんだのは、いつか見た幸村の屈託のない笑顔だった。それは遠い昔、まだ信玄が生存していたころのことである。信玄の没後、幸村はあのような笑顔を見せることもなくなり、そして政宗もそれほど時を置かずして上田を去った。あの笑顔は、信玄が死ぬと同時に失われてしまったことを、政宗は思い出すまでもなく覚えていた。だから脳裏に浮かんだそれは、信玄が生きているころの、幸せだったあのころのものであるはずだった。
 蝉の音、どこからか聞こえてくる水のせせらぎ。容赦なく日の照りつける縁側では、心底困った様子の幸村が政宗を見守っていた。
 『このように日差しの強いところにおられると、お身体に障るのではござらぬか。』


 あの日も、くちなしの甘い香りが漂っていた。


 「そなたとおられただけで、幸せだったと。それだけを政宗さまに伝えよと。父上はそう申しておりました。」
 力強い口調で締めくくられた子の台詞にも気付かず、政宗は呆然と立ち尽くしていた。完全に失念していた。くちなしの花ことばは、喜び、幸せな日々。それを幸村に教えたのは、他ならぬ政宗自身であった。何より、どれだけ信玄の死が影を落とし、勝つ見込みのない戦況に立たされていようとも、幸村は皮肉を告げるような男ではなかった。あれは誰よりも朗らかで直向きで、純粋ゆえに悲しい男だった。己よりも他を優先させる、この時代を生きるには優しすぎる男だった。
 政宗が唯一愛した男であった。
 「…名は、何という。」
 問いかける声は震えていたが、幸か不幸か、子はそれに気付かなかったようであった。子は丸い目を真摯に政宗へと向け、答えた。
 「真田大八と申しまする。」
 予期していたその答えに、政宗はひどく頭を殴打された気がした。


 『なあ、折衷案でこうしようぜ。』
 くだらぬ喧嘩の末に政宗が部屋を飛び出したことも忘れ、ただ一途に、こちらを気遣い見つめる幸村に、政宗は大きく溜め息を吐いた。この男に愛されていることは、誰よりも知っていた。だからこその、このくだらない喧嘩なのである。相手に譲り合いあげく喧嘩をしているなど、くだらないにもほどがある。
 再び溜め息を吐き、政宗は困ったように眉を八の字に形作ってこちらを見ている幸村に言った。
 『俺とアンタで、一文字ずつ決める。Shut up!これ以上何か言いやがったら、テメエはったおすからな?!you see?』
 何か言おうとするのを厳しい視線で制し、政宗は告げた。
 『じゃあ俺な。俺は、八。末広がりの八。縁起が良いし、ほら、アンタの今の表情そのままだぜ。もうちっと笑えよ、辛気臭え顔しやがって。』
 頬を摘みあげ左右に引っ張ると、幸村は小さく抗議の声をあげながら、政宗の指先を外した。しかしその面に、さきほどまでの躊躇いや憂いはいっさいなかった。
 幸村は柔らかく微笑み、告げた。
 『それでは某は、』


 「…大きな男に、なるように、か。」
 「はい。父上はそのように申しておりました。」
 父とはもう見えることのできない事実を、薄々ながら察しているのだろう。子が悲しそうに笑った。
 「大、八。」
 政宗は唇を噛み締め、強く瞼を閉ざした。幸村は死に、真田も滅ぶ。伊達の臣が洩らすことはない。政宗が幸村に嫁いだ秘密の過去を知る者は、こうしてどんどん減ってゆく。秘密は知る者の少ない方が良い。
 口無し。
 それは政宗にとって好都合であった。好都合であるはずだった。そうであるはずなのに何故、胸がこんなに締め付けられるように痛むのだろう。


 『知ってるか?この花のことばはな。』
 強い、甘いくちなしの香り。
 己のわずかに張った腹を壊れ物でも扱うように優しく撫でる幸村に、政宗は笑いながら囁いた。
 『幸せ。今を指すんだぜ、幸村。』


 ぽたりと一筋の涙が政宗の頬を伝い、落ちた。子が不思議そうに丸い瞳で政宗を見上げていた。どこにも政宗の血を想起させる要因はない。ただその名だけが、政宗が腹を痛めて産んだ子である証だった。
 「そう、か。」
 俯きその丸くふくよかな小さな手から受け取った花は、あの夏日を思い起こさせる甘い香りを放っていた。
 それはまごうことなく、政宗と幸村との幸せの象徴であった。











初掲載 2007年5月7日