愛してはならない人を愛するということ


 仄暗い夜だった。一見晴れ渡っているのに、夜空には星一つない。弓なりの三日月が何かを示唆するように茫洋と深黄色に滲んでいた。
 佐助のためにと用意された部屋で、静まり返った空を冴えない顔で眺めていた佐助は、膝の上においた手の中にある懐刀へと視線を落とした。懐刀をそっと引き抜き、刃毀れしていないことを確認してみる。研ぎ澄まされた刃は暗闇に白く浮かんだ。
 「佐助、」
 主の呼び声に佐助は刃を鞘に戻し、悟られぬよう懐に仕舞い込むと呼び声の方へと顔を向けた。例え己の方が格上であろうと、幸村は勝手に入室するような無粋な男ではない。まして佐助が忍とあれば、尚更だ。
 「どうしたの、旦那。」
 佐助が返事をしてやると、障子の裏で待っていた幸村は中へ入ってきた。
 「明日、甲斐に帰るであろう。帰る支度はもう出来たのかと思ってな。」
 「俺は問題ありませんよ。元々荷物もあるでなし。旦那の方こそ大丈夫ですか。」
 「いや、…ああ。大丈夫だ。」
 そう返事をする幸村の様子を、佐助は余念のない目付きで見ていた。一見、幸村の所作に異変はない。だが、佐助は幸村の中に僅かな迷いを見て取っていた。もう随分幸村は迷っている。迷い、という言葉を幸村が陥っているその状態に使うのが果たして正しいのか、佐助にはわからない。少なくとも、幸村が長いこと一つのことに関して思い悩んでいることは事実だった。
 幸村の揺らぎが伝線する気がした佐助は己の決心を固めるため、一度長く瞼を閉じ、深呼吸をしてから瞳を開けた。
 「旦那、」
 真剣な面持ちの佐助に、幸村が何かを返答するように口を開けたが、それが言葉になることはなかった。僅かに伏せられた幸村の目をしっかと真っ向から見詰め、佐助が堅い声で問う。
 「旦那は、あの人を切り捨てられますか。」
 返事はない。幸村の沈黙を予期していた佐助は、先程懐に仕舞った懐刀を取り出し、そっと畳上を滑らせるようにして幸村の前へ差し出した。幸村は信じられぬものを見るような目で懐刀を見ている。だが、その瞳に諦念が過ぎったのを、佐助は見逃さなかった。
 「来週にも武田は伊達と上杉との協定を破棄しますよ。」
 佐助自身、幸村に酷いことを告げている自覚はあった。幸村は伊達当主の政宗と関係を持っている。今回の奥州訪問も、人知れぬ逢瀬を楽しむためのものだった。だが、関係を始めた当初からわかっていたことではないかと佐助は思う。政宗は男への情ゆえに天下を諦めるような女でも、家を捨てるような女でもなかった。
 「武田のためを思うなら、斬り捨ててください。関係ごとあの人を。」
 幸村の目は、ただ静かに懐刀を見詰めている。


 己の鼓動だけが身体の芯を伝わるようにして耳に響いた。
 先程まで戯れるように幸村に身体を摺り寄せてきていた政宗は、寝てしまったようだ。隣からは微かに寝息が聞こえた。
 幸村は政宗の整った顔をひとしきり黙って見詰めていたが、ふと気付いたように汗で束になり額に張り付いた髪を優しく退けた。現れた白い額に触れるだけの口付けを落とす。
 幸村は名残を惜しむように幾許か躊躇った後、そっと政宗を起さぬように布団から抜け出した。
 カタンと障子を閉める小さな音が、夜の静寂に響いた。

 幸村の気配が完全に知覚範囲から消えた。
 政宗は閉じていた瞼を開け、暗いばかりの天井を睨んだ。その隻眼に浮かんだ色は闇を映したように黒く、混沌としていた。感情は、読めない。
 「…馬鹿な奴。」
 政宗は瞼を伏せ沈鬱そうに閉じると、寝返りを打ち幸村の寝ていた場所へと手を伸ばした。
 布団は、既に熱を失い始めていた。




 「斬らなかったんですか。」
 元より情に篤く、誰よりも武士としての礼儀を重んじる幸村が闇討ち出来るなどと思っていなかったが、流石に佐助の口調は固い。
 幸村は出迎えた佐助の問いかけには答えず、佐助が馬屋から密かに連れ出していた己の愛馬の鬣を何かを思うように梳いた。その背に荷物を載せ、自らも跨る。
 佐助は込み上げた言葉を飲み込み、幸村の後に続いた。
 空は既に白み始めている。霜の降りた道は一面白い。立ち昇る白い吐息も相俟って、佐助は甲斐ではそれ程知覚していなかった冬の訪れを痛切に感じた。間も無く北の地は雪で閉鎖され、人々は否応なしに通行を遮断される。その間、武田も伊達も戦の支度に追われることだろう。上杉との決着は近い。
 その先の未来を思い浮かべ、佐助は眉を顰め微かに視線を落とした。果たして生き残るのは武田か上杉か定かではないが、どちらかが伊達と天下を争うこととなる。
 佐助は視線を上げ、前を行く幸村の背を見やった。
 「なあ、佐助。」
 佐助の視線に気付いたわけではないだろうが、ふと、それまで沈黙を保っていた幸村が口を開いた。
 「愛おしいと思うことは、罪なのか。」
 初めから答えなど求めていない問いであることを察し沈黙を守る佐助に、幸村は小さく掠れた声で呟いた。
 「人を愛することは、…。」
 この想いが罪ならば、己は罰されるのだろう。
 幸村は二度と昨日と同じ思いを抱いて訪れることはないであろう米沢城を振り返り、次いで空を見上げた。
 銀鼠の空には、紛れるようにして白く細い月があった。











初掲載 2007年5月7日