政が男に抱かれたのは、唯一度きりのことであった。半年以上前のことになる。
政は幼い頃から男として、また君主として生きていた。その政が敵の一武将に過ぎない幸村に対して、女であることを曝け出したのみならず身を任せてしまったのは、一度きりの出会いであると信じていたからに他ならない。
その時、政は貿易のあった長曾我部にいた。政のごく個人的な訪問だ。政が城下町に着いたのは、既に夕刻に入った時のことだった。
元親が政の訪問に合わせたのかもしれないが丁度祭りの日であったらしく、町は常以上に賑わいを見せていた。政に負けず劣らず派手好きの元親に相応しく、橙の灯篭が大量に軒下に吊るされ、辺りは昼間のように明るかった。政は思わず息を呑んだ。
政は海に繋がる川の方へと歩いていった。城に向かう前に少し祭りを見て回ろうと思ったのだ。
川は所々山吹に光を反射しながら、夜を映して黒々と濁っていた。幾艘かの小船が忘れ去られたように接岸していた。
政が男に気付いたのはその時のことだった。男は岸に腰を下ろし、足を川に浸していた。南国の、茹だる様な暑い夜だ。涼を取ろうとしての行為だろう。しかし政は祭りに見向きもしない男の様子を不思議に思った。一寸後ろを振り返れば、すぐそこでは華やかな祭りが行われているのだ。だが男は祭りに背を向け、静かに海の方を眺めていた。政は首を傾げた。
だが政はすぐさま己の考えを打ち消した。誰もが政や元親のように祭り好きという訳でもあるまい。あるいは好いた女を誘ったものの振られたのかもしれない。
一人納得し、政が男から目を離そうとしたその時だった。男の足先で揺れていた草履が、川の勢いに耐え切れずとうとう流れた。草履は一瞬浮かび上がった後、黒い水底に沈んだ。それきり、草履は見えなくなってしまった。
草履を追う男と政の視線が合わさった。政はばつが悪くなり、すぐさま目を逸らした。他人の様子を窺うなど決して趣味の良い事ではない。政自身、秘密を抱えている身である。それは疎む事であった。視界の端で政に向かって男が会釈したのがわかったが、政は踵を返し、逃げるようにしてその場から遠ざかってしまった。
男に再び会ったのは、それからすぐ後のことだった。気恥ずかしさと自己嫌悪、逃げ出した決まりの悪さから、政は引き続き祭りを楽しむ気にもなれず、早々に元親の居城に向かってしまおうかと悩んでいた。時は酉の刻だ。訪問もこれ以上遅くなるようならば、招いてくれた元親に悪い。その時、政の視界に目の前の茶屋に男が入っていくのが映った。
元々政は好奇心の旺盛な方だ。先程男から逃げ出した事への負けん気も手伝い、政は暫し顎に手を当てその場に佇んだ後、男を追って茶屋の暖簾を潜った。
祭りだからだろう。店は混雑していた。その中、男は隅で団子を頬張っていた。腹が空いていたのか、勢いはあるが至極下手な食い方だった。手や口周りのみならず、男の胸元にまでみたらしは垂れていた。政が男に声をかけてみようと思ったのは、その男の着物に出来た一つの染みだった。
「兄さん。胸元、たれが垂れてるぜ。」
政が声をかけると男は驚いたように顔を上げ、それからばつが悪そうな笑みを浮かべた。それは見咎められた童のような笑みだった。
「そなたは先程の。」
「さっきは悪かった。決まりが悪かったんでな。つい逃げちまった。」
政は言いながら、男の向かいの席に腰を落ち着けた。店内は混んでいる。相席を不思議に思うはずもない。実際、男は政のことを気にした風ではなかった。むしろ、こんな夜に茶屋で男一人、居心地が悪かったのだろう。政の存在を歓迎している風でさえあった。
「あれは恥ずかしいところを見られた。」
「別にそうでもねえよ。アンタ、草履は?」
男は失くしたはずの草履をひっかけていた。先程は暗がりでよくわからなかったが、しかしよくよく見れば何となく流れた草履とは別物のようである。川で会ってから時間はさして経っていない。買うほどの暇があるようにも思えなかった。
「その、知り合いから受け取ったのだ。」
男は言葉を濁らせ、困った様に微笑んだ。政にはそれが男にとって、何か憚る事柄であるらしい事がわかった。男は未だ、政の隻眼に関して一言たりとも触れてはいない。常人であればまず政の顔から気まずそうに目を背けるか、真っ先に眼帯を着けている理由を訊いてくる。だが男はそれがまるで普通であるかのように振る舞った。政は男を粋だと思った。だから、政もそれ以上草履に関して尋ねはしなかった。
茶屋を出た後、政と男は二人で祭りを見て回った。政が男に興味を覚えたためもあるが、妙に馬が合ったのだ。気付けば夜は更け、祭りは終わりかけていた。
随分長いこと一緒に居たものだ。軒先に出店を並べていた商人達は一様に店を畳み始め、圧倒された灯篭の数は数える程に減っていた。辺りは先程の熱気を忘れた様に暗い。政は酒気を帯びて火照った肌を擦った。温い空気が纏わり付く様で不快だった。
