伊勢物語第六十五段:哀歌


 震える指先を伸ばし躊躇うように触れた北国の雪の白さを髣髴とさせる頬は、血が通っていないのではないかと思わせる程冷たかった。幸村は震える息をか細く吐き出し、触れた時と同じく躊躇うようにして手を頬から離した。
 その様子を、触れられた政宗は身じろぎもせず見詰めていた。

 政宗が甲斐にやって来てから一月が経った。
 武田との戦に接戦の末敗れた伊達から、当主である政宗を人質として取ることを信玄に提言したのは軍師の山本だった。戦前の規定により武田傘下に組み込んだとはいえ、伊達は北を中心に、未だ武田に反旗を翻す可能性を捨てきれない程の絶大な力を持っていた。
 年若い幸村がそういう経緯を経て甲斐に連れてこられた政宗の元へ通うようになったのは、佐助にとって必然のように思われた。元々、戦場に置いては二つとない好敵手と互いを認め合っていた存在だ。その政宗が甲斐で不都合なことを覚えていないか、郷愁に襲われていないかと心を配るのは、幸村にとって至極当然のことだった。
 幸村の想いが、恋い慕うという色を交えたものに変わるのにさして時間はかからなかった。

 「世間でテメエが何て言われてるのか、知ってるか?」
 政宗のきつい口調に、幸村は先程初めて政宗に触れた手を、強く膝の上で握り締めた。
 その様を、政宗は全てを見透かすような深い青い隻眼で眺め、口端を弓なりに歪めた。
 「あの名高かった虎の若子は、今や敗将如きの歓心を得るため、連日進物を手に通っている。色に狂った、と。」
 世間の者が幸村のことを何と評価しようと、それが幸村の心に波及することはない。だが、かつて覚えたことがないほど強く深く狂おしい感情を抱かせる張本人である政宗の言葉に、幸村の瞳が涙を孕み揺れた。政宗の一挙一動に心は千々に裂けそうなほど翻弄され、苦痛に悲鳴を上げる。
 しかし、一生直る見込みのないほど傷つけられることを望んだのは、幸村だった。
 「…とんだ笑い者だな。」
 止めのように為された政宗の嘲笑に耐え切れず、幸村は恥辱と絶望に全身を震わせ部屋から走り去った。


 「…。」
 政宗は暫く静かに幸村が去っていった扉を眺めていたが、はっとしたように頭上を見上げ睨みつけた。
 「…。何で旦那のこと、そんなに嫌うのさ?」
 僅かな暇も置かず頭上から降ってきた声に険しい視線を向け、政宗は嘲りと共に言い放った。
 「事実しか言ってねえよ。大体、あいつは天下人に最も近しい家のやつだ。そいつに、負けた俺がどうして愛想を振りまかなきゃならねえ。」
 幸村が政宗の元に連日のように通っていることが、世の人々の間で口さがなく言われているのは確かに事実ではある。だが、そのような他人の評判に耳を貸すような幸村でも政宗でもない。言い訳のように告げられた政宗の返答に佐助の気配が僅かに身じろぎ、やがて諦めたように小さく溜め息を吐いた。
 「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ。」
 「……、…伊勢物語か。…教養のある忍なんざ使い物にならねえな。」
 眉を顰め和歌の出典を口にする政宗から見えるはずがないことを承知の上で、佐助は苦い笑みを浮かべ鷹揚に頷いた。
 「俺様もそう思う。だから、俺様が知ってたわけじゃないよ。」
 通り名である独眼竜に相応しい勇猛振りのみならず、政宗は信玄も舌を巻くほど智謀にも長けていた。同時に政の賜物か、他人の心の機微を察知し気遣うことも出来るはずだった。佐助が知る限り、慕ってくる者の想いを意味なく傷つけるような類の人間ではない。真意を求めて政宗の隻眼を覗き込めば、その瞳に浮かんでいるのは怒りや侮蔑ではなく困惑と不安であることを、幸村は気付くはずなのだ。
 だが、幸村は何も言わない。問わない。ただ、待っている。
 もしかしたら、幸村の目は何一つとして政宗の惑いを映してはいないのかもしれない、と佐助は思う。傷つくことに飢えているのではないかと、危惧を抱いた。佐助の目前で渋面をしている政宗も、同じように思っていることだろう。
 「大将があんたにそう伝えろと。それだけ言えばわかるはずだって。」
 逡巡するように面を下げた政宗は、いっそ佐助が不穏に感じるほど沈黙を保っていた。一瞬、噛み締められた唇が何かを紡ぐように震えながらも開かれ、しかし結局何一つ言葉をすることなく閉じられ、無意識のうちであろうが、ゆるりと向けられた政宗の視線の先を佐助は追った。格子の降りた窓の向こう側に真夏の眩しい日差しと青々しく繁る竹林とが垣間見える。窓から差す光を受け、いっそ青いほど政宗の顔は白く佐助の目に映った。
 「あんたは認めたくないんだろ。でも何をしたって、」
 竹林の先にある鍛錬場で、今、幸村は一心不乱に心を空にしようと双槍を振るっていることだろう。
 佐助は瞼を伏せた。
 「それ、は一層強くなるばかりらしいけど。」
 眩暈を覚えるほど強く苦しい想いを覚えた経験は、佐助にはない。断ち切ろうと欲さずに要られないほどの恐怖を、愛に抱いたこともない。
 佐助の言葉に政宗の瞳が揺らぎ、毀れた。
 滑り落ちた滴は、現実味を感じさせないほど透明で美しかった。


おとこ、「いかにせん。わがかかる心やめたまへ」と仏神にも申けれど、
いやまさりにのみおぼえつつ、猶わりなく恋しうのみおぼえけれ。













初掲載 2007年1月18日
改訂 2007年9月16日

参照 : 伊勢物語第六十五段(新日本古典文学体系)