名残惜しいが男とはそろそろ別れるべきだろう。しかし時間は大分遅い。今頃元親の居城を訪れても、先方にとって迷惑だとわかっていた。あるいは元親ならば笑って許すかもしれないが、政の矜持がその様な無粋な事を許さなかった。政は男を振り向いた。男が何処の宿に泊まっているのか、尋ねようとしたのだ。男が此処の者でないことは、先の会話からわかっていた。
「そなたは何処に泊まっているのだ?随分と遅くまで引き連れまわしてしまった。送っていこう。」
先に口を開いたのは、政ではなく男だった。
「いや。宿は決まってない。もう知人のとこに行くにも遅いしな。アンタは何処に泊まってんだ?」
政の言葉に男は顔を顰め、咎める様な視線を政に向けてきた。政は戸惑った。確かに夜も遅いが、祭りの夜だ。宿屋は未だ宿帳片手に、泊まりあぶれた者達を待っているだろう。男が言った。
「引き連れまわしておいて言うのもなんだが、女子が宿もなく斯様な夜分遅くまで出歩くのは感心出来ない。大体、男に宿を尋ねるなど勘違いされでもしたらどうするつもりなのだ。」
思いがけない返答に、政はまじまじと男の顔を見た。政の表情は、男が思わずたじろぐ程真剣だった。
「女って、」
「そなたしか居らぬであろう。」
「知っていたのか。」
男が戸惑う様に、まるで政の問いの意味がわからないとでもいう風に肩を竦めた。
「何を。…何が理由かはわからないが、男を装っているからといって隠せるものでもないだろう。」
政が伊達の嫡子に決められたのは、五歳の折である。それ以来、政は女ではなく男として生きてきた。政の抱く秘密に気付いた者は誰一人としていない。政の腹心の部下である小十郎でさえ、しばしばその事実を失念する程であった。忍でさえ悟る事は敵わない。知らされているのは幾人かの伊達重鎮と、政の妻という身分を与えられた女達だけだ。
「アンタ、」
政は、面白いと続けるつもりだった。男に、興味深いと告げるつもりであった。だが口をついて出たのはまるで違う言葉だった。
「…怖いな。」
「怖い…?俺がか?」
きょとんと目を丸くする男は年相応に若く見えた。先程政が感じた底知れぬ恐ろしさなど、何処にも見受けられなかった。政は笑った。男がどれだけの仮面を持っているのか、男の底は何処なのか。知りたいと思った。
政は男の手を掬い取り、己の指を絡めた。おとこの手だ、と政は思った。男の手は政よりも随分と大きく、指は太く骨張っていた。掌は皮が分厚い。それは政が慣れ親しんだ、武士の手だった。
「アンタの宿に連れて行ってくれよ。」
政も男も身じろぎ一つしなかった。重なった視線は離れることなく、政の心の内を雄弁過ぎる程に、男に伝えた。
政は言葉を放つため、口を開いた。酒気を孕んだ唇は情欲に濡れていた。
「アンタに、抱かれたい。」
握り締めた男の手は、酷く、熱かった。
政が元親の居城を漸く訪れたのは、巳の刻も過ぎてからの事だった。
「昨夜は何処に泊まったんだ?」
「祭りを見てたら遅くなっちまったしな。そんな時分に来るのは粋じゃねえだろ。」
政のずれた答えに気付いただろうが、元親はそれ以上何も問わなかった。唯にやりと笑った。女と遊んでいたとでも一人合点したのだろう。当たらず遠からずの真実は、勿論政の口から告げられる筈がなかった。
その夜、政は元親の紹介で、思いもかけず再び男に会うこととなった。男は武田の武将で、真田幸村と名乗った。先の戦で幸村に出会い、その武と心意気を気に入った元親が今夜城に招いたのだという。
「政宗も気に入ると思ってよ。」
元親の予想だにしない悪戯を、常であれば興に思っただろうが、場合が場合だけに政は返す言葉が出来なかった。対する幸村も驚きに目を見張り、まんじりともせず政を見詰めた。
「政宗殿………ということは、…こちらが奥州の、」
「そうよ。奥州筆頭。独眼竜。伊達政宗ってな。」
二人の戸惑いを知る筈もない。元親が陽気に笑った。政は瞑目した。
会見は最後まで何事もなく進んだ。大事の前の小康状態の様に、淡々としたものだった。元親は「当てが外れた」とぼやいた。政も幸村も昨夜の事を一切口にする事はなかった。
米沢と上田は遠い。遠いには違いないが、しかし四国を思えば大したことのない距離である。だが政が、政の秘密を知っている幸村を忌避したこともあり、二人は会う事なく半年が過ぎた。
書状をしたためる手を休め、政は腹を擦った。
近頃政は身体に違和感を覚えていた。乳房が膨らみ、肉体は女らしく丸みを帯びてきた。何より顕著なのは腹だった。張り出た腹に、政は漸く己の失態を悟った。あの一時の交わりで、政は幸村の子を孕んだのだ。
あれから半年が経った。後四月もすれば、政は子を産み落とすことになる。今は、側室という名で飼っている影武者と入れ替わっているが、当然、政の秘密を知っている者達は誰が父親か問い詰めるだろう。孕んだのは、政の子を孕む筈のない側室ではない。伊達の君主である政なのだ。
ことりと何かが当たった。政は胎で子が動いたのだと悟るのに、随分と時間を費やした。その間に、ぽたりと紙面に墨が垂れた。政は眉を顰め、書き損じた文を捨てた。幸村に宛てた文だった。
政は既に孕んだのが身体ばかりでないことを知っていた。
初掲載 2006年11月17日